水攻め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:55 UTC 版)
豊臣方の石田三成は、城攻めが上手くいかないので、近くの小山に登り地形を鳥瞰して研究し、備中高松城の戦いに倣って水攻めにしようと考え付いた、と『関八州古戦録』や『成田記』には記されている。実際には三成が水攻めに批判的で、もっと積極的な攻撃が必要とする書状を6月12日に送ったのに対し、秀吉が改めて、三成に水攻めの注意点を事細かに指示した書状を送っている。これらの同時代史料から見る限り、水攻めを主導したのは秀吉であって、三成ではない。すなわち、秀吉は完全なる殲滅戦を意図しておらず、終始水攻めを命じ、三成はそれを実行していたに過ぎない。さらに、6月13日に三成が浅野長政と木村重茲に出した書状を見ると、三成は具体的な戦術については、浅野の指示をたびたび仰いでいるという事実が確認される。具体的な方策として、三成は城を中心に南方に半円形の堤防を築くことにした。近辺の農民などに昼は米一升に永楽銭六十文、夜は米一升に永楽銭百文を与え昼夜を問わず工事を行い、4~5日という短期間で堤防を築いた。全長28キロメートルにもなる石田堤と呼ばれる堤防を築き、利根川の水を利用した水攻めが始まった。ところが予想に反して本丸が沈まず、まるで浮いているかの様に見えたことから忍の浮き城と呼ばれた。 6月18日、降り続いた豪雨の影響で本丸まで水没しそうになったが、これを防ぐ為に下忍口守備の本庄泰展は配下の脇本利助、坂本兵衛らを堤防破壊に向かわせた。2人は夜半に城を抜け出し、堤防を2箇所破壊、これにより大雨で溜まりに溜まった水が溢れ出し、豊臣軍約270人が死亡、これにより水の抜けた忍城周辺は泥沼の様になり、馬の蹄さえ立たない状況になった。
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「水攻め」の例文・使い方・用例・文例
- 城を水攻めにする
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(侵攻) | 進攻 火攻 水攻め 後攻 攻落 |
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