立花宗茂とは? わかりやすく解説

たちばな‐むねしげ【立花宗茂】


立花宗茂

作者大栗丹後

収載図書戦国武将まんだら―秘本三十六人伝
出版社春陽堂書店
刊行年月1999.8
シリーズ名春陽文庫


立花宗茂

作者海音寺潮五郎

収載図書剣と笛―歴史小説傑作集
出版社文藝春秋
刊行年月2002.1
シリーズ名文春文庫

収載図書九州戦国志
出版社PHP研究所
刊行年月2008.12
シリーズ名PHP文庫


立花宗茂

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立花 宗茂
高野山 大圓院所蔵
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄10年8月18日[1](1567年9月20日)
死没 寛永19年11月25日(1643年1月15日)
改名 吉弘千熊丸(幼名)→高橋弥七郎→統虎→戸次統虎→立花統虎→鎮虎→宗虎→正成→親成→政高→尚政→俊正→経正→信正→宗茂→立斎(号)
別名 通称:弥七郎、左近将監、羽柴柳河左近侍従、立左、飛騨守(殿)、立飛州、飛弾入道・宗茂入道
渾名:西国無双(西国一の弓取)、九州の逸物(九州の鶚鷹)[2]、鬼将軍[注釈 1]、武神[注釈 2]、飛将軍[注釈 3]、常勝将軍[注釈 4]
神号 松陰霊神[8]
戒名 大円院殿前飛州太守松隐宗茂大居士
墓所 東京市下谷区の圓満山廣徳寺
福岡県柳川市の福厳寺
官位 左近将監、従五位下侍従→従四位下、飛騨守
贈従三位
幕府 江戸幕府 書院番頭(慶長8年(1603年) - 慶長12年(1607年))
主君 大友宗麟→義統→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光
藩 陸奥棚倉藩主→筑後柳河藩主
氏族 高橋氏、立花氏(藤原氏秀郷流大友氏支族)
父母 父:高橋鎮種(紹運)
母:斎藤鎮実の妹・宋雲院[注釈 5]
養父:立花道雪
兄弟 宗茂、直次、甲斐/信解院[注釈 6](立花成家室[13][14])、於千代/栄長院[注釈 7](小田部統房室)、瑠璃/退清院[注釈 8][注釈 9][16](大友義乗室)、嘉也/慈光院[注釈 10](立花親家室後に細川興元室)[18]、
市郎丸(統重)[異説]、某[異説][注釈 11]
妻 正室:立花誾千代(立花道雪の娘)
継室:矢島秀行[注釈 12]の娘・八千子[注釈 13]
継々室:葉室頼宣の娘・菊子[注釈 14]
子 養子:忠茂、本多俊次室[注釈 15]、小野茂高室[注釈 16]、嘉也、伊達宗勝継室[注釈 17]、菜緒[注釈 18]、矢島重武室[注釈 19]
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立花 宗茂(たちばな むねしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊後国国東郡筧(現在の大分県豊後高田市)に生まれる。大友氏の一族で重臣。陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にも10名程いるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である[30][疑問点] 。

なお、宗茂は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えているが、本項では便宜的に宗茂で統一する。

生涯

生い立ち〜立花家相続

永禄10年(1567年)8月18日[注釈 20]、豊後・国東郡筧(大分県豊後高田市)に大友氏の重臣の吉弘鎮理(のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる[32][33]。幼名は千熊丸で[34]、後に弥七郎と改める。永禄12年(1569年)、父の鎮理が前年に高橋鑑種が討伐されて絶えた高橋氏の名跡を継いだため、高橋氏の跡取りとして育てられ、主君大友義統より編諱を賜り元服し高橋統虎(むねとら[注釈 21])と名乗る。

天正9年(1581年)、7月27日[注釈 22]、実父紹運の手勢の一部を率いて、友軍の立花道雪とともに出陣し、秋月氏と筑紫氏らとの第二次太宰府観世音寺の戦い(第二次太宰府石坂[35]の戦いとも)[36][37][38]で初陣を飾り[注釈 23]、150人を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前守の左腕に鏑矢を命中させた。左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂に組みかかって来たが、相撲得意の宗茂は彼を圧倒し、家臣の萩尾治種(萩尾大学麟可)が堀江を討ち取って手柄を立てた[40][41][42]。

同年8月、男児の無かった大友氏の重臣の戸次鑑連(立花道雪)[注釈 24]が宗茂を養嗣子として迎えたいと希望してきた。紹運は宗茂の優秀な器量[43]と、自身の長男であるという理由から最初は拒絶しようとしたが、道雪が何度も請うてきたために拒絶できず、8月18日[注釈 25]、宗茂を道雪の養子として出している[45][46][47][48][49][50]。このとき、宗茂は道雪の娘の誾千代と結婚して婿養子となり、名字も戸次(べっき)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。

同年11月6日には養父の道雪・実父の紹運と共に嘉麻・穂波の地に出陣。立花・高橋の軍勢は朽網鑑康の救援に向かう途中で、鑑康が秋月種実や問註所鑑景(統景の大叔父)[注釈 26]との原鶴の戦いで戦闘した後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に秋月軍の追撃を受けた。両方の激戦は立花高橋300余、秋月760の合わせて1,000を超える死傷者を出し、当地には千人塚の名が残された[注釈 27][52][53][54][55][56][57][58][59][60]。

天正10年(1582年)4月16日、秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍2,000との岩戸の戦いでは500の伏兵を率いて立花道雪の本隊1,000が敵軍に包囲された時、先に宗茂隊の300が鉄砲で側面から奇襲して、残る兵200は薦野増時が指揮して偽の旗を立てて大友氏の援軍が来ると見せかけ、遂に敵軍の包囲を解かせた。さらに宗茂は薦野増時・由布惟信・小野鎮幸・立花成家・由布惟明・立花統春・佐野統幸・顕孝寺存応ら1,000騎を率いて、岩門庄久辺野に砦を築いていた原田氏の将の笠興長隊300人を駆逐し150人を討ち取って、西の早良郡まで追撃し原田親秀の早良城を焼き落城させる功を挙げている[61][62][63][64][65][66]。

11月18日、立花山城で「御旗・御名字」の祝いを行い、名を戸次弥七郎から立花左近将監に改めた[31]。12月22日の宗像領侵攻にも道雪に従って出陣した[67][68]。

天正11年(1583年)3月17日の吉原口防戦にて吉原貞安を討ち取って[69][67][70][71]、4月23日宗像氏貞の居城許斐山(このみやま)城と杉連並の龍徳城を落城や降伏させた[72][73][74]。

天正12年(1584年)8月、道雪・紹運は大友氏の筑後奪回戦に参陣。宗茂は道雪出陣後、1,000程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。天正13年(1585年)3月、秋月種実率いる8,000の兵が攻め寄せて来たが、宗茂は薦野増時、米多比鎮久、十時連貞を将として、500の兵力を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計や挟み撃ちで敵本陣に同士討ちを起こさせてこれを撃破した[注釈 28][75][76][77][78]。また、同年7月上旬頃、秋月種実・宗像氏貞と内通して謀叛の素振りをみせた桜井中務・治部兄弟を粛清し[79][80]、更に西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃した[81][82]。

7月21日、秋月軍が再び立花山城を攻撃し、城下の名子[注釈 29]で交戦した。立花家臣の井手度之は敵陣に先駆けて突入し、敵兵と一騎討ちの末、相討ちとなって討死した[注釈 30]。安東俊信[注釈 31]もこの戦いで戦死したが、統虎はなおも秋月軍を撃退した。8月8日には、重臣の立花家治(大村淡路全長)が猪野方面で敵軍を撃退した[84]。

立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回したが、天正13年(1585年)9月11日に道雪が病死すると事態は急変し、筑後における大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

豊臣時代

九州征伐の戦功、独立大名への昇格

天正14年(1586年)、豊臣秀吉は惣無事令に違反した島津氏の征伐を決し、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春ら毛利勢に軍監の黒田孝高をつけ九州入りを命じた。7月 、島津忠長・伊集院忠棟ら島津軍5万が筑前国に侵攻し、実父紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にした(岩屋城の戦い)。このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し[85][86]、時間稼ぎのため重臣内田鎮家の偽降の計を用いて[87][88]、島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。

この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田信種勢2,000を伏兵で撃退し700余の首を取った。8月20日にも秋月種長隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させたが、島津軍は紹運との戦いですでに消耗しており、秀吉の派遣した毛利勢の九州上陸も間近に迫っていたため、8月24日に撤退した。このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数十の首級をあげ[89][90][91][92]、高鳥居城を攻略[93][94][95]、火計で岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている[96][97][98][99][100][101][102][103][104]。これを受けて秀吉は、黒田孝高や安国寺恵瓊に宛てた書状で宗茂を「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」、「九州の逸物」と高く評価した[注釈 32] [105][106][107]。

10月18日、宗茂は香春岳城を囲む黒田孝高・吉川広家・小早川隆景の陣を訪ね、立花城救援の礼を述べた[108][109]。秀吉に博多復興を命じられた孝高は家臣の久野重勝を遣わして町割の下検分をさせ、博多町人の還住などを進めたが、宗茂はここに薦野増時を派遣するなどして協力している[108]。

天正15年(1587年)に秀吉の九州平定で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の竹迫城・宇土城などを攻め落とした。更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏・祁答院氏・入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した[110][111][112]。

6月25日、秀吉はその功を認めて筑後国柳川8万石(天正18-19年間に実施された検地によると9万8百87石余)[113][114]を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。

肥後国人一揆討伐の戦功、豊臣姓・羽柴氏の下賜

同年9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200[注釈 33]と輜重隊を率いて出陣[115]、一揆方南関城の守将・大津山出羽守の伏兵の計を既に察知していたため、これを逆手に取り、あらかじめ自軍を三隊に分けて伏兵を配置した。これにより、小野鎮幸率いる主力隊は肥後南関を突破し、十時甚右衛門連久と中島六郎兵衛が大津山出羽守を討ち捕らえた[116][117]。 続いて宗茂は自ら先頭で指揮を取って、佐々軍の平山東[118]・西付城[119]を包囲する一揆方隈部氏配下の有働兼元軍を統増が率いる鉄砲隊で先制攻撃を仕掛けて、二備隊米多比鎮久の騎馬・輜重隊[注釈 34]が兵糧・玉薬を付城へ投込、長槍の第三陣が有動軍を引きつけて永野原において撃破し有働志摩守を討ち捕らえ、火の車に喩えられるほど激しく鉄砲を繰り出した[注釈 35][122]。その内、十時連貞・客将の水野勝成[123]、安田国継ら三将の連携も大活躍したと伝わる。

立花・高橋軍は佐々軍に兵糧を支援し平山東・西付城に入城したが[124][125]、一揆方(和仁親実・辺春親行・大津山家稜)3,000の兵に包囲された。宗茂はまず輜重を運輸した人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流して油断させ、軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で正面に和仁、左右に辺春、大津山そして後方より有働軍に挟撃され、双方の旗本武将が乱戦となる[注釈 36]。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光[126][注釈 37]を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有働下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布惟信・十時惟由の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して、一揆軍は総崩れとなった [129][130]。

その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城や軍隊の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍したが、城将の大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日13度戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている [131][132][133][134][135][136]。

この際の軍功は秀吉が小早川隆景に宛てた朱印状のなかにも名前を出して言及があり、特筆すべきものであったことが窺える。秀吉は宗茂本人にも10月12日付で感状を与えており、「今度有働付城へ兵を差し籠めるとき、一戦を遂げ、敵を余多打ち取った由、黒田孝高と毛利吉成より注進があって聞いた。今に始まったことではないが、手柄である」とその功を賞している [137][注釈 38]。

また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲中[124]に小早川隆景を義父とし、小早川秀包と義兄弟の契りを結ぶ[139]。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った[140][141][142]。

12月26日、佐々成政、安国寺恵瓊と共に一揆の首謀者の隈部親永の城村城を攻め落とし、隈部一族と家臣ら150人を預かり、翌年5月27日、柳川城東南隅の黒門にて、隈部一族の武士名誉を保つように、立花家臣と隈部一族と同じ数の12人(一説は隈部方は精鋭20名)の討手と真剣勝負、放し討ちにした[143][144]。放し討ちの場面に震撼された監察役の浅野長政は秀吉に報告した、秀吉は「さすがは立花左近である」と宗茂を讃えた[145][146][147][148][149][150]。

同年、農業用水を確保するのために矢部川を分流して、半人工運河の花宗川の開発に着手したとされる。

天正16年(1588年)5月下旬に上洛し、7月5日に従五位下侍従、28日に従四位下に叙任される。同時に羽柴の名字を名乗ることを許され、豊臣姓を下賜された[151]。

小田原征伐に参陣、西国無双の賞賛

天正18年(1590年)、小田原征伐に陣中見舞い、岩槻や江戸などに参陣[152]。2月1日、秀吉は諸大名の前で宗茂を、「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と評し、その武将としての器量を高く褒め称えた[153][154][155][156][157]。

文禄の役

朝鮮出兵ごろより宗茂は、「統虎」という名乗りから「鎮虎」(しげとら)[注釈 39])、次いで「宗虎」(むねとら)へ名乗りを改めている。

全羅道攻略に参加

文禄元年(1592年)からの文禄の役では小早川隆景を主将とする6番隊に2,500人の軍役を課せられて参陣している[注釈 40]。4月、諸将と共に東萊城を攻め落とした。6月26日、宇喜多秀家の要請で火計と釣り野伏せ戦法を使って漢城西北方の朝鮮軍[注釈 41]を駆逐した[160][161][162][163]。 漢城会議で全羅道の攻略が割り当てたられた6番隊は忠清道から南下した。 7月9日、10日の第一次錦山の戦い対高敬命7,000兵・8月9日の梁丹山の戦い対南平県監韓楯500兵・8月18日の第二次錦山の戦い対趙憲・僧将霊圭・海南県監辺応井1,300兵など朝鮮軍や義兵による度重なる攻撃で後方を脅かされ、侵攻は停滞したが、これら朝鮮軍の将を撃破して戦死させた[164][165][166][167][168]。 また、7月に遼東半島から来た明の援軍である祖承訓が平壌を攻撃したことにより主力の小早川隆景が漢城方面へ転出したため、宗茂率いる残存兵力は全羅道の入り口の錦山や茂朱の拠点を維持するにとどまったが、7月16日の平壌城の戦いは小西行長の後援として、大友義統と黒田長政と共に明の祖承訓と史儒を撃破したと伝えられる[169][170][171]。

文禄2年(1593年)、李如松の率いる明軍主力が小西行長を攻撃して平壌を攻略し更に南下を始めると、1月10日に小西行長救援のため高橋統増と釣り野伏せを連携して龍泉の戦いに明の追撃軍を撃退した[172][173][174]。

日本軍は迎撃を企画し[175]、碧蹄館の戦い[176]では宗茂と高橋統増[177]が先陣となった[178][179]。 1月26日午前2時ごろ、先に森下釣雲[注釈 42]と十時惟由[注釈 43]ら軽兵30名が敵状を偵察。敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時ごろに碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。先鋒500を率いた十時惟道[注釈 44]と内田統続[注釈 45]は、正面に少ない軍旗を立てることで[183]、査大受率いる明軍の先鋒隊500を誘致して[184]、越川峠南面の弥勒院にて正面で交戦。十時惟道・内田統続・安田国継[注釈 46]ら三将は、鉄砲組の射撃で撹乱した後、真っ先に鑓を投げて明軍の騎兵5・6騎を突落し[186]、抜刀組が斬りかかって7・80騎を討ち取った。明軍を望客峴という小山まで押し込む。ここで、査大受の本隊約3,000の明軍[注釈 47]が左右から救援に駆けつけ、十時の部隊を包囲。十時勢は明軍遼東鉄騎の三眼銃の攻撃を受けて窮地になり[187]、やがて十時は手勢を回転して明軍の中央を突破し立花勢の中備と替わる[188][注釈 48]。

そこで中備の小野鎮幸[189]・米多比鎮久[190]は弓鉄砲でこれに応戦、戸次統直[注釈 49]も強弓を引いて20余りの敵兵を射落し援護した[192]。しかし惟道は李如梅の毒矢を受け、帰陣して間もなく戦死[193][注釈 50][注釈 51]。 旗奉行の池辺永晟[注釈 52]も惟道負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中備と替わるを成功させたが、後の突撃戦で戦死した。

宗茂と統増の本隊2,000は、先鋒の惟道らと中備700の小野鎮幸・米多比鎮久を陣替する際に、統増と戸次鎮林[注釈 53]を陣頭に立て、疾風の如く馳せて左側面から敵後詰の高彦伯の朝鮮軍数百を奇襲し撃退したが、明軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる[188]。宗茂は800騎の堅固な備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈突撃し、戦果を拡大した[196][注釈 54]。 寡兵の立花・高橋勢はこの緒戦で奮戦した後、越川峠北方右側にて軍を休息させた。のち小早川隆景など日本軍先鋒隊が来ると疲労の深い立花勢を後方に下げ、西方の小丸山に移陣した[188][注釈 55]。この際、宗茂が敵軍の前にあってなお泰然と昼食を取ったとする逸話が伝えられている[197]。

午前11時ごろ、小丸山から北への丘の森陰、低地に移動し、数が多い敵軍への恐怖を鎮めるため、兵卒たちを”敵を背にして陣す”[198]と埋伏させた。高陽原にて小早川隆景の先鋒の粟屋景雄と井上景貞が明・朝鮮軍を牽制する際、戦機を捉えるように、朝とは逆に兵一人に三本の軍旗を背負し現わせて、敵軍に「日本軍は大軍である」と騙した[199]。そして先に立花成家[注釈 56]が率いる200挺の鉄砲隊で三連射[注釈 57]、長刀や長槍を高く揚げて白い刃[202]と300名ほどの将兵が被る金兜で日光を反射させ、敵の将兵の目を晦ませて左側面から突撃する[203]。立花・高橋軍は敵本陣へ強襲し白兵乱戦になるも、宗茂自身は馬に乗って飛将のように飛び出して長槍[204]や長刀を提げ、一騎駆し敵将兵15人を討ち取り[205][206]。統増も雷のような大声をあげ奮迅突撃し[207][注釈 58][209]、全軍は敵数千人を討ち取った[210][211]。

立花・高橋軍は善戦しながらも高陽原から北へ敵本陣の碧蹄館に進撃し、明・朝鮮軍を同士崩させ[212][213]、小早川隆景・小早川秀包・筑紫広門・毛利元康・吉川広家・宇喜多秀家らが三方より明軍を包囲した。このとき立花軍の金備え先鋒隊長の安東常久[注釈 59][215][216]は李如松と一騎討ちして落馬させたが、李如梅の矢を受けて戦死。その後、明副総兵楊元の援軍が来るも宇喜多軍の戸川達安と共にこれを撃退し、恵陰嶺を越え坡州への龍尾里までの追撃戦は立花軍が敵を六ヶ所破った[217]。 この戦いで、もう一人の金備え先鋒隊長の小野成幸[注釈 60][219]や与力衆の小串成重[注釈 61]・小野久八郎[221]と一門の戸次鎮林、そして高橋家中の今村喜兵衛・井上平次・帆足左平・梁瀬新介も戦死[222]し、家中の雑兵を含む500名近くを失った[注釈 62]が、李如松の親衛隊も李有升など80余名戦死した。大きな被害を出しながらも立花軍が明軍を食い止めたために戦機が生まれ、小早川隆景などの日本軍が明軍を撃破した。宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、敵の兜首を二つずつ鞍の両側に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという[注釈 63]。小早川隆景は「立花家の3,000は他家の1万に匹敵する」と評価し[224]、秀吉からも「日本無双の勇将たるべし」との感状を拝領した[注釈 64][225][226][227][228][229][230]。また、諸将からその戦功を称賛する書状も貰った[231]。

6月の第二次晋州城攻防戦では、小早川隆景などの5番隊として明・朝鮮軍の後巻き部隊を牽制し、援軍を寄せ付けなかった。

上記とは別に次の武勇伝が伝わっている。

  • 攻城戦前、晋州城東北方の星州に明副総兵劉綎ら約三万余の明軍を各地に駐屯した。6月14日、宜寧に集結していた朝鮮都元帥金命元・平安巡辺使李薲・全羅巡察使権慄・全羅兵使宣居怡・防禦使李福男・助防将李継鄭・鄭名世・慶尚左兵使高彦伯・右兵使崔慶会・忠清兵使黄進・京畿助防将洪季男・星州牧使郭再祐・倡義使金千鎰・義兵高従厚などの朝鮮軍5万余は咸安に到着して日本軍の進軍を止めさせたが[232]、日本軍先鋒隊の立花宗茂、高橋統増、小早川秀包と共に兵4千で釣り野伏せ戦法を連携してこれを敗走させた[注釈 65]。朝鮮軍の一部は15日に全州へ撤退し、金千鎰を主に一部の朝鮮軍は晋州城に入った。このため日本軍は昌原より咸安・宜寧を通過して晋州城へ進軍した。
  • 文禄2年(1593年)9月2日、問註所統景・問註所正白兄弟は小早川秀包の先鋒になって晋州城外南西方向河東郡 (慶尚南道)へ向かって二十里ほど前進する際、明の劉綎と遭遇し数百兵が戦死した、宗茂は敗れた小早川軍を救援のため劉綎と対戦し、劉綎は敗れて晋州城に退却した[236]。

停戦期間

同年後半から文禄4年(1595年)前半ごろの名は「正成」(まさなり)、さらに「親成」(ちかなり)と改めている[237][238]。

文禄3年から4年(1594年~1595年)にかけて、明・日間で講和交渉が進められていた時期、小早川隆景ら第六大隊とともに朝鮮釜山南部に築城し、亀浦倭城を築いた。隆景が途中で帰国して療養したため、後半の築城工事を担い、あわせて兵糧の輸送にもあたった。

具体的な時期は不明であるものの、1595年9月頃には日本へ帰国していたことが確認できる[注釈 66]。同文禄4年から5年まで実施された検地による一部の領地異動に伴い朝鮮の戦功で加増することを含む意味もあり、その結果俸禄は13万2千83石になって、軍役数も従前の倍にあたる5千人を賦課されることになる[239][240]。

慶長元年(1596年)、秀吉から京都聚楽第内の豪華な屋敷を与えられ、正室・誾千代とともに居住した。しかし、ほどなく秀吉は宗茂に後継者がいないことを憂慮し、細川忠興の推挙により、矢島秀行(足利義昭の子で近江矢島氏の養子となったと伝えられる)の娘・八千子を側室として迎えさせた。さらに、八千子の弟・矢島重成を立花家の家老に取り立てた。 誾千代は宗茂と別居し、柳川城南方の国境に近い宮永居館へ移った。

慶長の役

朝鮮南部倭城の守備

慶長2年(1597年)からの慶長の役では侵攻軍には編入されず、最初は2月21日の部署命令で安骨浦城[241][注釈 67]、3月28日に釜山の守備を命ぜられた[242]。9月16日、侵攻軍のうち井邑会議に参集した諸将は今後の作戦展望として連署注進状を秀吉に送っており、その中で「南部再布陣の当初計画では釜山の守備について日本と結ぶ重要拠点であるため、当初計画した若い立花宗茂から豊臣政権に信望高い老将の毛利吉成に変更したい」との要請を行い[243] 、最終的に翌年3月13日、18日に秀吉の命令で、吉成は釜山、宗茂は固城守備が割り当てられた[244]。

両度蔚山城の戦い期間

慶長2年12月22日から翌年1月4日までの第一次蔚山城の戦いでは、安骨浦倭城や南海[注釈 68]などの倭城の守備に就いており[注釈 69]、一揆掃討のため、後援部隊として釜山浦を出発したのは先行部隊より二日遅れであったが、1月2日未明には西生浦倭城に到着し先行していた諸将と合流して軍議を行って、1月4日に戦闘を参加したとされる[246][247][248][249][250][251]。

慶長3年(1598年)、3月18日に小早川秀包、筑紫広門、高橋統增と共に固城守備に任じられたが、8月25日、豊臣秀吉は再び部隊の配置を変更し、小西行長、島津義弘、加藤清正、毛利吉成、立花宗茂、高橋統増、黒田長政、鍋島直茂らを釜山の守備に転進させた。また、小早川秀包、筑紫広門、寺沢正成は対馬の豊崎において警備にあたった[252]。

9月、明・朝鮮軍による蔚山・泗川・順天への三方面同時攻勢の第二次蔚山城の戦い際には、固城または釜山の守備に就いていた宗茂は島津忠恒より泗川攻撃の通報を受けて9月28日付書状で返信を行っており[253]、戦闘には参加しなかったはずだが、実際に参加していた可能性はある[注釈 70]。

  • 両度蔚山城の戦いに参戦したと伝わっている武勇伝
    • 慶長3年(1598年)第一次蔚山の戦いの時、日本軍諸将は救援のため釜山から出て蔚山へ進軍した。1月2日、一部の明・朝鮮軍は日本軍本陣を襲撃するために釜山へ進軍、釜山より約18キロの般丹[注釈 71]に現れた[注釈 72]。本陣の宇喜多秀家は、安骨浦倭城にいる宗茂に呼びかけて釜山へ出撃を求めた。宗茂は精鋭800の兵を率いて夜襲と火計を用い、敵軍を撃破して700の首級を挙げる戦功を立てた。これは般丹の戦いと称えられたという[259][260]。続いて後援部隊として釜山浦から出発することは先行部隊より二日遅れであったが、1月2日未明には西生浦倭城に到着し、先行の諸将と合流して軍議を行った。1月4日には吉川広家[注釈 73]ら日本軍諸将と連携し、明・朝鮮連合軍を撃退した[261][262][249]。
    • 明将の麻貴率いる明・朝鮮軍29,500人が蔚山倭城を再度攻撃し(第二次蔚山城の戦い)、守備に当たった加藤清正が包囲され窮地に陥っていることを知ると、釜山で近所の日本軍諸将は会議を行う。日夜対策が評議されたがなかなか結論が出ず、議論を聞いていた宗茂もしびれを切らし「評定のみに日を送っても無駄なことです。思いますに、まず蔚山城の敵を追い払えば泗川の敵は退き、泗川の敵が退却すれば順天の敵もおのずから退却いたすでありましょう。拙者が蔚山城を救援いたしましょう」と進言した。それを聞いた総大将・小早川秀秋は「それはよいことを申された。わずか3,000にも満たない兵であれば、万一やり損なっても味方の難儀にはなりますまい」と言い放った。宗茂はわずか1,000の兵を率いて救援に駆けつけ、蔚山より約30キロの元瀆(濆)[注釈 74]というところに、まず500の兵で暁霧に乗じて奇襲を敢行し、さらに別の500の兵が鉄砲で攻撃して、明軍5,000人の先陣を撃退した。兵力は寡少であったが、引き続く追撃によって敵軍に大軍が襲来したと誤認させた。続いて、逆に自軍が寡兵であるという情報を敵陣に拡散して逆襲を誘うべく、捕虜とした敵兵40余人を解放した。その夜、偽の陣地や営火を設け、伏兵を潜ませて待ち構え、長蛇の陣形で襲来した明軍を分断し、撃破した。翌日には蔚山城より約4~8キロの全澄[注釈 75]というところに接近し、清正と挟撃して明軍を撤退させた。戦後、ともに蔚山城に入城し、清正から「日本軍第一の勇将」と絶賛された[注釈 76][269][270][271]。
  • なお、これらの武勇伝は同時代一次史料に記録が無く、話の信憑性には疑問符が付く。しかし、立花家臣の十時惟由(但馬)と米多比鎮久(立花丹波)は二人自身の覚書で両度の蔚山戦闘の記述がある[272][273]。

日本軍撤退・ 露梁海戦

秀吉が死去すると朝鮮に派遣されていた日本軍に撤退命令が下ったが、順天倭城で小西行長らが海上封鎖を受け撤退を阻まれていることを知ると、11月17日に弟の高橋統増・島津義弘・宗義智・寺沢広高・小早川秀包・筑紫広門ら巨済島に集結した軍勢と共に救援の水軍を編成した。

18日未明に順天倭城へ向かう途中に陳璘率いる明水軍や李舜臣率いる朝鮮水軍(朝鮮語版、英語版)と遭遇して戦い、行長の救出を成功させた(露梁海戦)[274]。

島津家臣の川上久国[注釈 77]が記述した『泗川御在陣記』によると、立花軍の船団は南海島に繋留され、夜間には水手を櫓や屋倉に配置して敵襲に備えて警戒していた。夜明け頃、明・朝鮮の水軍が来襲したことを最初に察知し、戦闘に入り、敵船に乗り込み一番乗りの功を挙げた立花家臣池辺貞政(彦左衛門、池辺永晟の弟)が敵に刺されて戦死した[275][276]。 立花勢の部将が敵船に乗り込み、討ち取った首級を掲げると、宗茂は船を接近させ、首級を味方の船に投げ入れたうえで速やかに帰船するよう命じたとされる。この措置により、立花勢の部将はほとんど無事だったという。 一方、高橋統増の軍勢は同様の措置を取らなかったため、敵船に乗り移ったまま帰還できなかった部将もあった、島津家の部将にも同様の例が見られたと伝えられる[277][278]。また、立花の将・小野鎮幸や立花統次らの奮戦により、明の軍船数隻を捕獲した[279]。

この海戦により、日本軍は小西行長の軍勢を脱出させることに成功した。同年11月26日、宗茂や小早川秀包ら日本側諸将は、明・朝鮮連合軍による海上封鎖を突破し、殿軍として日本へ帰還した。

関ヶ原の戦い

西軍に加わり、近江大津城攻めで活躍

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、その直前に徳川家康から法外な恩賞を約束に東軍に付くように誘われたが、宗茂は「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」と言い拒絶した。家中でも重臣の薦野増時は西軍に勝ち目なしと東軍への味方を進言したが、「勝敗に拘らず」と増時を留守に残し西軍に参加した[280][281]。そして石田三成率いる西軍に属し、伊勢方面に進出する。

その後、毛利元康・毛利秀包(小早川秀包)・宗義智・筑紫広門と共に東軍の京極高次が守る大津城を攻めた(大津城の戦い)。

9月11夜から12日の夜明けまでに、宗茂は城方の夜襲を予見し、更に家臣の十時連貞が敵将の丸毛萬五郎・箕浦備後・三田村安右衛門三人を捕縛した[282][283]。

12日の戦では高さ一間の土塁と城からの矢弾を防ぐ竹束を置いて、千鳥掛のような幅1間半(約2.7m)、深さ1間余(約1.8m)の塹壕を掘り、ここより鉄砲射撃を行わせた。養父の道雪の発案した「早込」[注釈 78]を用いた立花勢は他家の鉄砲隊の3倍速で銃撃し、城方は激しい銃撃に耐えられず鉄砲狭間を閉じた[284][285][286]。

翌13日家臣の立花成家[注釈 79]や内田統続らが城の外壁を破るに奮戦し、由布惟貞が一番乗りを果たし、続いて中江新八、清田正成らは数多く敵を斬り払うにより三の丸から二の丸まで突破したという[287][288][289]。また、「立花勢、長等山より城中に大筒を打ち入れ、これより防戦難儀にをよぶ」と伝えている[290][291][292]。

14日、毛利元康は大坂城からの使者・高野山の木食応其上人と新庄直忠を遣わし、降伏を勧めたが、高次はそれに従わず徹底抗戦の構えを見せた。その時、立花宗茂が高次の一命を助けるよう保証の書状をしたため、家臣の世戸口政真に命じて矢文で大津城に放たせたところ城内に立つ高次の馬印に見事命中し、その書状の内容を読んだ高次は宗茂の厚情に感じ入り、かつ周囲の説得を受けて遂に降参した。宗茂は一族の立花政辰[注釈 80]を人質として城中へ送った一方、15日に高次は園城寺に入り、剃髪染衣の姿になって下城したので宗茂はこれを受け、高次の身柄を高野山へ送った[293][294][295][296][291][297][298]。

しかし9月15日の関ヶ原本戦には大津城を攻めていたために参加できず、本戦での西軍壊滅を知って大坂城に引き返した[299][291]。

柳川に帰国・抗戦・降伏

大坂城に退いた後、宗茂は城に籠もって徹底抗戦しようと総大将の毛利輝元に進言したが[300][283]、輝元はその進言を容れずに徳川家康に恭順したため、宗茂は自領の柳川に引き揚げた[281]。この際、配下の鶴田四郎左衛門と風斗長左衛門両名に命じて大坂城に人質になっていた母・宋雲院と島津義弘内室を脱出させると島津夫人を島津邸に送り届け、宋雲院を伴い柳川への帰途に着いたが、犬子島(現在の大阪市西区江之子島)の関にて番卒がこれを誰何し宋雲院を抑留しようとした際には宗茂は番人全て踏み殺して急ぎ馳せ過ぎよと命じ、関を破って柳川への海路についた[300] [301] [302][303]。なお、柳川に引き上げる時に実父の高橋紹運の仇である島津義弘と同行した。関ヶ原で兵のほとんどを失っていた島津義弘に対し「今こそ父君の仇を討つ好機なり」といきり立つ家臣たちの進言を「敗軍を討つは武家の誉れにあらず」と言って退け、むしろ島津軍の護衛を申し出でて義弘と友誼を結び、無事に柳川まで帰りついた[304][305]。

国許でも戦が起こっており、黒田孝高(如水)・加藤清正・鍋島直茂が柳川を攻める形勢となった。このとき、息子の鍋島勝茂が西軍に加担したことを挽回しようと懸命だった直茂率いる鍋島勢32,000[注釈 81]は10月14日、二手に分かれて佐賀を進発した。これに対し立花勢は迎撃のために出陣するが、家康への恭順を示すため宗茂は城に残った。立花勢13,000のうち、城を出て八院方面へ出陣したのは家老の小野鎮幸を総大将とする約3,000[注釈 82]である。鍋島軍は、10月16日には筑後川を渡河して立花方の海津城を落城させ、続いて10月19日朝には先鋒隊3,000が立花成家勢200の鉄砲奇襲を受け20余人が討たれたが城島城を攻略[306]、翌10月20日に鍋島軍の先鋒軍3,000-5,000と立花勢の小野鎮幸軍1,300と激突した(江上・八院の戦い)。

立花勢先鋒の安東範久[注釈 83]・石松政之[注釈 84]らは鎮幸の与力・松隈小源の軍令誤伝のせいで、軍法を破って独断で開戦し[307]、次々と鍋島勢の軍陣の中へ突入し、先鋒第三隊の立花統次は鍋島軍の陣中深くまで進んで奮戦した。鍋島勢の先鋒軍は、12段の陣立てのうち9段まで打ち破られ、先鋒大将の鍋島茂賢も本陣・五反田まで退却したと伝えられている。しかし、鍋島方は、立花勢を包み込んで包囲殲滅する作戦を当初から立てており、立花方は一騎駆けで敵軍に突撃した立花統次の戦死を始め、先鋒の安東範久・石松政之もたちまち反撃を受けた。救援出陣の第二陣立花鎮実[注釈 85]と立花親雄[注釈 86]や新田鎮実は横合から果敢に攻めかけたが、これも後を断たれて共に戦死した。後陣の矢島重成[注釈 87]と千手喜雲[注釈 88]は戦を躊躇し接戦していないため[308]、馬廻衆の安東幸貞[注釈 89]、第三陣の若武者の十時惟久[注釈 90]、先鋒の安東範久、石松政之も次々と戦死した[309]。総大将の小野鎮幸は本陣前の橋を堅守して鍋島勢の包囲を受け勇戦奮戦したが、鍋島軍の反撃を受け、供回りが14・15人になるまで討ち取られた。小野自身も銃創と矢傷を負い、討死寸前となったが、水田方面の黒田如水軍を偵察していた立花成家が別動隊300を率いて敢然と奇襲をかけ鍋島勢を混乱させた隙に無事撤退した[310]。10月21日立花勢は十時惟種[注釈 91]、清水連元、足達勝右衛門らが兵300を率いて、北の蒲池城の鍋島軍からの挑発に対し、応戦して数人を討ち取った[311][312][313][314][315][316]。

立花勢は柳川城へ篭城する構えを示したため、鍋島勢はそのまま柳川城を攻め落とそうとしたが、鍋島直茂がこれを抑え、黒田如水・加藤清正が、宗茂を説得[317]に動き、25日宗茂は降伏開城した[318]。島津義弘は国許へ帰ると、宗茂から受けた恩義に報いるために柳川への援軍を送った。しかし、援軍が柳川へ到着したのは開城から3日が過ぎた後だったという[304]。

宗茂は黒田如水、加藤清正、鍋島直茂ら4万の軍勢に先鋒として加わり、島津征伐のため肥後路を南下した。なお宗茂はこの間、島津義久、義弘、忠恒に宛て徳川方との和睦を勧める書状を送っている[319]。11月には島津との国境である肥後国の水俣まで進軍するが、家康による停戦命令を受け軍勢は解散した[320]。

同年11月上旬の書状で、それまでの「親成」を改めて「政高」(まさたか)と署名しているが、程なく11月下旬までには尚政(なおまさ)の名乗りを用いている[321]。

12月には大坂に上り、黒田長政と面談した。そのまま上方に駐在し戦後処理の沙汰を待ったが、本領の柳川を召し上げられ改易となった[319]。

江戸時代

改易された浪人期間

改易後は浪人となり、加藤清正の領地である肥後国の高瀬に仮寓した。その器量を惜しんで清正や前田利長から家臣となるように誘われるが、宗茂はこれを謝絶した[322][323]。そこで清正は家臣にすることを諦め、食客として遇したという。その後、清正の元を離れ、由布惟信・十時連貞ら付き従う家臣を引き連れ浪人の身で京都に上る。

正室の誾千代は立花家改易後、肥後国玉名郡腹赤村の市蔵宅(現・熊本県玉名郡長洲町)に移り住んでいたが、慶長7年(1602年)7月ごろから病を患い、10月17日に死去した。享年34。誾千代の死により、養父の道雪の血筋は途絶えた。

大名として復活・大坂の陣での活躍

誾千代が没してから、慶長8年(1603年)江戸に下った宗茂は本多忠勝の世話で、由布惟信・十時連貞など従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎として蟄居生活を送り始め、慶長9年(1604年)忠勝(一説は本多正信)の推挙で江戸城に召し出される。宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されることになり、まもなく嫡男の徳川秀忠の御伽衆に列せられて[324]慶長11年(1606年)、陸奥棚倉(南郷)に1万石を与えられて大名として復帰した[325]。このころの名は「尚政」より「俊正」(としまさ)と改めている[326]。のち慶長15年(1610年)7月25日には更に陸奥赤館・上総山辺郡2万石の加増を受けて最終的に3万石の領地高となり[327]、このころから「宗茂」と名乗っている。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で大御所・家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たったという[328]。そして翌年の大坂夏の陣は2代将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し[329][330]、大野治房の軍勢動向を予言し的中させ、また秀忠軍の進退を指導した[331][332]。さらに豊臣秀頼が出陣しないことも予言し的中させた[333]。戦いの末、毛利勝永の軍勢を駆逐している[334]。

旧領柳川への復帰と幕府相伴衆としての活動

元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ[335]、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となった。元和8年(1622年)、飛騨守に転任。また戦国武将としては世代が若く、伊達政宗や加藤嘉明・丹羽長重らとともに、徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たした。

なお、相伴衆となった晩年は秀忠・家光に近侍して重用されたようで、将軍家の能、狂言、茶会の席や諸大名の屋敷が完成した際の披露会、上洛、大坂行き、日光社参など様々な行事に随伴している。またこのころには、健康状態(歩行)になんらかの困難があったため国元にはほとんど帰れず、特に家督を譲った後はその傾向が一層強くなり、江戸に屋敷を構えて定住して本領の統治にはほとんど関与せず、幕府の中枢を知る人物として地方の大名とのパイプ役を果たしている。

島原の乱に参陣・晩年と逝去

寛永15年(1638年)2月6日、前年勃発した島原の乱にも参陣し[336]、軍事進言や兵糧攻めの戦略面の指揮など、総大将の松平信綱を輔佐した[337][338]。2月11日、城兵の様子から、黒田軍と寺澤軍への夜襲を予告し、それが的中し撃退したため、家臣たちは宗茂の観察眼の鋭さに舌を巻いたという[339][340]。 2月27日・28日の原城総攻撃の際には、立花勢が三の丸[341]、続いて本丸一番乗りを果たし[342]、采配を振るう昔日の勇姿を示したため、諸大名家の武将から「武神再来」と嘆賞されたとする逸話も伝えられている[343]。

生涯を通じて実子に恵まれなかったので、同年に家督を養子の忠茂に譲って致仕、10月20日に剃髪し「立斎」(りっさい)と号す[344][345]。寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去した。享年76。戒名は大円院殿松隠宗茂大居士。俗名の宗茂がそのまま入っているのは、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、変えるに変えられずそうなった、との逸話が伝わる。

墓所、死後

墓所は福岡県柳川市の福巖寺と圓満山廣徳寺(東京市下谷区)。

文政3年(1820年)6月8日には宗茂に松陰霊神、妻の誾千代に瑞玉霊神の神号が贈神された[8]。

また柳川城の北東(鬼門)に鎮座する三柱神社に、養父の立花道雪と妻の立花誾千代と共に祭神として祀られている。武神軍神、水利・干拓・開田・郷土繁栄・蘇生の守護神として、近年では功績をもって必勝・就職・再就職・復活の社として崇敬されている[346]。

官位履歴

[349][350][351]

才能

内政面

宗茂が柳川13万2,000石を領有すると、重臣たちを配して柳川城の南北に位置する支城を預け、守備にあたらせた。

また、城島城の支城である海津城 (筑後国)には増時の子・立花成家、松延城の支城である今古賀城には鑑貞の兄・立花鎮実を配し、堅固な領国防衛線を構築した。


1587年から1600年にかけては、基本的な検地を実施したほか、戦略上の必要性を失った砦や地侍の居館を撤去して田畑へと転用し、荒野の開墾・開発を進めた。また、柳川城やその天守の基本的な修築や水堀・水路の改修計画を進めるとともに、橋梁の整備も行った。柳川領内で有名な欄干橋の「擬宝珠」は、慶長4年(1599年)に完成した[356][357][358]。 この間、柳川周辺で長年住民を苦しめてきた水害への対策にも取り組んだ。柳川周辺を流れる矢部川とその支流は、この時期に宗茂が行った治水事業によって基盤が整えられ、農地の開墾や漁業の発展にもつながった。

  • 朝鮮出兵からの帰国時に朝鮮松20株を持ち帰り、矢部川沿岸に植樹した。これらは「朝鮮松原」と呼ばれ、河道の安定に役立てられたという[359][360][361]。
  • 朝鮮人参の苗を持ち帰って栽培した[362]。
  • 稲を食害する害虫を捕食する「朝鮮ガラス」を領内に放したとも伝えられている[363]。
  • 朝鮮の陶工を招いたことで、柳川では「男ノ子焼」が発展し、現在も地域の重要な文化資産となっている[364][365]。

しかし、この時期は朝鮮出兵によって領国経営に十分な時間を割くことができず、立花家改易後には田中吉政がその後を引き継ぎ、柳川の領国整備を進めた。

  • 田中家の時代に続けて整備した福岡県の筑後地方南部を流れる矢部川の支流の一つである「花宗川」は、立花宗茂による治水事業の功績に因んで真ん中の2文字を取って名付けられたものである[366]。


宗茂は領内において、寺社の建立・再建・修復にも力を入れた。愛宕社、梅岳寺、真教寺、紹運寺、良清寺、光照寺、西琳寺、光国寺、祇園社などを整備し、領国支配において宗教を重視する典型的な統治を行った[367]。


関ヶ原の後の柳川城攻防戦で、宗茂が親交のあった加藤清正の勧告を受けて開城を決意した際、戦を避けられることを喜ぶはずの筑後四郡の領民達は、宗茂に対して「我々領民の忠義は武士に劣るものではなく、人数も不足しておらず、兵糧として米も差し出す、殿様のためなら命も惜しまない、どうか早々に降伏しないでほしい」と訴えたという。これに対して宗茂は、「皆の心意気はよく分かった。しかし今回の開城は、皆を戦乱に巻き込みたくない、皆の家業と暮らしを守るためである。たとえこの地の領主が変わったとしても、各々励んで産業を盛んにしてほしい」と答えたとされる。領民たちはこれを聞いて涙を流し、宗茂らを見送ったという[368]。

さらに宗茂が江戸へ向かうことを決めた際も、多くの家臣を連れて行くことができなかったため、残された家臣たちは涙を流して別れを惜しみ、宗茂が領国を去った後も領民たちから深く慕われたと伝えられている。 田中吉政が柳川を治めていた時代には、宗茂を過度に慕ったことを理由として処刑された領民がいたとも伝えられる。 1620年に柳川へ再封されてから島原の乱以前にかけて、宗茂は無賦税に近い領国統治を行ったとされ、自ら率先して質素倹約を実践することで藩士を励ました。柳川の領民も、こうした無賦税の善政を宗茂の仁政として称賛したという[369]。また、再封直後に黒田長政が柳川を訪れて祝賀した際には、領民から宗茂が深く慕われている様子を目の当たりにし、宗茂の改易後に生まれた子供たちでさえ、宗茂の事績をよく知っていた。それ程までに領民からの信望が篤かったと言える[370]。


1596年には、日源上人によって筑後溝口で和紙の製造が始められ、地域の主要産業として発展していた。

  • 宗茂が1620年に柳川へ再封されると、90戸に及ぶ家内製紙業者を領内の山中・唐尾のところへ移転させ、集中的な生産を行わせたことで、当地は全国的にも知られる和紙の産地としてさらに発展した[371][372][373]。
  • また、筑後国と肥後国の境に位置する瀬高町の広瀬堰を改修し、北東から南西方向に「広瀬水路」を開削して瀬高の水田へ水を引き、重要な農業用水路として整備した。


江戸時代初期には、宗茂は大坂城や江戸城の大規模な改修普請にも相次いで参加した。これらの普請では「惣奉行」や「下奉行」として家臣を配置し、建材・石材・米穀・金銭などの調達・管理においても優れた手腕を発揮した[374][375]。

また、柳川藩は宗茂の気風を反映して尚武的な藩風を形成した。幕末期には「東に会津、西に柳川」と称され、槍術が盛んな二大藩の一つとされるほどであったと伝えられており、こうした藩風は初代藩主である宗茂の気質によるものとされている。

外交面

文禄4年(1595年)、領地である柳川が深刻な米不足に陥っていたことから、当時、筑前・筑後における検地および軍用米の徴収を担当していた小早川秀秋の家臣・山口正弘が領内から軍用米を過剰に徴収し、間接的に領地の拡大を図っていることに対して強く憤慨した。宗茂は、朝鮮で自軍が苦戦を強いられながら戦ってきたにもかかわらず、帰国後も家臣に十分な食事を与えることができない状況に不満を抱き、10月16日、弟の統増、妻の誾千代とともに伏見城を訪れ、五奉行の一人である長束正家にこの件について訴えた。これを受けた正家は宗茂に同情し、山口正弘に対して徴収した米の返還を命じた。

その後、事件をめぐる誤解の解消に加え、小早川隆景の隠居と秀秋による小早川家家督・領地の継承、朝鮮出兵における論功行賞や領地加増の問題など、複数の事情が絡んでいたことが明らかとなった。両家の対立を避けるため、宗茂と小早川隆景の間では、安国寺恵瓊を介して調停が行われ、最終的にこの事件は解決した。この一件を契機として、宗茂は北九州における政治的地位を間接的に高めることとなった[376][377][378]。


慶長4年(1599年)3月8日、宗茂は島津義弘・忠恒父子および寺沢正成とともに起請文へ連署した。これは豊臣秀吉の死後における情勢を踏まえ、九州諸大名の間で戦乱を引き起こさないことを相互に誓約したものであった。しかし翌3月9日、島津家では庄内の乱が発生した。この事件は、島津家臣の伊集院忠棟の権勢が島津本家にとって脅威となったことを背景として、伏見城において当主・島津忠恒によって忠棟が殺害されたことに端を発し、同年4月には忠棟の一族である伊集院忠真が反乱を起こすに至った。

宗茂はこの報を受けると、直ちに島津家へ使者を送り、島津領へ兵を派遣して援助する意向を伝えた。また、7月24日には島津忠恒との間で書状を交わし、事件の推移を憂慮する意を示している。

7月から10月にかけては、内大臣・徳川家康も家臣の山口直友および寺沢正成を派遣し、島津家内部の争乱の調停にあたらせたが、交渉はまとまらなかった。9月末、宗茂は上洛して徳川家康に対し、乱の経緯と自身の出兵の意図を説明した。その際、争乱が最終的に武力による討伐に至る場合には、自ら兵を率いて出陣し、事態の鎮定にあたる意向を示した。これを受けて家康は宗茂の出兵を了承し、翌慶長5年(1600年)正月には改めて山口直友を島津家と伊集院家の調停に派遣した。その結果、同年2月に島津氏と伊集院氏は主従関係を回復し、庄内の乱は終結した。

この事件を通じて、朝鮮出兵においてともに戦ったことを契機として形成されていた島津家と立花家との友好関係は、さらに深まることとなった[379][380]。


同年5月11日には、豊臣五大老による公家に対する禁制の制定にも参加し、「新公家衆御法度御請之連判」の「御禁制条々」に「柳川侍従」として署名している[381][382]。

慶長17年(1612年)1月15日、宗茂は奥州棚倉南郷領主として、「東国大名誓約条書」に「立花侍従」と署名している[383][384]。

元和2年(1616年)、宗茂は幕府の命を受け、柳生宗矩とともに坂崎直盛による千姫奪還事件の処理にあたった(坂崎事件)。表向きには柳生宗矩の働きによって解決したとされるが、実際には宗茂の智謀によって事件を収拾したとされ、事後、宗矩もその対応を称賛した[385]。

寛永9年(1632年)、筑前福岡藩主・黒田忠之と家老・栗山大膳との対立から「黒田騒動」が発生した。その深刻さから、黒田家が江戸幕府に対して謀反を企てているとの風聞まで流れた。これを受け、宗茂は細川家を通じて黒田家の情勢を幕府側に伝達し、黒田家に謀反の意図がないことを分析・説明することで、改易の危機にあった黒田家を救った。 また、細川家にとって宗茂は、細川忠興・細川忠利父子が幕府内の諸情勢をいち早く把握するための重要な情報源でもあった[386]。


寛永15年(1638年)、島原の乱が終結して間もなく、幕府軍の総大将を務めた松平信綱が乱の鎮圧に際して行動が遅かったとして、その指揮を批判する声が上がった。これに対し宗茂は、3代将軍・徳川家光に対して、「信綱殿は無用な犠牲を避け、敵が疲弊するのを待って一挙に攻め破り、見事に役目を果たした。また、戦陣のことや諸軍への配慮についての考えも拙者と一致しており、まさに殿下(家光)が信頼されるに相応しい人物である。若者たちの間では、戦功を求めるあまり、わがままな言動や誹謗が生じることもあるが、今回の信綱殿の働きこそ賞賛されるべきである」と説明した。

これを受けて家光は信綱を称賛し、褒賞を与えたことで、信綱に対する批判は収まった。信綱もこれを機に宗茂への敬意を一層深めたという[387]。また、家光は宗茂に名刀「粟田口則国」を下賜し、宗茂も返礼として名刀「則重」を贈った。この一連の出来事は、宗茂が幕府内において築いていた人脈と、外交・交渉面における力量を示すものとされる[388]。

逸話・人物

宗茂を讃える錦絵。江戸末期、歌川芳虎筆。
  • 宗茂が8歳の時、見世物があった。見物中、群集の中で争論が起り、ついには殺される者がでた。人々は慌てふためき逃げ散る中、宗茂は少しも恐れる様子もなく「今日の見世物はこれで終わりか」と付き添いの者に尋ねた。早く逃げましょうという付き添いに対し宗茂は笑って「お前たちが慌てるとはおかしな事だ。我々はあの争論の相手ではないのだから、どうしてこちらに切りかかってくることがあろうか。まだ見世物も終わっていないのに、ここから立ち去る必要もあるまい」といい、すべてを見終ってから帰ったという[43][389][390][391]。
  • 13歳の時、立花道雪の供と一緒に近くの山を散歩中、棘の付いた栗を足で踏み抜いた。当然の如く近習の者に「これを抜いてくれ」と頼むと由布惟信が駆けつけ、抜く所か逆に栗を足に押し付けた。叫び声を上げようにも近くの駕籠の中からは養父の道雪が眉を吊上げて見ており、叫ぶ事も出来ずに大変困ったと後年述懐したそうである。お坊ちゃま育ち故、立花氏に来てからは大変厳しく教育された[392][393]。
  • 立花家へ婿養子に行く際に実父の高橋紹運より「高橋と立花の間に戦が起こった場合はなんとする」と問われて、高橋に味方すると答えたところ、紹運に「養子に行ったならばもはや高橋の人間ではない。立花勢の先鋒となってわしを討ち取れ。道雪殿は常日頃から未練な振る舞いを嫌っておられるので、おぬしに不覚の行跡あろうものなら義絶されよう。その時は高橋に帰ろうと思うのではなく、この剣で直ちにその場で自害せよ」と一剣(備前長光[394][395])を渡され諭された。宗茂はその剣を紹運の形見として、終生身辺から離さなかったという[396][397]。
  • 宗茂が肥後一揆の鎮圧に功を上げ、秀吉から加増しようと言われた際
    • 「もう自分が戦うに充分な兵力を養える領土は頂いてますので結構です。それより戦の際に、先鋒に使って頂ければ相応の働きをもって答えたいと思います」と断った。そして後の朝鮮役の大一番、碧蹄館にて先陣を任された宗茂の武は日ノ本随一と称えられることになる[398][399][400]。
  • 朝鮮出兵初期、宇喜多秀家が諸将を集めて軍議を開き、太閤・豊臣秀吉からの軍勢に関する指示を待つことを求めた。諸将が議論を重ねる中、小早川隆景は宗茂に意見を求めたが、宗茂は「我ら若輩の将の意見など、参考にはなりませぬ」と謙遜した。その後、秀家と隆景から再び意見を求められると、宗茂は「将、外に在れば君命を受けざることあり。太閤の指示を待っていては、好機を逸する恐れがある。現在、漢城の守備は手薄であり、朝鮮各地ではなお兵を徴集しているため、今のうちに進撃して漢城を奪取することが肝要である」と述べた。これに対し隆景が「漢城の守備が手薄であり、朝鮮側の兵力が不足していると判断する根拠は何か」と尋ねると、宗茂は「釜山・東萊はいずれも兵力が少なかったために落城したのであり、漢城の守備も推して知るべしである。また、捕虜に尋ねたところ、漢城までの道中には幾つかの要害・城砦があるという。今のうちに漢城を攻めず、これらの城砦に敵兵が集結するのを待てば、我軍は攻略に苦しむことになる。今こそ決断して直ちに漢城へ進撃すべきである」と答えた。これを聞いた諸将は宗茂の見識に感服し、漢城への速攻を決定した[401][402][403]。
  • 文禄の役での碧蹄館の戦いでは敵の大軍の前にも悠然と昼食の握り飯を食べていた。この行為に疑問を持った家臣達に、昔上杉謙信が小田原攻めの時もこうしたと答えたと伝わる(小野家文書による)[404]。
  • 関ヶ原の戦い後の浪人時代は、京都でその日の食べ物にも事欠く生活であったとされる[340][405]、その一方で富士谷千右衛門の由緒書き上げでは、しかるべき住居があり比較的淡々と逗留生活を送っていたように書かれていて、経済的にさほど困窮していたわけではないとする指摘もある[406]。
    • 米が足りないので家臣が雑炊を作って差し出した所、宗茂は「汁かけ飯を食べたい時は、自分で飯に汁をかけるから、余計な事をするな」と怒ったと言われる。今まで裕福な暮らしをしていたので、米に困って雑炊を作るという意味がわからなかったのだという。
    • 家臣が乞食に出かける時には、宗茂が留守番をしていた。ある日家臣が残飯を干飯にするために日に干して出かけた所、その日突然雨が降ってきた。家臣たちは宗茂がちゃんと残飯を雨に濡れないように屋内に取り込んでくれたかどうかと語り合い、「そんな些細な事に気をかけるような殿では、再仕官などおぼつかないだろう」という結論になった。案の定帰宅すると、宗茂は残飯を放置して雨に濡れるままにしていた。
    • ただし、実際には有力商人や旧家臣団、加藤清正や島津氏らの支援の下、客将として支援を受けており、大名時代に比べれば経済状態は当然悪化しているが、少なくとも、その日の食事に困るような生活ではなかったので、後世に藩祖としての苦労を際立たせる為に誇張された話であろうという説もある[406]。
  • 立花宗茂が老境の際、養子立花忠茂や徳川義直から戦における兵の運用に関して問われた[407]。
    • 「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」[408]
    • 「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」[408][409]
    • 「彼(敵)のなさんとするところを、先んじて我なせば、勝たざるごとなし」
    • 「かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2,000程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」と語った[注釈 92]。

以上の逸話は『名将言行録』や『筑前博多史料豊前覚書』、『立斎旧聞記(続群書類従 三)』、『柳川藩叢書 第三集』などによる。

  • 『名将言行録』では、宗茂のことを「人となり温純寛厚。徳ありて驕らず。功ありて誇らず。人を用ふる、己に由る。善に従ふ。流るるが如し。奸臣を遠ざけ、奢侈を禁じ、民に撫するに恩を以てし、士を励ますに、義を以てす。故に士、皆之が用たるを楽しめり。其兵を用ふるや、奇正天性に出づ、故に攻めれば必ず取り、戦へば必ず勝てり」と記しているように、宗茂はその才能を、豊臣秀吉や徳川家康からも高く評価されていた。また、宗茂の関ヶ原の戦い後からの大名としての復帰も、幕府が寛大な処置を取った稀有な例である。戦上手だけではなく、常に温厚で誠実に人に接し、そして義理堅く正直な人物などから「武士の中の武士」とも呼ばれた[411]。
  • 酒豪かつ愛烟家でもあった。開戦の前で常に5重の大盃「沖の石」を飲み干し[425][426]、長い軍旅にも烟草を戦術を考える時や養生のために吸った[415][427][428][271][429]。
  • 身長は着用甲冑で推断しておよそ175-180センチ程度[430]。また『左近様は背が高いため、御用馬にはあまり大きな馬をお選びにならないほうがよいでしょう』という本多忠勝からのアドバイスでも宗茂が長身の持ち主だと知られる[431][432][433]。
  • 温厚な人物であったというのが一般的な説である[434]。
  • 正室の誾千代を弔うために、山門郡瀬高上荘の来迎寺の住職で、かつての柳川城主の蒲池鑑盛(蒲池宗雪)の孫である応誉上人を招き、良清寺を創建した[435]。
  • 『徳川実紀』では「立花飛騨守宗茂入道立斎はさる古兵にて武名一時に隠れなし。当代御咄衆の第一にて御待遇並々ならず」と記述されている。家光のころの様子について『立斎旧聞記』には「この日本の諸大名歴々たりといえども、御前にて頭巾をかぶり、殿中にて杖をつく人は宗茂の他は一人もないとのことである。今すでに、将軍の寵遇、他に超えたり」とあり、寵遇もさることながら、江戸城中においても特別扱いが許されていることが窺える。また、「御前にて頭巾(禿げ隠し)をかぶり、殿中にて杖をつく人」とあり、晩年には宗茂の健康状態に不安があったことが窺える。
  • 「西国一の猛將で、比類なき武芸の達人」(大津籠城合戦記・京極高次の家臣からの評価)
  • 九州大学大学院助教授の 中野等は「激動の時代を背景に生きた、たぐい稀なる才能を持った人物だと」評している[40]。
  • 菊池寛は「秀吉は、(宗茂を)本多忠勝と比べてゐるが、本多忠勝などよりも、遥に秀ぐれた武将である。」と評している[436]。
  • 加藤清正と、親交が深かったという逸話が有名ではあるものの、関ヶ原以前の2人の関係を示す具体的な逸話は一次資料からは確認できない。ただ、宗茂が関ヶ原後の清正の厚遇に恩義を感じていたことは事実である。

系譜

家臣団

立花双翼
立花四天王[439]
  • 由布惟信
  • 十時連貞
  • 安東家忠
  • 高野大膳
  • 小野鎮幸(安東家忠隠居後に入れ替え)
  • 薦野増時(高野大膳引退の後に入れ替え)
  • 米多比鎮久(由布惟信隠居の後に入れ替え)
立花六城主[440]
その他
金備隊(金甲先鋒隊、金甲の兵)[442][203][443][444][445]

先鋒隊長:安東常久、小野成幸、立花成家

母衣武者十一騎

内田監物統続(忠兵衛)、立花三太夫統次、立花兵庫助統実(新右衛門)、足達勝右衛門、安東彦右衛門連直、清田又兵衛正成、立花五右衛門鎮治(元の姓大鶴、大津留鎮正[注釈 94]の子)、由布大炊介惟貞(惟時の子)、森下内匠規寬、石松安兵衛政之、堀次郎右衛門秀(又介)。また、安東孫兵衛政弘、松岡外記、安東五郎右衛門範久、吉弘治右衛門統生、臼杵惣六。[453][454][455]

立花家四十八鷹

道雪は車返の戦いに、白鷹が軍旗の上に集まれて勝機を導くということで[456][457][458]、それ以来家中精鋭の家侍48人を一隊に組む。年老・病死や戦死なのでメンバーは不特定[459][460]。

立花家三十二槍柱

(与力頭32人組。大先手、物見、使番などを勤める)[461][462]
世襲制。文禄4年(1595年)ごろ:

  • 小野和泉守鎮幸
  • 立花鑑貞(子に織部助親家、次男は三郎右衛門政辰)
  • 由布七右衛門惟次(由布美作守惟信長男)
  • 米多比丹波守鎮久
  • 立花吉右衛門成家(薦野三河守増時長男)
  • 内田清右衛門成員(内田出羽守鎮高次子)
  • 原尻宮内少輔鎮清
  • 内田統続(内田壱岐守鎮家長男)
  • 十時新四郎(十時傳右衛門惟道の子。二代目十時傳右衛門)
  • 十時源兵衛(渡辺清左衛門の子・十時傳右衛門惟道婿養子、のち黒田相模守一近と改名[463])
  • 千手平左衛門(千手鑑元の末子。千手河内守、顕孝寺存応[464][465])
  • 田尻八郎
  • 因幡但馬入道宗糺(養子に十時連貞四男・伊兵衛正良)
  • 堀又介秀(堀越後守祥(東雲軒玉隱)長男)
  • 竹迫堪八郎虎種(竹迫五郎兵衛統種の子)
  • 清田又兵衛正成
  • 安東彦右衛門連直(安東紀伊介家忠の孫)
  • 石松安兵衛政之(石松源五郎の子)
  • 十時但馬守惟由(子に十時市右衛門惟種)
  • 十時與五郎連秀(十時右近太夫惟忠の子)
  • 世戸口十兵衛政真
  • 由布大炊助惟時(由布甲斐守家続長男)
  • 足達勝右衛門(足達対馬守連安の族子)
  • 立花新右衛門統実(立花右衛門大夫鎮実長男)
  • 十時摂津守連貞
  • 清水藤右衛門連元(清水和泉守実元長男)
  • 後藤市弥太虎種(後藤隼人佐連種の子)
  • 立花三太夫統次(森下備中守釣雲三子、立花次郎兵衛統春養子)
  • 佐伯善左衛門惟幸(佐伯喜三兵衛惟綱の子)
  • 池辺次郎(池辺永晟の族子)
  • 十時甚右衛門連久(十時甚兵衛惟之の子)[466]
  • 安東孫兵衛政弘(安東紀伊守連忠の子)

立花宗茂を描いた作品

立花宗茂が主題の作品

小説等
伝記
漫画
楽曲

立花宗茂が登場する作品

映画
テレビドラマ
漫画
ゲーム

脚注

注釈

  1. ↑ 『甫庵太閤記』に「鬼神も敵す可らざる御功績もあり」と記述があるので、柳川の民からも「鬼将軍」の異名で呼ばれた[3]。
  2. ↑ 島原の乱の武略で諸大名に武神再来と嘆賞されたことが由来。のち浅川漏泉が 『柳川藩叢書 第三集』に宗茂の戦歴を『武神 立花宗茂』という軍記物が編著した。
  3. ↑ 語源の李広や呂布などのように、戦陣だけではなく、浅野長政[4]・黒田長政・宇喜多秀家[5]・本多正信[6]・徳川秀忠などの前で精妙な射芸を見せて驚嘆させた逸話はたくさんある。当代有名の勇将にしても複数の弓術免許皆伝を受ける比類なき武芸の達人で、そして官途の飛驒守から飛の字を取ることが由来。また、天保12年(1841年)宗茂二百歳神祭の際、柳河藩士後藤重胤が作る賦詞に、宗茂を飛将李広と比擬した[7]。
  4. ↑ 『歴史群像シリーズ4・関ヶ原の戦い』84-85頁。また、不敗の武将宗茂の兜は、勝ち兜として縁起を担ぐ人もいる。
  5. ↑ 宋雲院殿花岳(嶽)紹春大姉[9]
  6. ↑
    • 宗茂の姉。立花道雪の養女。信解院殿勝月妙珠大姉[10][11]。
    • 一説は宗茂の妹[12]。
  7. ↑ 栄長院殿梅宕松春大姉。慶長2年(1597年)7月17日病没、享年25歳。筑後久末村に葬った。小田部昭典『小田部軍物語』P.139-141
  8. ↑ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
  9. ↑ 退清院殿梅月春香禅定尼[15]
  10. ↑ 加屋とも。慈光院殿玉英宗金大姉[17]
  11. ↑ 萩尾大学の娘・松尾殿が産んだという男児(庶子)。新宮高橋氏の祖[19]。
  12. ↑ 実は足利義昭の子と伝えられる。近江矢島氏を継ぐ。妻は菊亭晴季の女。子に矢島重成[20]
  13. ↑ お禰々。瑞松院殿英譽春峯光森大信女[21]
  14. ↑ 権佐於菊。長泉院殿清譽智光大姉[22]
  15. ↑ 小田部統房の娘。崇安院殿明誉壽光大姉[23]。名はやや[24]。
  16. ↑ 小田部統房の娘。量壽院殿天誉妙暁大姉[25]。名はたね[26]。
  17. ↑ 立花種次の娘。定照院殿心誉安清大信女[27]
  18. ↑ 矢島重成の娘。今川直房室。浄徳院殿安室涼禅大姉[28]
  19. ↑ 高橋元種の娘・かね。妙光院殿清岳宗圓大姉[29]
  20. ↑ 一説には11月18日。でもこれは天正10年(1582年)11月18日に戸次から立花に改姓したので、誕生日と混同される[31]。また、『立斎旧聞記』、『立花近代実録』、『立花家記』、『立花家譜』、『薦野家譜』などによると、永祿12年8月13日の記載もあるが、これは恐らく妻・誾千代の誕生日と混同されることになった。
  21. ↑ 「統」は大友義統から偏諱を賜ったもの。本人の書状により、虎の字を異体字「乕」の形で書かされた場合もある。
  22. ↑ 一説には11月6日、同じ石坂という地で戦闘があったが別々の地で、後述の戦闘と混同の可能性がある
  23. ↑ 利光鎮頭が編集した『宗茂公戦功略記』により宗茂初陣の石坂合戦は天正9年7月。軍記物や諸家譜などによる俗説的な宗茂初陣の同年11月6日の嘉麻・穂波郡潤野原石坂の戦いとは別々の戦い。[39]
  24. ↑ 立花氏の名跡は継いでいたが、主君の大友義鎮(宗麟)から禁じられていたため、生前は立花姓を使用したことは無い。
  25. ↑ だが、立花山に入城するのは10月25日[44]。
  26. ↑ 町野鑑景、秋月治部少輔。問註所鑑豊の兄弟。生葉郡井上城主。吉永正春『筑後戦国史』P.195
  27. ↑ この戦を立花方は潤野原の戦い(第三次嘉麻・穂波の戦い・潤野原の戦い・第二次八木山石坂の戦いとも(同年7月27日の太宰府市・石坂での第二次太宰府観世音寺・第二次太宰府石坂の戦いとは別の穂波郡八木山石坂道大日寺口[51]での戦闘))、秋月方は八木山の戦いと記した。
  28. ↑ 『大日本史料 第11編之9』P.315-316によると、この夜襲の戦いは天正12年(1584年)7月のこと。
  29. ↑ [83]諸史料では奈古・乗古・名護・長尾などと記されている。これは、宗茂の養父・道雪が毛利軍を破った多々良浜の戦いにおける長尾の地にあたる。
  30. ↑ 井手十助。井手七郎左衛門連度の子、井手六左衛門茂度の父。
    • 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十一節 柳河偉人小傳 井手連度 P.780、
    • 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)72 十時(吉)家文書 道雪樣御代戦死之人数 P.661、
    • 『柳河藩享保八年藩士系図・下 第四分冊』大蔵姓井手氏 P.377、
    • 『柳河戦死者名譽錄』(二九)筑前岩屋 P.16
  31. ↑ 安東掃部、土佐守。安東備後守久保の子、安東作助俊房の父。一説には、高橋紹運を援護するため岩屋城の戦いで戦死したともされる。
    • 『柳河藩享保八年藩士系図・下 補遺』藤原姓安東氏 P.493~496、
    • 『柳河戦死者名譽錄』(二九)筑前岩屋 P.16
  32. ↑ この文書は秀吉から安国寺恵瓊、黒田孝高(如水)、宮木堅甫へ宛てたもので、元来黒田家に伝わったものであるが、寛文年間(一六六一~七三)に立花家が黒田家に所望して蔵するに至った。
  33. ↑ 精鋭の800騎、2,800騎や3,000騎諸説ある
  34. ↑ 「騎馬に裝著」とは、宗茂考案の鉄砲の準備である。 騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせたのである。 これで、鉄砲は騎馬武者が一人で扱える。三人四人と騎馬の周りに配備した鉄砲持ち弾薬持ちの歩兵が戦闘力として鑓・弓・鉄砲を個別に握らせ得る。八百の兵が二千、三千の兵の役割を果たすのである。 銃袋を馬首に裝著した二百の騎馬と、水・糧食・武具弾薬を背負った馬百頭、これに従う徒歩三百。 立花軍は、鉄砲二百丁を馬首に具えた騎馬二百が先頭を駆ける[120]。
  35. ↑ 隈部方、立花方両軍鉄砲競合仕る内に、騎馬の二備の柳川勢は、兵糧玉薬を打替袋に入れ、人毎に腰につけ馬上の者は鞍の後輪につけて馳来り城の大手前に押寄せて備を立て、備え定まれば後の一備が付城の前を押し通り乍ら、銘々腰や鞍の兵糧玉薬を付城へ投込、第二の備えが城に向いて備を立れば第一の備が第二の付城へ兵糧玉薬を投込、幾度もして繰引に引揚る。これを見て大手原口の隈部方大刀衆七百余にて立花勢の後を慕う、又保柳口よりも八百余りを繰り出して小群の村蔭より永野原の辺りを取切るべく急追す。 即ち、柳川勢は三千騎を一つに丸め、隈部方を一方に繰よせ、忽ち大返しに取って返し、隈部方の先手へ攻てかかる。其勢、龍の雲を突破るに等しく、鉄砲数百挺筒口を揃えて一度に打払い、その煙の晴れぬ間に長柄の槍衾を作りて突て入り、忽ち蛇返しに引く処に二陣の同勢より又鉄砲筒口揃えて撃てかかり、長柄を組んで無二無三に突て入る。同じく戦い乍ら右の方へ押迫り、其間に再び弾丸込替え取って返し、鉄砲を釣瓶掛に打掛け打掛迫り来る。其の激しき事、火の車の廻るが如く、如何なる堅き備と雖、これには堪え難き有様なり。 柳川勢は、足軽士卒に至る迄車掛りに熟練なしたる事なれば、其の疾き事矢の如く進退掛引自在也[121]。
  36. ↑
    • 有働勢は先に戸上大里之助、蘆原、福島杢之助、鹿子木親俊、大和豊前守ら三十余人、後に有働兼元、有働左京、有働下総守ら八十余騎。
    • また大津山勢の中村出羽、中村専助、和仁勢の中村治部、辺春勢の芋生摂津守など三百余人。
    • 立花勢は内田鎮家、十時源兵衛、立花統春、安東幸貞、森下釣雲、森下規寛、戸次統直、後藤虎種、原尻鎮清、十時連貞、十時惟直、十時連秀、十時惟道、石松政之、安東範久、池辺永晟ら二十四人。
  37. ↑ 宗茂は立花家重代の名刀<笈切>を腰に帯び、黒糸縅黒毛五枚冑の緒をきりりと締めて、弓手には三尺六寸の大薙刀を持った。馬手に引き結んだ手綱には、黃瓦毛の逞しき駿馬、鞍は黒鞍、宗茂馬上豊に二十歳の大丈夫である[127][128]。
  38. ↑ 『大日本古文書』小早川家文書1 小早川家文書之一P.386-388
    • この際の軍功は秀吉が隆景に充てた朱印状のなかにもわざわざ「有動付城へ兵糧差し籠め丈夫に申しつけのよし、尤もに思し召し候、殊にその剋、一戦に及び候て、立花左近将監手へ頸数多討ち捕るのよし、今にはじまらざる儀に候と雖も、手柄をつかまつり候粉骨、奇特に思し食し候」と記されている。[138]
  39. ↑ 「鎮」の字は父・鎮種(紹運)または大友宗麟(義鎮)から肖ったものと思われる。
  40. ↑ 通説の軍役数は3,000だが、朝鮮派兵前の立花家の石高9万887石から換算すると実際の軍役数は2500人。そして当時の出陣の諸大名はほとんど軍役数未満の状態で出兵するのが常態で(『柳川藩叢書』第一集 補遺(五)「従軍者鳥取次郎兵衛尉の手記覚書」の記述によると、文禄の役最初の渡海の際、立花宗茂が率いる人数は1500)、立花軍の参戦兵数は3000どころか2500未満だと推測される。[158][159]
  41. ↑ その位置から判断すると、朝鮮義兵の洪季男・禹性伝らが漢城周辺で結成した義兵の連合部隊であった可能性が高いと考えられる。『歴史群像シリーズ㉟ 文禄慶長の役』P.39
  42. ↑ 森下備中守鎮実[180]
  43. ↑ 十時但馬守
  44. ↑ 十時伝右衛門連久[181]
  45. ↑ 内田忠兵衛連満[182]
  46. ↑ 天野源右衛門貞成[185]
  47. ↑ 明軍の祖承訓・孫守廉・李寧・張應種・高昇・胡鸞ら3千人。
    • 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月8日』○接待都監啓曰:「遊擊陳方哲來言:『去月二十七日,先送五百軍馬,體探京城,又以三千,埋伏於後。先軍至城下,倭賊多數出來,因與接戰。伏兵繼起,李(寧)揔兵又以看審駐軍可當之處追到,馳突賊陣,賊圍摠兵。』天朝人又告楊(元)揔兵下營處。砲手步兵未及領去,只以騎兵馳送,擊斬二百二級,被殺人則甚多云。」
    • 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月19日』正月二十七日,祖承訓、査大受、張彦忠、李寧等,率三千餘兵,往碧蹄,與賊相値
  48. ↑ 『立斎旧聞記』によると、この際、内田鎮家・内田統続・十時惟由・森下釣雲・森下規寛・安田国継・小熊坂長範ら二十余名が引き返して迎撃し、三度にわたり接近する敵勢を撃退したという。
  49. ↑ 戸次治部少輔。戸次鎮直の子[191]
  50. ↑ 『筑後国史』(十時氏系図)によれば、死去の日は2月5日
  51. ↑ 『西国太平記 毛利秀元記 (国史叢書)』巻之二P.366によると、「十時伝右衛門(惟道)とて数度勇の誉れある者。真っ先に進み戦しに、大勢に押しつつまれて討たれ、其外究竟の者73人、枕を双べて討たれ、手負も数十人也。敵をも六百余討ち捕し。然れば先手に有りし唐人ども、同勢の中に引取りし」と記している。
  52. ↑ 池辺龍右衛門[194]
  53. ↑ 戸次中務少輔。戸次鑑方の次男[195]
  54. ↑
    • 朝鮮側の『宣祖実録』では「前進して望客峴下に襲撃して克たず。已にして先鋒参将李寧等の軍来たりて之を援く」とあり、明軍の先鋒隊が負けたと考えられる。
    • 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月6日』「本月二十七日,李(如松)提督領兵發行,聞査(大受)副揔、高彦伯,同往體探,適逢賊六七百名(立花勢先鋒十時伝右衛門惟道部隊),斬獲四百餘級,則賊衆無數出來(立花勢中備小野鎮幸・米多比鎮久、立花宗茂・高橋統増本隊),副摠兵到退碧蹄,賊徒追至(立花宗茂本隊)云。
    • 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月10日』、『懲毖錄/卷九 馳報李提督進軍碧蹄不利還駐東坡及請輸運唐糧以濟大事狀正月二十九日』「二十六日,提督由開城府,渡臨津淺灘,駐兵于坡州。二十七日後,提督與李都督率家丁百餘,馳向碧蹄,將欲親自體探于京城,諸軍不動。是日曉,査(大受)緫兵與防禦使高彦伯,馳到昌陵近處,賊多設伏于山谷間,先出數百餘人誘引(立花勢先鋒十時伝右衛門惟道部隊)。總兵揮軍掩擊,賊坡靡散走,斬獲殆盡,彦伯軍,亦多射殺。欲引退之際,賊後隊大兵繼至(立花勢中備小野鎮幸・米多比鎮久、立花宗茂・高橋統増本隊)。
    • 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月19日』德馨曰:「南兵不顧生死,一向直前,吳惟忠之功最高,査大受浮誕愚人也。今此碧蹄之敗,大受輕進。
  55. ↑ 『西国太平記 毛利秀元記 (国史叢書)』巻之二P.367-368によると、この時大谷吉継と黒田長政『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十七 黒田長政の威風)が前線までやって来て、宗茂の奮戦を讃え、速やかに漢城に引き上げることを強く勧めましたが、ちょうど到着した小早川隆景と一緒にこれに反対し、明軍本隊との決戦に臨む旨を表明した。
  56. ↑ 薦野弥助、立花吉右(左)衛門[200]
  57. ↑ この中には、島津義弘が立花勢に派遣した有馬重純(有馬次右衛門)率いる百名の大鉄砲衆も含まれていた[201]。
  58. ↑ 自ら薙刀を携えて7人を討ち取り、自身も三か所に負傷した。高橋勢が挙げた首級は五百に及んだとされる[208]。
  59. ↑ 安東善右衛門[214]
  60. ↑ 小野喜八郎。小野鎮幸の従兄弟[218]
  61. ↑ 小串忠左衛門[220]
  62. ↑ 第一隊は立花家中十時伝右衛門(惟道)ら500名近くを失ったと記されている[223]。
  63. ↑ 『柳川藩叢書 第一集』補遺(二十)立花家事蹟襍纂第六 130-131頁。また補遺目次に各戦法の解説と由来や家臣の始末、異名「鬼将軍」のことが記述された。
  64. ↑ 『川上久国雑話』P.10には三国無双の感状を受け取る。
  65. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.138-141[233]、『国恩録』第五冊 P.53-61[234]、旧柳河藩主立花家文書-系譜附録00001816[235]、『柳川藩叢書 第1集 碧蹄館大戦記』P.90-93、『柳河戦死者名誉録』(三五)朝鮮両度の役、河村哲夫 著 立花宗茂 (西日本人物誌 ; 13)P.146-148
  66. ↑ 立花家臣安東省庵の日記には、文禄3年(1594年)6月に宗茂が朝鮮から日本へ帰国したと記されている。一方、『立斎旧聞記』では、宗茂の帰国を文禄4年(1595年)6月としている。『国恩録』第六冊P.3
  67. ↑ 軍役数は5千であったが実際の出兵数は2千6百07人 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)補1 立花文書 一 御人数揃出立積(中略)惣合弐千六百七人也  P.566-568。
  68. ↑ 中野等『立花宗茂』P.107によれば、 釜山在番を解かれた立花宗茂は『黒田家譜』の記すように南海島へ移動した可能性も否定できない。
  69. ↑ 島津義弘が1月6日付で石田三成に送った書状には「鍋島直茂・勝茂親子が蔚山へ救援へ出たために昌原新城(馬山倭城)が空になった。竹島城(金海竹島倭城)にも場合によって後詰めを行うと宗茂の方から連絡があった」との記述がある。安骨浦倭城は金海竹島倭城と泗川倭城の間に位置する。なお、この書状の記述にある「羽左近“方”」という表現から判断すると、これは宗茂本人に限ったものではなく、相手側からの伝達・メッセージが、立花家の留守を預かっていた将によるものであるという解釈も成り立つ可能性があると考えられる [245]。
  70. ↑ 第二次蔚山城の戦闘期間は9月20日から10月6日まで。宗茂が固城あるいは釜山で島津忠恒に返信したのは28日であり、その後すぐに蔚山方面へ向かったとすれば、約6日間の移動・参戦の余裕がある。また、家臣小串成信など蔚山にて戦死の記載[254]があるので、蔚山への戦闘は実際に参加していた可能性はあると思われる。
  71. ↑ 釜山広域市・海雲台区の海東と推測される。
  72. ↑
    • 一説によれば、明将・高策が率いた明軍2万2千および朝鮮軍3万が動員されたとされる。
    • 木下吉甫著『翁物語』[255]、『立斎旧聞記』、『国恩録』第六冊 P.15-18、『逸史 午,未』[256]、『野史 61』[257]、『贈位功臣言行録』[258]、『日本外史補』P.204などによれば、大明人1万余騎と朝鮮の郷人が大勢の兵を集め、大将の名は「牧務遼」。これは明・朝鮮の大将の名前や字、または職名・称号の漢語、朝鮮語発音に対応する字とされる可能性がある。
    • 第一次蔚山の戦いに参加した朝鮮軍については、権慄が率いた計1万2千5百の兵力が記録されているが、釜山牽制のために臨時に増援され、3万に達した可能性を否定できる史料は確認されていない。また、高策は明軍の中協軍として蔚山を包囲し、1万1千7百の兵を率いていたとされるが、2万2千の兵力をもって釜山方面の日本軍を牽制するために臨時に転用されたか否かを明確に裏付ける史料は存在しない。
  73. ↑ 築城任務を担当していた固城から、毛利高政と共に支援のために出発し、1月3日に蔚山に到着した。『日本戦史 朝鮮役 (本編・附記)』P.389~390。
  74. ↑ 木下吉甫著『翁物語』[263]。釜山広域市機張郡鼎冠邑月坪里と推測される。また、『柳河戦死者名誉録』(三五)朝鮮両度の役 P.19によると、「元濆は蔚山二十里外(約9キロ)に在り」と記されている。この距離から推測すると、蔚山城の南方に位置する開云浦城を指している可能性が考えられる。
  75. ↑ 蔚山広域市南区新亭洞または蔚州郡青良邑三亭里と推測される。また、明・朝鮮側の史料において、蔚山の戦いの際にたびたび言及される「箭灘」を指している可能性もある。
  76. ↑
    • 原文「今の世に無双の軍才であることを知りました。立花殿こそ日本軍第一の勇将です」。
    • 木下吉甫著『翁物語』[264]、『立斎旧聞記』、『国恩録』第六冊P.18-28などによれば1598年5月4、5日の戦い、明将の名前は『清正記』も「梅柏」となっているが、これは9月に宗茂が清正を救援し、交戦した「麻貴」の誤記と考えられている。『野史 61』[265]、『野史』 第3巻 3版[266]、『日本支那交戦史』P.48-49、『日本外史補』P.205-206 。
    • 「梅柏」は、麻貴の配下として釜山の北東に位置する東莱温泉洞・金井区(温井)一帯に派遣され、日本軍を牽制した将軍「牛伯英」の誤記である可能性もある。『古事類苑 外交部』[267]、『朝鮮群書大系 : {正}24輯続24輯続々24輯別集7輯 〔正 第8〕』[268]。
    • また、『絵本太閤記』には、5月に李如梅と加藤清正が蔚山で再び交戦したとする記述もみられる。
    • 『明史』によれば、この戦いは1598年9月に麻貴が日本軍の偽退に誘われて空営へ突入し、伏兵を受けて敗北した戦いを指している可能性がある。麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗『明史·卷320』【列傳第二百八外國一】朝鮮
  77. ↑ 川上久辰(源三郎、左近将監)の子。川上亀寿丸、源三郎久首、又左衛門、式部大輔、左近将監久好、因幡守入道商山。『川上忠塞一流家譜』
  78. ↑ 「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫。
  79. ↑ 薦野増時の嫡男。立花吉右衛門
  80. ↑ 立花鑑貞次男。立花三郎右衛門・臼杵新介
  81. ↑ 『葉隠』聞書第六によると12,000、『太宰管内誌』は20,000余、『立斎旧聞記』は10,000余としている。
  82. ↑ 一説によると2,000、うち小野の直卒する中軍は1,000余騎
  83. ↑ 立花四天王・安東家忠の三弟・安東家久の次男。安東五郎右衛門
  84. ↑ 大友家臣・石松源五郎(石松隼人、高橋越前)の子。石松安兵衛
  85. ↑ 戸次鑑貞の次兄。戸次右衛門大夫但馬了均。藤北戸次氏の一族
  86. ↑ 立花鎮実の次男。立花善次郎・17歳
  87. ↑ 宗茂の側室の八千子の弟。矢島勘兵衛、剛庵
  88. ↑ 筑紫広門の与力衆。千手六之允
  89. ↑ 立花四天王・安東家忠の三弟・安東家久の四男、次兄・安東範久の養子。安東津之助
  90. ↑ 十時惟直三男。十時新五郎・16歳
  91. ↑ 十時惟由の子。十時市右衛門、二代目十時但馬。
  92. ↑ 宗茂が二千人と言ったのは、当時禄高十万石に対して三千人の軍役が定めであったからと思われる[410]。
  93. ↑ 六歳の時より家伝の抜刀術隋変流を修行し達人となる。隋変流は立花宗茂を流祖とし、戦国時代そのままの形を伝えるといわれ、天風の号は最も得意な形、天風(あまつかぜ)からとられたものである。[416]
  94. ↑ 大鶴弥助、弾正入道宗秋、山城入道宗周、式部少輔鎮忠、安芸入道宗秀。
    • 大津留鎮俊(宗雲)の長男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも「大鶴式部」の通称で「鎮正」の名が父の名として誤記されたことがある[446]。
    • 伯父、大鶴(田原)鑑尚と同じ「大鶴弾正」の通称で実名まで「鑑尚」と混同される[447]。
    • 父と弟(小田部鎮元)と共に筑前五城主の一人として永禄、天正年間の戦功が多く。天正九年(1581)年9月鷲ヶ岳城落城後、立花山城に赴き、津久見(鶫)嶽城番となって、宗像氏と対峙した。のち嘉良山西城城番となった[448]。
    • 天正7年(1579年)9月23日付の大友義統感状(大津留安芸入道宛)によれば、紹叱父子とともに戦死した宗逸は、安芸入道宗秀(鎮正)の舎弟と記されている[449]。一方、『筑前国続風土記』[450]では宗雲(鎮俊)の舎弟とされているが、これは宗秀を宗雲と誤記した可能性が高い。宗秀の弟とすれば、実際には宗雲(鎮俊)の三男にあたることになる。
    • 妻は神代勝利四女[451]。子に立花五右衛門鎮治、孫に立花五郎右衛門隆元(道溪)、隆元子立花期右衛門隆行、隆行子立花孫左衛門隆重(雪溪)[452]。

出典

  1. ↑ 『立斎公御年譜』
  2. ↑ 『柳川藩叢書 第一集』附録 P.259
  3. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八七)鬼将軍の名 216頁
  4. ↑ 『国恩録』第五冊P.50-51
  5. ↑ 『国恩録』第五冊P.44-47
  6. ↑ 『国恩録』第五冊P.48-49
  7. ↑ 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』
  8. 1 2 『旧柳川藩志』中卷 第十五章 寺社 第四節 三橋村 第一県社 高畑の三柱神社 469頁
  9. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000766
  10. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜00001622
  11. ↑ 『立花遺香』 P.160
  12. ↑ 薦野の歴史をつなぐ会 第200話 【養徳山「信解院の墓」】
  13. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 81.
  14. ↑ 『筑後国史』 中巻P.379
  15. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  16. ↑ 薦野の歴史をつなぐ会 第200話 【養徳山「信解院の墓」】
  17. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001629
  18. ↑ 『筑後国史』 中巻P.379
  19. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』葦書房、1977年、295-296頁。ASIN B000J8REN4
  20. 1 2 『旧柳川藩志』第十八章・人物・第十六節 柳川偉人小伝(六)P.954
  21. ↑ 『旧柳河藩主立花家文書-内実系譜』00001618
  22. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  23. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  24. ↑ 帰命寺(大石曽束1)の香炉 - 大津のかんきょう宝箱 - 大津市 環境部 環境政策課
  25. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-内実系譜〕00001629
  26. ↑ 原 達郎『柳川藩 立花家中列伝』148頁
  27. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000767
  28. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000768
  29. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-〔御亡者様御名幷御寺等書上〕00000767
  30. ↑ 本郷, pp. 114.
  31. 1 2 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.128
  32. ↑ 『立斎公御年譜』
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  34. ↑ 真山知幸 (2023年11月12日). “関ヶ原参戦できず「西軍最強」と呼ばれた男の悲劇: なぜ参戦できなかったのか?その後の人生とは”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2023年11月12日閲覧。
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  39. ↑ 中野 2001, pp. 6–7.
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  42. ↑ 『筑後将士軍談』、『九州軍記』
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  45. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.113-115
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  48. ↑ 中野 2001, pp. 8–9.
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  51. ↑
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  53. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.126-128
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  55. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(二〇)筑前潤野原 天正九年 十一月六日 P.12
  56. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.138-139
  57. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 58–59.
  58. ↑ 石坂の戦い 八木山峠(福岡県飯塚市)
  59. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十三 穂波合戦之事 P.353-354
  60. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十四 高橋紹運取返米山付統虎初陣石垣山合戦之事 P.371
  61. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.124
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  69. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.123-124
  70. ↑ 許斐山城の戦い「八並村吉原口の戦い」:天正11年3月15-16日
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  76. ↑ 『評註名将言行録』P.244-245
  77. ↑ 『国恩録』第三冊P.29-32
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  80. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 アーカイブ 2022年7月22日 - ウェイバックマシン p.146
  81. ↑ 『北肥戦記』『大日本史料 第11編之15』天正13年4月P.11
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  84. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (19) 立花統虎(宗茂)感状写 今度於猪野表敵少々罷出候処、其方寄揆被官之者共掛合、歴々分捕高名候、誠感悦候、仍銘々以状申之為存知候、必追而一稜嘉之可申候、恐々謹言、八月八日 立花淡路入道(大村全長)殿 P.558。
  85. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.280-283
  86. ↑ 『薩摩旧記雑録後編2・巻十七』附161「図書頭忠長譜中」P.196
  87. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.283-285
  88. ↑ 『橘山遺事』 P.175-178
  89. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四二 豊臣秀吉判物 立花左近将監とのへ 去月廿四日、對安國寺・黒田勘解由書状到来、被閱候、仍薩州輩敗軍刻、相付人数敵数十人討捕之註文上置候、一々加披見候、誠以粉骨無比類候、然而其方事忠節儀候間、新地褒美等可被仰付之間、迄下々此由申聞、弥相勇可勵忠切事専一候、猶追々差遣人数候間、本意不可有程候、委細黒田勘解由・安國寺両人可申候也、九月九日 立花左近将監とのへ P.363。
  90. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 薩州勢退陣統虎追討之事 P.474-477
  91. ↑ 『橘山遺事』 P.178-179
  92. ↑ 『国恩録』第四冊P.2-5
  93. ↑ 『立花遺香』 P.103-106
  94. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三〇)筑前高鳥居 天正十四年 八月廿五日 P.16-17
  95. ↑ 『橘山遺事』 P.179-182
  96. ↑ 『橘山遺事』 P.182-184
  97. ↑ 『日本戦史・九州役』(補伝 第十二宗茂の忠勇)
  98. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 統虎屠高鳥居城討取星野兄弟拔岩屋城事 P.478-483
  99. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.286-292
  100. ↑ 『豊前覚書』(七)島津殿豊後口筑前表へ出張の次第 P.97-104
  101. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.80-83
  102. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四三 豊臣秀吉判物 立花左近将監とのへ 去月廿七日、對安國寺・黒田勘解由・宮木入道書状并首註文今日十日披見候、今度其面へ島津相動候處、味方之城数二三ヶ所手もろく相果候之条、其構之儀も無心元被思召、輝元・元春・隆景其外人数追々差遣候処、立花城之儀無別条、相拘候儀さへ對殿下忠節無比類与思給候處、去廿四日敵引退候刻、足軽を相付数多討捕儀、手柄之上ニ重而高鳥居東西責破、城主星野中務大輔‧同民部少輔を初、其外不残数百人討捕、首之註文到来、誠粉骨段中不及申候、是以後儀者、聊爾なる動之儀可為無用候、人数追々被差遣、其上輝元・元春・隆景両三人一左右次第、殿下にも被出馬、九州逆徒等悉可被刎首候条、得其意尤候、然者為褒美、新地一廉可被仰付候間、突鑓高名仕、忠節輩ニ可令支配与弥成勇候樣、可申觸事専要候、委細安國寺・黒田・宮木両三人可申候也、 九月十日 立花左近将監とのへP.363。
  103. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四五 豊臣秀吉判物 立花左近将監とのへ 今度島津殿下江成御敵、九州之逆徒等引具罷立、味方城二三ヶ所相果候處、其方立花城在之而、大軍被請留、抽粉骨付而、島津敗北之由候、殊高鳥居城責崩、星野一類、其外一人も不残刎首之由註進、誠以無比類手柄共候、但天下之面目不過之候、来春者可有御動座候間、新知等為褒美被見計、何之國にて成共可被仰付候、仍太刀一腰国俊熨斗付、鉄砲薬貮百斤、并縫物羽折遣之候、弥可勵忠節事尤候、併被出御馬、島津御退治不可有程候条、聊爾之動有之間敷候、委細猶森勘八・木村兵吉可申候也、 十月十一日 立花左近将監とのへ P.363-364。
  104. ↑ 『国恩録』第四冊P.5-15、P.32-34
  105. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三七 豊臣秀吉判物 羽柴柳川侍従とのへ 立花左近将監對両三人註進状并首註文、今日於淀到来、披見候、高鳥居城へ取懸、則時責崩、城主初星野中務少輔・同民部少輔、其外随身之者共、数輩討捕之段、無比類動絶言語候、今度味方城二三ヶ所不慮之處、無異儀相拘候儀さへ、奇特被思召候處、如此之段、誠九州之一物候、為褒美新地一廉可被抑付之条、立花家中粉手之者共ニも、令支配、弥可相勇之由、可申聞候、自是以後、聊爾之行不可仕之由、可相達事専一候也、 九月十日 安國寺 黒田勘解由とのへ 宮木入道とのへ P.360。
  106. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.292、p.310-312
  107. ↑ 『評註名将言行録』P.245
  108. 1 2 中野 2001, pp. 26–30.
  109. ↑ 『国恩録』第四冊P.17
  110. ↑ 『日本戦史・九州役補伝』
  111. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十八 関白秀吉公九州下向付九國静謐之事 P.494-504
  112. ↑ 『国恩録』第四冊P.17-30
  113. ↑ 中野 2001, pp. 63–65.
  114. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 106–117.
  115. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四九 豊臣秀吉朱印状 立花左近将監とのへ 急度申遣後、肥後面儀、一揆少々令蜂起、隈本へ通路さっハりを成候由候、其方堺目之儀候間、相催人数早速罷立、隈本へ入相候て、陸奥守令相談、一揆其外国侍不相屆者於在之者、可加成敗候、此節候間、不可有御油断候也、 九月七日 立花左近将監とのへ P.365。
  116. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.112-113。
  117. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.102-103
  118. ↑
  119. ↑
  120. ↑ 『柳河藩立花家分限帳』騎馬并鉄砲付之覚P.18~20、『清和源氏隈部家代々物語』P.94~95
  121. ↑ 『清和源氏隈部家代々物語』P.94~95
  122. ↑ 『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『肥後隈本戰記』
  123. ↑ 『野史 第4巻 3版』 p.2147
  124. 1 2 中野 2001, pp. 52–54.
  125. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.108-113
  126. ↑ 刀 無銘 兼光
  127. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.114-118
  128. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.104-105
  129. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.114-116。
  130. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.103-105
  131. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.117-118。
  132. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.105-106
  133. ↑ 『柳河戦死者名誉録』(三二)肥後平山 天正十五年九月七日 P.17-18
  134. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國所々合戦之事 P.515-519
  135. ↑ 『筑紫軍記』卷之第十四 肥後の亂逆並佐々成政切腹の事 P.169-172
  136. ↑ 『国恩録』第四冊P.46-62
  137. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 五〇 豊臣秀吉判物 立花左近将監とのへ 今度有動付、城江兵糧差籠候刻、遂一戦、敵数多討捕之由、黒田勘解由・森壱岐守註進被聞召候、雖不始于今儀候、手柄候、誠粉骨奇特思食候、追而可被加御褒美候、猶黒田・森壱岐守可申候也、 十月十二日 立花左近将監とのへ P.365。
  138. ↑ 『小早川文書』
  139. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 127.
  140. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.118-120。
  141. ↑ 『柳河戦死者名誉録』(三三)肥後和仁 天正十五年十一月十二日 P.18
  142. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 和仁邊春落城之事 P.519-521
  143. ↑ 中野 2001, pp. 55–56.
  144. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 八二 軍勢注文写 天正十五年五月廿七日肥後國住人隈部筑後守親永、柳川黒御門前にて御成敗之節出合申候御人数之覚 P.99-100頁
    御人数引廻 由布壱岐守惟次
    十時摂津守連貞、十時勘解由惟元、十時傳右衛門惟道、池邊龍右衛門永晟、池邊彦左衛門貞政、安東五郎右衛門範久、安東善右衛門常久、石松安兵衛政之、原尻宮内鎮清、新田掃部助鎮実、内田忠右衛門統続、森下内匠規寬
    十貳人外ニ掛通り 森又右衛門信清
    跡押 小野和泉守鎮幸
  145. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.126-127。
  146. ↑ 『柳河戦死者名誉録』(三四)筑後柳河黒門前 天正十六年五月廿七日 P.18
  147. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 102–105.
  148. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 肥後國静謐之事 隈部有動被誅付隈部(新田)筑後入道信義之事 P.522-528
  149. ↑ 『旧柳川藩志』中卷 第十六章 名所旧跡 第四節 古戦場 第一 山門郡分 黒門前 563-564頁
  150. ↑ 『国恩録』第四冊P.67-72
  151. ↑ 村川 2000, pp. 29、38.
  152. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 九五 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 為東國表見廻、使者并帷十遠路到来、悦思食候、此表儀小田原廿間卅間中取卷、堀・柵・土居・雲雁丈夫ニ被仰付、一人も不落洩様ニ候、八州武主共楯籠候間、悉可干殺候、関東之事城々悉明渡候、残二三ヶ所及異儀族有之条、取懸、岩付城江去廿日乗崩、悉刎首候、出羽・奥州迄も無残所、一篇被仰付候、委細之儀使見及候間、可申聞候也、 五月廿七日 羽柴柳川侍従とのへ P.378。
  153. ↑ 『名将言行録』
  154. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 立花宗茂昇進之事 P.528-529
  155. ↑ 『立花遺香』 P.2
  156. ↑ 『評註名将言行録』P.247
  157. ↑ 『国恩録』第四冊P.78-81
  158. ↑ 中野 2001, pp. 64–66.
  159. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 117–118.
  160. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.99-101
  161. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-系譜附録00001815
  162. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.125-126
  163. ↑ 『国恩録』第五冊P.4-6
  164. ↑ 『朝鮮史 第四編第九巻 第4編 第9巻 自壬申朝鮮宣祖5年至壬辰朝鮮宣祖25年』 p.567-568
  165. ↑ 『日本戦史 朝鮮役』 (本編・附記)P.194-198
  166. ↑ 中野等『文祿・慶長の役』〈吉川弘文館〉82~83頁
  167. ↑ 中野 2001, pp. 70–72.
  168. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 119.
  169. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.103-108
  170. ↑ 『黒田家譜』
  171. ↑ 『国恩録』第五冊P.6-7
  172. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.101-103
  173. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-系譜附録00001815-00001816
  174. ↑ 『国恩録』第五冊P.10-12
  175. ↑ 『薩摩旧記雑録後編2・巻三十』附1030「征韓偉略」P.661
  176. ↑ 「近世日本国民史 〔第8〕 豊臣氏時代 戊篇 朝鮮役 中巻 改版」第八章 碧蹄館戦争 P.201~P.254
  177. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一)高橋統増小傳 P.229-231頁
  178. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十七宗茂の決心)
  179. ↑ 『国恩録』第五冊P.21-35
  180. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十九)森下釣雲小傳 P.250-252頁
  181. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(二)十時連久小傳 P.231-233頁
  182. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(三)内田統続小傳 P.233-234頁
  183. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七)従軍者高木四郎兵衛の記録 117-119頁
  184. ↑
    • 『朝鮮王朝実録・宣祖修正実録第27卷二十六年一月一日』 賊先伏大兵於峴後,只數百人據峴示弱。
    • 『壬辰錄』賊匿大眾於礪石嶺後,先出數百人以餌之。
  185. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(五)天野源右衛門小傳 P.235-236頁
  186. ↑ 『柳川史話』第二卷 人物篇(其の二)八八 十時傳右衛門について P.181
  187. ↑
    • 『象村稿/卷三十八天朝先後出兵來援志』二十七日曉。由德津下營于坡州。黎明。賊數百出陣于彌勒院前野。査大受擊斬一百三十級。馳稟曰。賊已奪氣。願速進兵。
    • 『漢陰先生文稿/附錄卷一』副摠兵査大受與我國防禦使高彥伯。領兵數百。先行哨探。遇賊於礪石嶺。斬獲百餘級。
    • 『懲毖錄/卷二』副總兵查大受與我將高彥伯領兵數百先行偵探與賊 相遇於碧蹄驛南礪石嶺斬獲百餘級。
    • 『再造藩邦志/卷二』二十七日曉。由德津下營于坡州。黎明賊數百出陣于彌勒院前野。査大受與高彥伯。領數百騎進擊斬賊一百三十級。馳稟于提督曰。賊已奪氣。願速進兵。
  188. 1 2 3 参謀本部編『日本戦史・朝鮮役(本編・附記)』[NDLJP:936355/131]
  189. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(六)小野鎮幸小傳 P.237-238頁
  190. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(七)米多比鎮久小傳 P.238-240頁
  191. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(八)戸次統直小傳 P.240-241頁
  192. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 戸次統直舉勇名於異國事 P.540-541
  193. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第六十九十時傳右の戦死)
  194. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(四)池邊永晟小傳 P.234-235頁
  195. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十一)戸次鎮林小傳 P.244-245頁
  196. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十 立花宗茂碧蹄の殊功)
  197. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九二)軍略湧が如く出づ 220-221頁
  198. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九一)敵を背にして陣す 219-220頁
  199. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八五)三本品柄 215頁
  200. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(九)立花成家小傳 P.241-242
  201. ↑ 『薩藩戦史考証』P.151
  202. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二二)祖宗懋績録 133頁
  203. 1 2 『柳川藩叢書』第一集 補遺(五六)立花の笠験とは金甲也 177-178頁
  204. ↑ 鑓 銘 播州住政国 「銀杏御枕槍」(『柳川史話』八七、「惟貞覚書」一、此方樣の銀杏の御槍とは立斎樣朝鮮に御持ち被遊多くの人を御突き被遊候由。P176。)、鑓 銘 濃州関住兼貞「八幡御枕槍」
  205. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八)宗茂公朝鮮軍之次第御物語覚 119-121頁
  206. ↑ 泗川新寨戦捷之偉蹟P.5
  207. ↑
    • 『柳川藩叢書』第一集 碧蹄館大戦記 9頁、
    • 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(一)高橋統増小傳 P.229~231頁、
    • 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七七)高橋直次への感状 今度大明人数都表へ押寄處に其方先陣無比類働之由、被聞招屆候、誠神妙思召候、弥可抽軍功事肝要候、猶木下半介可申候也 文禄二年卯月三日 高橋主膳正とのへ 秀吉朱印 206頁。(九)玉峰記 121~124頁
  208. ↑ 旧柳河藩主立花家文書-立花家譜00001595
  209. ↑ 河村哲夫、岡田武彦 『西日本人物誌[13]・立花宗茂』P.130~145
  210. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四八六 安国寺恵瓊書状 高主(高橋主膳正統増)へ茂同前ニ申入候、御傳達所希候、已上、 去廿六日大明人罷出候処ニ、先手御請取候て被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆隆景注進状にて承知、誠雖不珍候御手柄之儀候、弥以道各可申傳候、弥隆景被仰談可被懸御手柄候、尚吉事追々可承候、取紛漸一筆申入候、恐惶謹言、 二月二日 、柳川侍従様 人々御中 安國寺恵瓊 P.580。
  211. ↑ 『大日本古文書』小早川家文書1 小早川家文書之一P.309-312
  212. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十 立花宗茂碧蹄の殊功)
  213. ↑ 『壬辰錄』賊仍出左右翼包之。天兵一時奔潰。自相躁踐。
  214. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十二)安東常久小傳 P.245頁
  215. ↑ 『再造藩邦志/卷二』賊兵迫前突陣。左右揮擊。人馬皆靡。無敢當其鋒者。提督見勢危急。督將士殊死戰。從巳至午。有金甲倭將。直搏提督。幾及之。指揮使李有昇以身捍蔽。刃數倭。竟中丸墜馬。爲倭支解。有昇遼東鐵嶺衛人。勇力絶倫。常隨提督。左右不離。至是死焉。而已李如栢李寧等乃翼遮繞夾擊之。李如梅從傍射殪金甲倭。
  216. ↑ 『明史/卷238』 將輕騎趨碧蹄館。距王京三十裏,猝遇倭,圍數重。如松督部下鏖戰。一金甲倭搏如松急,指揮李有聲殊死救,被殺。如柏、寧等奮前夾擊,如梅射金甲倭墜馬。
  217. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 碧蹄館大戦記 11頁、補遺(一一)『國恩録』 124-125頁、(六四)我軍の追撃 183-184頁。
  218. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十三)小野成幸小傳 P.246-247頁
  219. ↑ 『朝鮮王朝實錄・宣祖實錄・二十六年2月16日』二十七日又進兵,被倭伏發,折損天兵三百,而殺倭賊亦三百,殺傷相當。又殺一倭將,着金盔金甲者。』云,是大將,而倭賊持屍而遁,不得斬首。
  220. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十四)小串成重小傳 P.247頁
  221. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集〔九五〕人物略傳小傳(十五)小野久八郎小傳 P.248頁
  222. ↑ 『柳川藩叢書』 第一集 補遺〔九〕玉峰記 121-124頁
  223. ↑ 中野 2001, pp. 73.
  224. ↑ 『本朝武家高名記』
  225. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二一)『柳河明証図会』 131-132頁
  226. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
  227. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 江陽(碧蹄館)合戦之事 P.537-540
  228. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 五三 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 今度大明人数取出之刻、於先手、抽粉骨、無比類動之由、神妙思食候、依之為御褒美、御馬一疋被為拝領候、尚浅野弾正可申候也、 卯月十一日 羽柴柳川侍従とのへ P.366。
  229. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 五四 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 大明人之時 尚以頸討捕并手負、令辛労族ニ、能々可申聞候也、二月二日註進状趣加披見候、抑今度大明國之人数、都表へ押寄候之處、其方先陣付而、家中者共討捕首註文到来上覧之候、誠無比類動、神妙思食候、弥此後可抽軍忠事、肝要候、猶木下半介可申候也、 卯月三日 羽柴柳川侍従とのへ P.366。
  230. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四八六 安国寺恵瓊書状 高主(高橋主膳正統増)へ茂同前ニ申入候、御傳達所希候、已上、 去廿六日大明人罷出候処ニ、先手御請取候て被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆隆景注進状にて承知、誠雖不珍候御手柄之儀候、弥以道各可申傳候、弥隆景被仰談可被懸御手柄候、尚吉事追々可承候、取紛漸一筆申入候、恐惶謹言、 二月二日 、柳川侍従様 人々御中 安國寺恵瓊 P.580。
  231. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書、四四六 石田三成書状 P.568、四五七 吉川広家書状 P.571、四八六 安国寺恵瓊書状 P.580、五〇二 島津義弘書状 P.585、五〇四 蜂須賀家政書状 P.585、五一〇 長曾我部元親書状 P.587
  232. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),263頁
  233. ↑
  234. ↑
  235. ↑
  236. ↑ 『問註所家譜』、『柳河戦死者名誉録』(三五)朝鮮両度の役
  237. ↑ 中野 2001, pp. 80–81.
  238. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 124.
  239. ↑ 中野 2001, pp. 83–103.
  240. ↑ 中野、穴井 2012, pp. 124–154.
  241. ↑ 『日本戦史 朝鮮役 (本編・附記)』 P.310~313
  242. ↑ 『日本戦史 朝鮮役 (本編・附記)』 P.314
  243. ↑ 中野等/穴井綾香『近世大名立花家』P.155~156、『薩摩旧記雑録・巻四十』P.141、『日本戦史 朝鮮役 (本編・附記)』P.367
  244. ↑ 中野等/穴井綾香『近世大名立花家』P.156~157、『薩摩旧記雑録・巻四十一』P.199、『日本戦史 朝鮮役 (本編・附記)』P.323~324
  245. ↑ 『薩摩旧記雑録・巻四十一』P.184~185
  246. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 八一 豊臣秀吉朱印状 羽柴柳川侍従とのへ 猶以寒天之刻、辛労不被及是非候、就其綾小袖一・染道服一被遣之候、可有着用候、委細寺澤志摩守可申候也、 今度大明人蔚山へ取懸之由就注進、為後卷、雖押出候、敵引退由候、既従此方も安藝中納言・増田右衛門尉・因幡・但馬・大和・紀伊国衆・九鬼父子等可罷立旨、雖被仰付候、右之分候間、不及是非候、然者仕置之城々普請弥丈夫ニ申付、兵糧・玉薬澤山ニ籠置、少も無氣遣様可令覚悟候、帰朝之者共ハ、弥敵之様子聞屆、其上普請申付候而より、可致帰朝由被仰遣候条、可成其意候、猶増田右衛門尉・徳善院・長束大蔵太輔可申候也、 正月十七日 羽柴柳川侍従とのへ P.373。
  247. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 九二 豊臣秀吉朱印状 態被仰遣候、一、先手五里三里之間、日々ニ物見を遣、様子見計其機遣肝要候、今度蔚山へ取懸候刻も、敵之様子不知ニ付而のセ事之様ニ仕成由候条、每事機遣不可有油断候、一、来年又動之儀可被仰付候、然者半切之楯数多令用意尤候、敵半弓一儀与相聞候之間、手每ニ楯を持セ候て可然候、一、城々普請弥丈夫ニ申付、可致在番候、猶徳善院・増田右衛門尉・長束大蔵大輔可申候也 正月廿七日 羽柴柳川侍従とのへ 羽柴久留米侍従とのへ 高橋主膳正とのへ 筑紫上野介とのへ P.377。
  248. ↑ 南海に守備していた立花宗茂も、急に聞いて起ち、當路の朝鮮兵を打ち破って蔚山に赴いたといふ。『碧蹄戦史』 p.161
  249. 1 2 『史料綜覧 巻13』 p.153
  250. ↑ 『朝鮮役録』P.19
  251. ↑ 『筑後郷土通史 上巻』P.191-192
  252. ↑ 中野等/穴井綾香『近世大名立花家』P.157~158、『薩摩舊記雑録・巻四十二』P.231
  253. ↑ 中野等/穴井綾香『近世大名立花家』P.158、『薩摩舊記雑録・巻四十二』P.240
  254. ↑ 『柳河藩享保八年藩士系図・上』P.441、443
  255. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.151-153
  256. ↑ 『逸史 午,未』P.13
  257. ↑ 『野史 61』P.57
  258. ↑ 『贈位功臣言行録』P.187
  259. ↑ キージャ、キージャと鳴くは?カササギ渡来 「立花対般丹の戦い」
  260. ↑ 『名将言行録』P.811、『日本支那交戦史』P.47
  261. ↑ 『立花遺香』(清正宗茂の勇を感ず)、『国恩録』第六冊 P.30-34
    • 三斎老(細川忠興)がおっしゃるには、「加藤主計すなわち肥後守(加藤清正)の話によれば、高麗の陣中で恥ずべき振る舞いをした者は一人もいなかった。ただし、立花左近将監(立花宗茂)だけは別格であった。蔚山の籠城戦における後詰では、わずか二千ばかりの兵で、何十万騎とも知れぬ大軍を一手に打ち崩したという。それ以前の後詰には毛利宰相(毛利秀元)をはじめ、大軍が出陣したものの、さして特筆すべき働きもなかったと、幾度も話に聞き及んでいる。
    • 結局のところ、日本・高麗における合戦の経験は、諸将の平素の語りを総合すると、三十八度か三十九度ほどになるのではないか。我々のような者は、日本と高麗を通しても二十度にも満たず、ただ戦場に足を運んだだけにすぎない。
    • 飛騨守殿(立花宗茂)については、もはや申し上げるまでもなく、大坂においてその家臣・小野和泉(小野鎮幸)が太閤(豊臣秀吉)様の御前に召し出され、日本および高麗の戦役を通じて“七人の槍柱”の一人として酒杯を賜ったという。これはまさしく、名誉の至りであるとのお話であった」
  262. ↑ 『立花遺香』(蔚山の後詰)、『国恩録』第六冊 P.34-37
    • 一、丹羽五郎左衛門(長重)殿と加藤肥後守(忠広)殿がご一緒にお越しになり、お料理をご用意してくださった。その後、お茶をお出しした際に、加藤肥後守殿が仰せになった:「前肥後守(加藤清正)殿が朝鮮(高麗)から持ち帰った茶碗がありまして、密かにあなたに差し上げたいと存じておりました。私の親も大事にしておりましたが、特にあなたとは親しく、心を通わせた仲でもありましたので、進呈するようにとのことでした」とのご伝言で、それをお持ちした。
    • 殿(宗茂)は茶碗をご覧になり、「この茶碗は高麗蔚山の後詰に赴いた際、お茶をいただいたときによく見覚えのあるものである」と仰せになった。
    • 加藤肥後守殿は、「家来たちの話では、前肥後守(清正)殿が蔚山に在城していたとき、あなた(宗茂)も後詰として出陣され、特に第二陣の時には一手の軍勢を率いて戦ったと聞いています。最初の頃は大勢の武将たちが一斉に蔚山に向かったとも聞きました。私の親が申すには、人は多くいても、本当に役に立つ者は極めて少ないものです。蔚山に多くの援軍が駆けつけても、敵を退けたのは立花殿と吉川殿の二人だけだったと覚えているとのこと。どういう事情だったのか、ぜひお聞きしたい」と仰せになった。
    • 立花宗茂は仰せられた:「蔚山の後詰には大軍で赴きましたが、それでは何も成果がないまま討ち死にするだけだろうと考えておりました。黒田長政・小早川(原文は左衛門隆景と記述されたが、蔚山戦闘の時点すでに死去したので、該当する人物は秀秋もしくは秀包であろう)・私の三人で協議し、敵は大軍を頼みにして大した備えもないだろうから、くじ引きで順番を決めて、夜襲をかけて混乱させようと話し合いました。しかし、夜襲は五万、十万の敵に対してこそ有効であり、そう軽々しく実行すべきではないとの反対意見もありました。それでも我々は、夜中過ぎに合戦を始めれば、夜明けには後詰の軍を投入することで大きな効果があると説得しましたが、一致同意してくれませんでした。唐人(明軍)との戦いは、時を移さず迅速に動けば勝機があるので、それを言ったのです。
    • 正月元日から対峙し、徐々に足軽を出して接近戦となりました。特に成果も出ないまま気を揉んでいると、小早川の足軽たちが敵に押し戻され、苦戦していたところを、吉川蔵人(広家)が出陣して槍を交えました。小早川も黒田も吉川を援護し、兵を出しました。私は吉川の戦っていた場所から遠く、黒田・小早川の援軍にも間に合わない距離でした。そこで私は蔚山城を右に見ながら、黒田・小早川の軍の後方から敵の備えを横から突き崩し、三つの軍を打ち破りました。そのまま敵軍は総崩れとなって退却しました。この件については、向かい合っていた部隊の者たち以外には、黒田・小早川の兵の働きしか分からないかもしれません。
    • 前肥後守(清正)殿に仕えていた加藤清兵衛(桑原平八郎直正、のちに本山豊前守安政)という武功のある将が、「敵が崩れたのは後方の敗戦が原因だ」と見抜いており、「あれは私一人の手柄だ」と言って喜んでいたそうですが、それはおこがましい話だ、とのことです。
  263. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.158
  264. ↑ 木下吉甫著『翁物語』P.157
  265. ↑ 『野史 61』P.57
  266. ↑ 『野史』 第3巻 3版 P.2040
  267. ↑ 『古事類苑 外交部』P.520-521
  268. ↑ 『朝鮮群書大系 : {正}24輯続24輯続々24輯別集7輯 〔正 第8〕』P.126
  269. ↑ 『国恩録』第七冊P.4
  270. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 蔚山合戦之事 P.550-552、『日本外史新釈 巻15 徳川氏前記 豊臣氏上,巻16 徳川氏前記 豊臣氏中』 P.134~135、『邦文日本外史 改訂』 P.560~561、『贈位功臣言行録』 P.188、『逸史 午,未』P.24、『名将言行録』P.810
  271. 1 2 『柳川史話』第四卷 文献篇 二二七 沖の石 P.459-460
  272. ↑ 『立花遺香』、『国恩録』第六冊 P.37-40
    • 一、十時但馬(惟由)の話によれば、蔚山への援軍(後詰)には、殿様(宗茂)は二度にわたって伺われた。その後、出陣にあたっては、まず諸家の大名たちに相談なされた。しかし、殿様ご自身は釜山浦から、他の諸家より二日遅れて出発された。その理由は、各地で一揆が起こっており、釜山浦と蔚山の間の連絡が断たれていたためである。
    • 殿様には、道中の一揆を掃討していただきたいとの依頼があった。はと(場所名、どこかを忘れた)で、大勢の明国兵が釜山浦から七、八里離れた場所に陣を取り、これを撃退なされた。そして、釜山浦に残っていた部隊も呼び寄せて、蔚山へ向かわれた。
    • 正月二日の未明、すでに出発していた部隊に合流され、軍評定の場に姿を現された。毛利殿(秀元)が言うには、「これまで加勢(援軍)のことは加藤(清正)・浅野(幸長)にも話してあり、今さら兵を損なうわけにはいかない。城を明け渡して引くしかないのでは」と。
    • そのとき黒田(長政)・小早川(秀包か秀秋か不明)の両殿は、「このままでは出陣の証も立たぬ。幸い、立花殿も加わっているのだから、我々三人のうちで先陣を務めるべきだ」と強く主張したが、結論は出なかった。
    • 殿様は「道中の一揆掃討を行いながらここまで来た。もしこのまま戦闘がなければ、再び釜山浦まで一揆を掃討しながら帰ることになろう。だが、この大軍を前にして誰かが戦えば、見捨てては帰れない。状況を見て、どこへでも出陣する覚悟はある」と言われた。しかし話はまとまらず、気の毒に思われていたところ、釜山浦と蔚山の間でまた一揆が起きたとの報が入る。殿様も、釜山浦の掃討のように蔚山から引き返されるべきかと考えていた折、小早川殿の足軽たちが敵に足止めされ、苦戦に陥った。
    • そこで吉川蔵人(広家)が部隊を出し、合戦を開始した。黒田・小早川の両殿もこれを援護し兵を出した。殿様がご出馬なさり、敵が雲霞のごとく押し寄せる中を突入し、敵を崩した。これを見て敵の先陣・後陣は同時に崩れ、敗走した。
    • この時、渡部沢右衛門の親と後藤勘右衛門(経継)の両名が、殿様の馬を引いてよく御供した、という話である。
    • 一、立花丹波(米多比鎮久)のお話によれば、蔚山城の最初の後詰の際、諸家の軍勢は敵の先鋒に押し寄せた。殿様(宗茂)は敵の諸軍勢何万騎とも知れず、備えを固めていて槍を突き入れられました。
    • 立花吉右衛門(成家)と由布五兵衛(壱岐のこと、惟次)という二組が先陣を務めた。敵の備えは堅固で、しかも敵は迎え撃つ構えで、丘の下に控えていましたが、(我々が)退くことなく攻めかかったため、先陣の二部隊はほとんどの敵を追い払いました。吉右衛門は半弓の矢を四本も射かけられたが、崩れかけた味方の勢いを持ち直し、采配を取り指揮を執った。
    • 和泉(小野鎮幸)隊および我々の隊は備場の下手にいて、先陣の戦いの様子は詳細には見えなかったが、本陣は高地にあり、状況がよく見えたため、和泉も我々も兵を出して攻めかかると、先鋒はほぼ敵を追い払いました。吉右衛門は二、三十人の部下とともに反転攻勢を繰り返しながら戦いました。十時但馬守は崩れた敵勢に押され、踏みとどまるのが困難になったため、槍の石突を地に突き立て、敵に背を向けず、槍の柄につかまって一人踏みとどまりました。
    • 備えが乱れても攻めかかる敵兵に、和泉隊と我々の二手が槍を合わせて攻撃したため、抵抗もなく敵は総崩れとなりました。総じて朝鮮兵は一度崩れると、その後はほぼ全てが総崩れとなり、反撃に出ることは稀です。敵は無数の大軍でありましたが、殿様の一手によって敵を追い払う様子を見て、各方面の軍勢が一斉に敗走した。
    • 和泉隊と我々の二隊が敵と交戦する前に、奮戦中の但馬を討ち取られてしまうのではないかと殿様が懸念され、「自ら馬で突入せねばならぬ」と仰せになった。殿は御馬を進めようとされましたが、御馬引きの者がよく馬を制止したため、殿はお怒りになり、その馬引き者の兜を打ち割られたという話である。
  273. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三五)朝鮮両度の役 自文禄元年至慶長三年 P.19-20
  274. ↑ 『国恩録』第六冊P.28-30
  275. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(六)従軍者谷田六郎兵衛尉の手記覚書 117頁。
  276. ↑ 『再造藩邦志』巻四「賊又圍都督(陳璘)船。賊攀都督之船。幾及都督。都督子陳九經以身捍之。至被賊刺血淋漓。猶不動。旗牌官世煒以鎲鈀刺其胸膛投海中。九經得免。賊船鱗集於都督船下。都督令下碇。王元周福日昇二將。亦換我船。挾都督船。都督令軍中吶喊放大砲。諸賊仰放鳥銃。都督令諸軍依挨牌而伏。諸賊見之。一時挺劍以上。天兵以長槍俯刺之。」」、「賊爭跳上陳船」(徐希震『東征記』)
  277. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第百八十七宗茂露梁の戦功)
  278. ↑ 『泗川新寨戦捷之偉蹟』「第十 川上久国泗川御陣記」P.59
  279. ↑ 『朝鮮役録』P.20
  280. ↑ 『国恩録』第六冊P.43-47
  281. 1 2 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 立花宗茂小早川秀包上方出馬並帰陣之事 P.590-593
  282. ↑ 大津籠城合戦記
  283. 1 2 中野 2001, pp. 121.
  284. ↑ 『評註名将言行録』P.250
  285. ↑ 『慶長武士』P.140-142
  286. ↑ 『常山紀談』 立花家足軽鉄砲の用意
  287. ↑ 関原軍記大成 P.12-13
  288. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十一 関原一乱始末大概之事 P.566-567
  289. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三六)近江国大津 慶長五年九月十三日 P.20-22
  290. ↑ 『京極家譜』、『高島郡誌』P.586
  291. 1 2 3 中野、穴井 2012, pp. 178.
  292. ↑ 『大日本史料 第1 2編之6』慶長十四年正月~同十五年二月P.330
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  294. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』九十一 大津の戦い P.245-248
  295. ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳河偉人小伝(三)世戸口政真 870頁
  296. ↑ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十六節 柳河偉人小伝(六)立花政辰 954頁
  297. ↑ 関原軍記大成 P.48
  298. ↑ 『慶長武士』P.142-144
  299. ↑ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第九章 大津)
  300. 1 2 『立斉旧聞記』
  301. ↑ 『柳川史話』
  302. ↑ 『柳川藩・船頭役鶴田家の由緒書』
  303. ↑ 『国恩録』第六冊P.64-65
  304. 1 2 『評註名将言行録』P.251
  305. ↑ 『日本戦史・関原役』(補伝 第百六立花宗茂再戰説及歸國)
  306. ↑ 『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』 P.280-282
  307. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.282
  308. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十三 柳川久留米山下開城之事 P.618、『長編歴史物語戦国武将シリーズ(1)立花宗茂』P.284
  309. ↑ 『国恩録』第七冊P.17-19
  310. ↑ 『国恩録』第七冊P.7-11
  311. ↑ 『立花遺香』 P.152
  312. ↑ 『日本戦史・関原役』(第七篇 本戦前後東西各地ノ諸戦 第十七章 柳河)
  313. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十二 江上合戦之事 P.595-614
  314. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21 小野文書・一六六 「小野和泉・立花吉左衛門・十時源兵衛申分覺」(小野文書312) P.132-133。
  315. ↑ 八院の戦い史跡
  316. ↑ 『柳河戦死者名譽錄』(三七)筑後江上八院 慶長五年十月廿日 P.22-25
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  318. ↑ 『国恩録』第七冊P.12-14
  319. 1 2 中野 2001, pp. 124–128.
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  331. ↑ 『日本戦史・大坂役』(補伝 第二百三十宗茂の卓識)
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  384. ↑ 中野等/穴井綾香『近世大名立花家』P.223
  385. ↑ 『柳川史話(全)』(由布壱岐家聞書・坂崎出羽守御追伐の節諸事立斎樣へ御内意被蒙仰始終立斎樣御謀を以て無滞御退治被遊候由、出羽守家老の内一人及沙汰候勇士有之候を上にも大事に被思召上候処立斎樣御謀にて寺へ被名寄、由布壱岐へ被仰付、壱岐寺の白洲にて出羽守家老に立迄無事右討果被申、御家之御面目壱岐一分之誉より其節)P.348。
    『立花宗茂』(古賀敏夫著)(将軍秀忠は宗茂と柳生宗矩とに命じて、謀反のあった坂崎直盛を討たせた。これも、宗茂の智謀により、坂崎の家臣が主君を殺して降参し、無事に落着した。)P.331。
    吉永正春『筑前戦国史』 (宗茂が師(丸目長恵)と同門の柳生家と親密であったのは、のち、坂崎出羽守直政の事件に関し、その追討を柳生但馬守宗矩とともに将軍家より命ぜられ、宗茂の智謀で無事落着したので、柳生も宗茂の兵法の理にかなった行為を称讃したという。)p.361。
  386. ↑ 中野等 『立花宗茂』P.211~212
  387. ↑ 『立花遺香』P.68
  388. ↑ 『評註名将言行録』P.259
  389. ↑ 『立花遺香』 P.170-171
  390. ↑ 『評註名将言行録』P.242
  391. ↑ 『国恩録』第三冊P.10
  392. ↑ 『立花遺香』 P.19
  393. ↑ 『評註名将言行録』P.221
  394. ↑ 重要文化財。立花家史料館蔵。http://www.tachibana-museum.jp/muneshige/point.html
  395. ↑ 剣 銘 長光
  396. ↑ 『評註名将言行録』P.230
  397. ↑ 『国恩録』第三冊P.22-23
  398. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第十九 立花宗茂昇進之事 P.528~529
  399. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八八)大國拜領御辭退 216-218頁
  400. ↑ 『国恩録』第四冊P.77-78
  401. ↑ 『評註名将言行録』P.248
  402. ↑ 『柳川史話』第四卷 文獻篇 二二七 沖の石 P.459~460
  403. ↑ 『国恩録』第五冊P.3-4
  404. ↑ 『日本戦史・朝鮮役』(補伝 第七十宗茂碧蹄の殊功)
  405. ↑ 中野 2001, pp. 133.
  406. 1 2 中野 2001, pp. 133–134.
  407. ↑ 『評註名将言行録』P.260-262
  408. 1 2 吉永正春『筑前戦国史』p.359。
  409. ↑ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一) 一三、宗茂公の兵法書に就て(衣川卷と師鑑抄)(一)・(二) P.31-33
  410. ↑ 吉永正春『筑前戦国史』p.361
  411. ↑ 『国恩録』第三冊P.3
  412. ↑ 『筑後将士軍談』 卷之第二十 福島立花相親之事 P.547-549
  413. ↑ 中野 2001.
  414. ↑ 三池.
  415. 1 2 岡.
  416. ↑
  417. ↑ 中野 2001, pp. 260.
  418. ↑ 日置流弓條々
  419. ↑ 金溜地塗籠弓
  420. ↑ 朱漆塗弓
  421. ↑ 中野 2001, pp. 263–264.
  422. ↑ 中野 2001, pp. 264.
  423. ↑ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四九六 曼殊院官良恕法親王書状 以上、其後者、何角打過、無沙汰難申盡候、内々御朱申度存候へ共、無御隙由承候間、不得申候、仍此薫物調合候条、遣之候、かしく、 八月二日 、立花飛騨守殿 P.583。
  424. ↑ 中野 2001, pp. 265.
  425. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八六)出陣の御酒 216頁
  426. ↑ 沖の石図蒔絵組盃、沖の石蒔絵盃
  427. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(八三)立花家御持傳の五ッ組盃の銘 211-213頁
  428. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(九二)軍略湧が如く出づ 220-221頁
  429. ↑ 『国恩録』第四冊P.63-66
  430. ↑ 伊予札縫延栗色革包仏丸胴具足、鉄皺革包月輪文最上胴具足
  431. ↑ 『立花遺香』 P.21
  432. ↑ 『国恩録』第四冊P.81
  433. ↑ 銀杏葉紋鞍
  434. ↑ 『国恩録』第三冊P.3
  435. ↑ 『大日本史料 第1 2編之37』元和七年正月~同年六月P.66
  436. ↑ 評註名将言行録. 中 263頁
  437. ↑ 『立花遺香』 P.160
  438. ↑ 帰命寺(大石曽束1)の香炉
  439. ↑ 『旧柳川藩志』上卷 第五章 行政 第一節元亀・慶長時代187頁
  440. ↑ 《旧柳河藩志》第三章・藩治、第三節・藩政、第二・軍政組織 P.155)
  441. ↑ 『国恩録』第四冊P.74-75
  442. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(二四)『立花事実記』 唐(明国)の書にも金甲の兵とは御当家先手の歩卒、甲冑具足胴の脊中に大なる金色の蛇の目(金の日の丸)を出し相印とし、兜は桃形にして金磨きなり。故に日に映し輝く大明朝鮮の兵卒も、宗茂公の備を見知り其勇強を恐れて、金甲の兵と称せりとなり。135-136頁
  443. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七八)御軍器物數改御帳 206-207頁
  444. ↑ 『柳川史話』第四卷 文献篇 二三一 柳河藩の主なる武器 P.464-465
  445. ↑ 金箔押桃形兜、立花家史料館 金箔押桃形兜、立花家十七代が語る 立花宗茂と柳川
  446. ↑ 『筑前戦国史』P.126、『戦国末期における筑前小田部氏について』P.63、『早良郡誌』(小田部紹叱の碑文)
  447. ↑ 『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537、『糸島郡誌』P.105、『太宰管内志 上巻』P.33、『筑前戦国史』P.126、『小田部軍物語 関ヶ原への道』小田部家系図、P.13、P.51-52-55-56-60
  448. ↑ 『豊前覚書』P.24、P.30、P.84、P.90
  449. ↑ 『大分市歴史資料館年報 (平成22年度)』P.13-14、『福岡市博物館研究紀要 (1)小田部文書』P.67
  450. ↑ 『筑前國續風土記 卷之二十八』 古城古戦場 早良郡 安楽平城址
  451. ↑ 『神代家とその一族』、「神代勝利の一生」P.118
  452. ↑ 『筑後国史 中巻』P.26
  453. ↑ 『立花家旧記』
  454. ↑ 『柳川藩叢書』第一集 補遺(七三)母衣大将并使番 203-204頁
  455. ↑ 『柳河藩立花家分限帳』6-7頁
  456. ↑ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.24
  457. ↑ 『立花遺香』 P.20~21
  458. ↑ 『旧柳河藩主立花家文書-系譜附録』00001740
  459. ↑ 「立齋公御咄之覺」《旧柳河藩志》第五章・行政、第二節・柳河再城時代 P.192
  460. ↑ 岡茂政 著《柳川史話》第二卷人物篇第117、山崎美成の「夜談録」に《立花家旧記》から「立齋公口述次第」(「立齋公御咄之覺」)
  461. ↑ 《旧柳河藩志》第三章・藩治、第三節・藩政、第二・軍政組織 P.154-155)
  462. ↑ 『福岡県史資料』第2輯P.439~440
  463. ↑ 「播州豊前筑前筮仕諸臣名簿」
  464. ↑ 顕孝寺存応―大友貞宗が創建した禅寺の僧侶 - 名古屋学院大学
  465. ↑ 『帆足万里全集 上巻』P.404
  466. ↑ 十時氏略系図

参考文献

  • 渡辺村男 『柳川藩叢書 第一集』(青潮社、1922年)
  • 浅川安和 『柳川藩叢書 第二集』(青潮社、1991年)(又名:浅川傳右衛門聞書、立花遺香、立花家聞文、公程閑暇雑書)
  • 浅川漏泉 『柳川藩叢書 第三集』(青潮社、1985年)
  • 渡辺村男 『旧柳川藩志』(青潮社、1957年)
  • 木付帯刀 『万日記 (柳川史話)』(柳川郷土史刊行會、1956年、再版 清潮社、1984年)
  • 『立斎話記・立花家蔵感状記』
  • 『立花記』(柳川古文書勉強会)
  • 『高橋記』(続群書類従 第二三輯上)』(続群書類従完成会、1927年)
  • 『立斎旧聞記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年)
  • 『大津籠城合戦記(続群書類従 三)』(続群書類従完成会、1970年)
  • 『新訂寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会、1964年)
  • 『筑前博多史料豊前覚書』 (城戸清種著、川添昭二校訂、文献出版、1980年)
  • 『 立花朝鮮記(改訂 史籍集覽 一三)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年)
  • 『立花立斎自筆島原之戦覚書(改訂 史籍集覧 一六)』(近藤活版所、1902年、再版 臨川書店、1984年)
  • 『立花家文書』(株式會社「御花」)
  • 『立斎樣御自筆御書之写』
  • 『筑後国史 : 原名・筑後将士軍談. 上巻』
  • 岡茂政 著、柳川郷土研究会 編『柳川史話』青潮社、1984年。全国書誌番号: 85021839。 
  • 中野等「文禄の役における立花宗茂の動向」『日本歴史』597号、1998年。 
  • 丸山雍成 編『日本近世の地域社会論』文献出版、1998年。 ISBN 978-4-8305-1211-7。「中野等「敗者復活―徳川幕府成立期の立花宗茂―」」 
  • 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年。 ISBN 978-4-8231-0528-9。 
  • 中野等 著、日本歴史学会 編『立花宗茂』吉川弘文館〈人物叢書227〉、2001年。 ISBN 978-4-642-05220-7。 
  • 『柳川市史 史料篇V 近世文書(前篇)』(柳川市史編集委員会、2011年)
  • 『柳川市史 史料篇V 近世文書(後篇)』(柳川市史編集委員会、2012年)
  • 中野等、穴井綾香 著、柳川市史編集委員会 編『柳川の歴史4・近世大名立花家』2012年。全国書誌番号: 22117194。 
  • 本郷和人『戦国武将の明暗』新潮社〈新潮新書〉、2015年。 ISBN 978-4-905327-60-8。 
  • 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』花乱社、2016年。 ISBN 978-4-905327-60-8。 
  • 岡宏憲『立花宗茂 将軍相伴衆としての後半生』宮帯出版社、2017年。 ISBN 978-4-8016-0136-9。 

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