まえだ‐としいえ〔まへだとしいへ〕【前田利家】
前田利家
前田利家
前田利家
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前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。加賀藩主・前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。
注釈
- ^ 15,6点から20点ほど確認されている前田利家画像の中でも、古くからよく知られた肖像画。中世より加賀の海に関わる豪商で、江戸時代に宮腰町々町年寄を務めた中山家に伝来。同家は、天正11年(1583年)における利家の金沢入国時に先導をしたとされ、本図もこの時賜ったと伝えられる(村上尚子「前田利家画像に関する基礎的調査」『石川県立美術館紀要』第19号、2009年4月30日、pp.12-13。なお同論文は、利家画像を網羅的に掲載・解説している)。
- ^ 『加賀藩史料』によると、信長の伯父津田孫三郎信家を烏帽子親としてその偏諱を受けたとある。なおこの信家は岩倉城主・織田信安の子・織田信家と思われるが、伯父ではなく信長の従兄弟(叔母の子)であり、信長の伯父・津田孫三郎(織田信光)と混同した誤りであると推定される。
出典
- ^ 岩澤 1988.
- ^ 桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店、1975年。
- ^ a b 岩澤 1988, p. 292.
- ^ 花ヶ前 2001, p. 11, 「前田利家とその時代」.
- ^ a b 花ヶ前 2001, p. 12, 「前田利家とその時代」.
- ^ 花ヶ前 2001, p. 93, 木越祐馨「前田利家と一向一揆」.
- ^ 花ヶ前 2001, p. 75, 見瀬和雄「前田利家の領国経営」.
- ^ 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』学習研究社、2001年1月。ISBN 4059010251。
- ^ 瀬戸薫「金沢城と前田利家」『加能史料研究』597号、2008年。(所収:大西 2016)
- ^ 大西 2016, p. 14-16, 「織豊期前田氏権力の形成と展開」.
- ^ 国書刊行会『史籍雑纂. 第二』「当代記」
- ^ 花ヶ前 2001, p. 43, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」.
- ^ 宮本義己「豊臣政権下における家康の危機」『大日光』67号、1996年。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年。
- ^ 岩澤 1988, p. 184.
- ^ 岩澤 1988, p. 185.
- ^ 千葉一大 著「豊臣政権と北奥大名南部家」、山本博文・堀新・曽根勇二 編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年、92頁。
- ^ 瀬戸薫「前田利家と南部信直」『市史かなざわ』5号、1999年。
- ^ 矢部健太郎「太閤秀吉の政権構想と大名の序列」『歴史評論』640号、2003年。のちに矢部健太郎『豊臣政権の支配秩序と朝廷』吉川弘文館、2011年。に所収
- ^ 上杉家への代替地は東蒲原。のちに藤田信吉が津川城に入る。(『管窺武鑑』上杉博物館『国宝 上杉家文書』など)
- ^ 宮本義己「徳川家康の豊臣政権運営―「秀吉遺言覚書」体制の分析を通して―」『大日光』74号、2004年。
- ^ 三池純正『敗者から見た関ヶ原合戦』洋泉社、2007年、68-69頁。
- ^ 三池純正『義に生きたもう一人の武将 石田三成』宮帯出版社、2009年、97頁。
- ^ a b 岩澤 1988, p. 283.
- ^ 岩澤 1988, p. 287-288.
- ^ 乃至政彦『戦国男色の俗説-知られざる「武家衆道」の盛衰史-』洋泉社、2013年 。
- ^ 花ヶ前 2001, p. 45-47, 宮本義己「前田利家と豊臣秀吉」.
前田利家
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秀吉の親友。槍の名手で正之進のリハビリに付き合ううちに心を通わせていく。
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前田利家(まえだ としいえ)
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「風が如く」の記事における「前田利家(まえだ としいえ)」の解説
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前田利家
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前田家を治める大名。かつては「槍の又左」と称されるほどの猛将だったが、作中(1580年代中盤以降)ではプライドばかり高く周囲を気にする小心者であり、慶次と対比して器量の狭い人物として描かれている。そろばんがトレードマークであり、それは別のゲームなどにも流用された。「俺は今まで誰からも好かれた事がない」と自認しており、万人から愛される慶次に嫉妬すると同時に自身の地位を脅かす最大の内敵と恐れている。
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前田利家
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「徳川家康 (山岡荘八)」の記事における「前田利家」の解説
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前田利家
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織田家の武将。若年の頃から多くの戦功を立て、織田家中きっての武辺者として知られる。政治的な才智は乏しいが、無骨な武人であるだけに朴訥な性格で信義に篤い。秀吉とは少壮の頃から中が良く、織田家の譜代の出身でありながら秀吉の出自に偏見を持たず、無二の親友同士として相契った。
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前田利家
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足軽時代からの秀吉の親友で、助け合って立身出世した。豊臣の天下というただ現実の現象を守ろうという穏健派。保守的な平和愛好癖がある。理知的でなく常識家。
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前田利家
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勝家の与力。通称犬千代。上司・勝家を好ましく思う一方、かつて隣人だった秀吉にも友情を感じており、両者の対立に心を痛めている。賢さと純真さを兼ね備える、寡黙で一本気な人物。秀吉曰く、「俺にはない部分だけでできているような男」。
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前田利家(声:高木渉)
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「決戦III」の記事における「前田利家(声:高木渉)」の解説
織田家家臣。傾奇者という設定で口が少々荒い。例「命が惜しけりゃどきやがれ!!」「ざっとこんなもんよ!!」など。これらの言動は尊敬する青年期の信長の真似をしているからである。槍を振るい臆することを知らない猛者。主な兵種は槍足軽、槍騎馬と槍を得意とする。ちなみに初期は目に隈取りが入っているが、4章の京入りからそれが無くなる。武将系統は「猛将」。
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前田利家(まえだ としいえ)
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「テンカイチ 日本最強武芸者決定戦」の記事における「前田利家(まえだ としいえ)」の解説
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前田利家(まえだ としいえ)
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「センゴク」の記事における「前田利家(まえだ としいえ)」の解説
通称は又左衛門。羽柴家とは家ぐるみの交流があり互いに「藤吉どん」「又左どん」と呼び合う仲。物語冒頭にて成政と母衣衆の赤母衣衆筆頭に登用され、長篠の戦いでは鉄砲奉行を務める。その後は、柴田勝家の寄騎として北陸方面侵攻中。
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前田利家(戦国鎧メカ:紫槍)
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「婆裟羅2」の記事における「前田利家(戦国鎧メカ:紫槍)」の解説
45歳。幼名を犬千代。赤母衣衆筆頭で「槍の又左」の異名を持ち戦場では姿を見ただけで敵兵は震え上がったという。人とは異なる才能を非常に愛し独特の美のセンスを持つため織田家の中で異彩を放つ。それゆえ異能を放つ秀吉とは仲が良く「藤吉郎」、「犬千代」と呼び合う仲である。その仲の良さを佐々成政は腹を立ててよく噛み付いてくるが、利家自身は相手にしていない。幼少から信長の小姓として仕えるが、若い頃、信長の同朋衆を斬ってしまい織田家を追放され、その時に陰日向に尽力してくれた柴田勝家と森可成の二人を「おやじ殿」と呼んで慕っている。史実通りの傾奇者だが、むしろオネェ系に近い。
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前田利家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:41 UTC 版)
家康に次ぐ五大老の重鎮で、北陸を領する大大名。秀吉とは織田家の将校であった頃からの親友同士であり、秀吉は篤実で情義に篤いこの友人を大身させ、潜在的な脅威として恐れる家康の牽制役として常に遇し、秀頼の後見を頼んで息を引き取った。三成も最も恃みにしていた人物であったが、しかし老衰が甚だしく秀吉の死の翌年に後を追うようにして世を去る。
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