大友義統
大友義統
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大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。
注釈
- ^ 大和国宇田の城主の娘であったと伝わる[1]。
- ^ 『群書系図部集』では貞勝と義親の母を立花統虎の娘とする[2]。大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂(統虎)の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
- ^ 任左兵衛督 口宣案 大友家文書[要出典]
上卿 勸修寺中納言
天正七年十一月廿七日宣旨
從五位下源義統
宜任左兵衞督
藏人頭右中辨藤原兼勝奉
(訓読文) 上卿 勧修寺中納言(勧修寺晴豊 36歳 正三位 権中納言) 天正7年(1579年)11月27日宣旨 従五位下源義統(大友義統 22歳) 宜しく左兵衛督に任ずべし 蔵人頭右中弁藤原兼勝(広橋兼勝 22歳 正四位上)奉(うけたまは)る - ^ つまりキリスト教に帰依したのは、僅か2ヶ月である。
- ^ 彼女の経歴は大友宗麟の次女・テクラの娘「マセンシア」と混同される。また、「桑姬」という人物について、実には宗麟の長女・「ジュスタ」(一条兼定室のち清田鎮忠室)のことだが、義統の次女・「マキシマ」やテクラの娘・「マセンシア」や宗麟の長女・ジュスタの娘・「マダレイナ」など「桑姬」として混同される[11]。
- ^ 義統から偏諱を賜った家臣の子孫が「統」の字を用いるようになった例もみられるのでそれに該当するであろう人物には※印で示してある。これらの人物は年代的に義統死後の人物で義統から直接偏諱を賜っていない者と考えて良い。また、「義統」時代と「吉統」時代での区別は特にしていない。
出典
- ^ 小和田哲男 編『戦国大名閨閥事典』 3巻、新人物往来社。ISBN 4404024231。
- ^ a b c d 塙保己一 編「大友系図」『群書系図部集4, 第3巻』八木書店、1973年、368頁。ISBN 4797102764。
- ^ 国書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 系図綜覧. 第二』国書刊行会刊行書、1915年、139頁 。ただし、立花家の系譜によれば宗茂と三人の妻の間でも実女が持っていなく幾人の養女も義統や義乗の室ではない。また、大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂(統虎)の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されているなので、『群書系図部集』や『系図綜覧』に立花左近統虎の娘という記述は統虎妹の誤記かもしれない。
- ^ 大友・松野・吉弘氏関係略系図によれば義乗の室は紹運女で宗茂の妹・退清院殿梅月春光に当たる人物とされて義政と義親の母と明記し、義政の改名は貞勝と記載されている。
- ^ 中野等『立花宗茂』吉川弘文館、2001年、278頁。の系図によると、義親は高橋紹運女と義乗の子。
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』424頁の系図によると、義親と貞勝は紹運女の子。
- ^ 外山幹夫『大友宗麟』吉川弘文館〈人物叢書〉、1975年、143-144頁。
- ^ 福川一徳 著「大友義統の家督相続をめぐっての一考察」、渡辺澄夫先生古稀記念事業会 編『九州中世社会の研究』1981年。
- ^ a b c d e #唐橋。p.p.89
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年、9・29・38頁頁。偶然によるものだが読み方に変更はない。
- ^ 隠された大友家の姫ジュスタ―「桑姫」再考
- ^ #唐橋。p.p.242
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