水攻め前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:55 UTC 版)
豊臣軍は館林城・忍城を攻略するために、6月5日頃に石田三成・大谷吉継・長束正家を派遣した。6月4日に三成は館林から忍へ移動し、城の大宮口に本営を設け攻撃をしたが、城の守りが固く容易に陥らなかった。当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢の浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。6月12日に秀吉から石田三成に水攻めをするように指示があり、翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。石田は浅野長政と木村重茲両名に、忍城攻撃の指図を仰いでいる。 鉢形城は6月14日に降伏開城し、浅野長政と真田昌幸は忍城包囲軍に戻った。 6月17日に三成は丸墓山古墳に陣を構え、大谷吉継・長束正家・直江兼続・佐竹義宣・宇都宮国綱など配下の軍勢により忍城を包囲した
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