戸次川の戦い
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戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保が率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州平定の緒戦で、豊臣勢が敗退した。
- ^ 伊予武田氏で仙石配下。敗戦後、戦線離脱し高野山に蟄居。武田道安の父。
- ^ a b 山本 1987, p. 138.
- ^ a b c 山本 1987, p. 139.
- ^ 山本 1987, p. 138-140.
- ^ 山本 1987, p. 140.
- ^ 山本 1987, p. 142.
- ^ 「川上久智」項目参照。
- ^ a b 山本 1987, p. 141.
- ^ 山本 1987, p. 141-142.
- ^ この後の九州平定において尾藤は仙石と同様の軍監を勤めるが、根白坂の戦いの際に仙石とは逆に消極策を採ったことを咎められ、所領没収となった。のちの豊臣氏による小田原征伐の際、仙石は機を得て大名に返り咲くが、尾藤は咎を受けて処刑された。
- ^ 松田 2000, p. 194-196.
- 1 戸次川の戦いとは
- 2 戸次川の戦いの概要
- 3 合戦までの経緯
- 4 参考文献
戸次川の戦い
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詳細は「戸次川の戦い」を参照 鶴賀城の援軍要請を受けた義統は、直ちに援軍に赴くことにした。このとき、府内城には大友軍のほか秀吉が援軍の先発隊として送り出した讃岐十河城の十河存保、土佐の長宗我部元親・信親父子、そして軍監の讃岐高松城の仙石秀久などの軍勢が集結しており、総勢では家久軍を上回る大軍となっていた。12月12日、大友軍は鶴賀城の西にある戸次川(大野川)の対岸にある鏡城に陣を置いた。ところが、ここで開かれた軍議で秀久が強硬に出撃を主張した。それに対して、存保や元親父子らは慎重策を主張して両者は対立した。もともと、仙石氏・十河氏・長宗我部氏らは四国でそれぞれ戦った面々でしこりが残っており、団結など望めず結果的に鶴賀城を救援したい義統の主張や秀吉直臣の軍監という権威があった秀久の強硬論により大友軍は出撃する。 だが、家久は釣り野伏せ戦法で伊集院久宣に殿軍を任せてわざと退却していった。その一方で自らと新納大膳、山田有信らの部隊を伏兵として控えさせており、大友軍が久宣を追撃して応当村まで到達するとここに伏せていた家久・大膳・有信らが一斉に打って出た。しかも退却していた久宣軍も引き返して反攻したため、大友軍は四方から取り囲まれて敗北を喫した。存保・信親・戸次統常らが戦死してしまう。この敗北で鶴賀城は家久に降伏した。
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