木下家定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 13:54 UTC 版)
木下 家定(きのした いえさだ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。備中国足守藩初代藩主。足守木下家初代。晩年は出家し、法名は浄英(紹英)。
- ^ a b 『尾張群書系図部集』では、林弥七郎の娘とする。
- ^ 諱は不明。兄の家定とは不和で、加藤清正に仕えた。
- ^ 高柳 & 松平 1981, p.83, 84。桑田 1971, p.50
- ^ 長久手の戦いで戦死した武将木下祐久と同一人物とする異説もある[3]が、桑田忠親はこれを誤説とする。
- ^ 女の姉妹の出生年が不明のため。姉とする説もある。
- ^ ただし杉原氏、木下氏の系図に「やや」に関する記述がなく、別に浅野氏の系図には、ややの父は浅野長勝で、母はその先妻の勝福院(樋口美濃守の娘)であると記述するものがあり、ややは長勝の実の娘で、おねとは義理の姉妹だったとする説もある。
- ^ 家定の生母が杉原氏ではない説では血のつながりはないわけであるが、その説の方が再び杉原氏の娘と結婚させた理由に合理性がある。
- ^ 母の兄で、家定から見れば、伯父にあたる。
- ^ 『木下家譜』では、利房、延俊、俊定、秀秋、出雲守、僧は雲照院を生母とし、勝俊と秀規を異母とする。『寛政重修諸家譜』等諸系図では、利房、延俊、秀秋だけを雲照院が産んだ同母兄弟とし、残り全てを異母兄弟とする。
- ^ また大坂の役で豊臣方で従軍した七男秀規は、公儀をはばかって諸系図より除かれている。
- ^ a b c d e 高柳 & 松平 1981, pp.82-83
- ^ 堀田 1923.
- ^ 「豊臣姓 三善姓 良岑姓 飯高姓 高橋姓」『寛永諸家系図伝』 。2024年1月6日閲覧。
- ^ 経済雑誌社 編『国史大系 第10巻 公卿補任中編』経済雑誌社、明治31。doi:10.11501/991100。NDLJP:991100。
- ^ 高柳 & 松平 1981, p.84
- ^ 誤用であるが、秀頼の母の意味で、ここでは高台院をさす。
- ^ 堀田 1923, p.170
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