合戦の経過
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那須勢の侵攻を受けた宇都宮国綱は、那須家の本拠である烏山城を攻めるべく2,500騎を率いて出陣した。この際、国綱は塩谷義綱の進言により、那須家の前哨地に当たる沢村城や佐久山城などの城を攻略するため、塩谷郡泉に進軍した。資晴もまた1,000騎を率いて出陣し、両軍は塩谷郡薄葉ヶ原で対峙した。兵力では劣る那須軍であったが、諸将の奮戦により戦局を優位に進めた。辰業は宇都宮軍不利と見るや、塩谷家配下の渋垂修理、玉生大内蔵ら16騎と共に資晴を打ち取るべく突撃し、蘆野家臣の神田次郎に打ち取られた。やがて宇都宮軍は敗走し、那須軍の勝利となった。
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合戦の経過
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文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
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合戦の経過
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「江古田・沼袋原の戦い」の記事における「合戦の経過」の解説
豊島泰経は石神井城、その弟の泰明は練馬城(現・東京都練馬区に所在)で挙兵し、太田道灌の居城江戸城と河越城を繋ぐ道(江戸河越通路)を遮断した。文明9年3月14日(1477年4月27日)、道灌は石神井城を攻略を画策するが、来援の相模勢が多摩川の増水のため渡河できず断念。直ちに矛先を転じて、相模国の景春方掃討にかかった。道灌は相模勢と合流して、同月18日(5月1日)、溝呂木城を攻め、溝呂木正重は城に火を放って逃亡。小磯城の越後五郎四郎は降伏した。 続いて、小沢城の攻略にかかるが、守りが堅く容易に落ちない。そのため、道灌は河越城に甥の資忠と、上田上野介を、江戸城には上杉朝昌(道灌の主君上杉定正の弟)、三浦高救(定正の兄)、吉良成高、大森実頼、千葉自胤を入れて武蔵の守りを固めさせた。景春方も後詰に動き吉里宮内、実相寺らが小山田要害(東京都町田市)を攻め落として牽制。 同年4月(5月中旬)、小机城の矢野兵庫助が河越城を衝かんと出撃。同月10日(5月22日)に太田資忠・上田上野介と勝原(すぐろはら。現・埼玉県坂戸市に所在)で合戦となり、矢野兵庫助は重傷を負って撤退した。 同年4月13日(1477年5月25日)、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原(※『鎌倉大草紙』では「江古田原沼袋」)で合戦となった。なお、この時道灌は氷川神社(東京都中野区)に本陣を置いたとされる。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死に(『鎌倉大草紙』では「板橋氏・赤塚氏以下150名が戦死」)し、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」ものとする説が有力である(葛城明彦・伊禮正雄・八巻孝夫、齋藤秀夫その他)。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫らの支持により「練馬城」とするのが新たな通説となっている。 有名な道灌の足軽軍法により、一騎討ちの騎馬武者に軽快な足軽が集団で攻めかかったことが勝因であったと解説されることがあるが、実のところ道灌の足軽軍法は江戸時代の『太田家記』に名称が記されているだけで実態は不明である。 その後泰経は石神井城に逃げ込み、明くる4月14日(5月26日)、道灌は愛宕山(旧地名・城山、東京都練馬区上石神井三丁目=現・早稲田高等学院付近)に陣を敷いてこれと対峙した。同月18日(5月30日)、泰経は城を出て道灌と会見し、降参を申し出た。城の破却が当時の降伏の作法であったが、泰経がこれを実行しなかったため、偽りの降参とみなした道灌は同月21日(※28日説もある。21日での換算:6月2日、28日での換算:6月9日)に攻撃を再開、石神井城の外城を攻め落とした。これにより抵抗を諦めた泰経は、その夜闇に紛れて逃亡した。 石神井城を陥落させ、河越城との連絡線を回復して行動の自由を得た道灌は主君顕定、定正と合流して北武蔵、上野を転戦して景春を封じ込めることに成功。文明10年正月(1478年2月頃)に入って、古河公方が和議を打診してきた。 この和議を妨害するかのように、同月、泰経が平塚城に拠って再挙する。しかし、25日(2月27日)に再び道灌がそこへ攻撃に向かったため、泰経はまたしても戦わずして足立方面に逃亡した。泰経のその後の消息は不明となっており、これにより名族・豊島氏の本宗家は滅亡した。なお、以前の通説では「泰経は丸子城(現・神奈川県川崎市に所在)から更に小机城(現・神奈川県横浜市に所在)へと落ち延びた」とされていたが、現在は伊禮正雄・葛城明彦らによってこれはほぼ否定されている。伊禮・葛城は「『太田道灌状』では『豊島氏が足立より遥かに北に逃げたため追撃を諦め、その夜、江戸城に戻った。翌朝丸子城を攻めに行ったところ、敵は小机城に逃げた』とされているだけで、これが豊島氏であるとはどこにも記されていない。足立より北に逃げた豊島氏が翌朝川崎に現れるはずもなく、道灌が翌朝までにその逃亡先を突き止めているということも理論上有り得ない」「『鎌倉大草紙』はこの『敵』を豊島氏としているが、『大草紙』は『道灌状』を下敷きに書かれたもので、これには作者の誤った解釈が含まれていると考えられる」としている。
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合戦の経過
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景虎ら長尾・佐野連合軍は宇都宮領へ侵攻する前に小山氏の祇園城へ侵攻し、当主小山高朝を一戦も交えずに降伏させた。その後は壬生氏の壬生綱雄が拠る壬生城を攻め落とし、宇都宮領の多功城へと進軍した。宇都宮勢は多功城主で宇都宮家中一の侍大将と評された多功長朝率いる多功勢と宇都宮家からの援軍の合計約2,000騎が迎え撃った。両軍は多功城下の多功ヶ原で激突した。長尾・佐野勢は佐野氏当主で先陣の佐野小太郎(佐野豊綱)を筆頭に多くの兵が討ち取られたため、景虎は兵を引き上げた。宇都宮勢の奮闘によりなんとか長尾・佐野勢を撃退できたが、多くの将が犠牲となった。6月上旬には多功長朝ら多功勢は敗走する長尾勢を追撃し、上野国白井まで攻め込み太田資正の仲介によって和睦した。
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合戦の経過
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一条方が四万十川以東の集落や中村城の城下町を襲って挑発すると、長宗我部元親はわずか3日後に7300の軍勢を率いて四万十川東岸に現れた。当時は常備軍の制度が一般化していなかったため、短期間で多勢を揃えて(おそらく、田植えの時期を過ぎていたことも影響したと見られる)進軍してきた様子を見た一条方は驚いたとされる。半農半兵から一歩進んだ一領具足制度の有効性を物語る一幕である。 両軍は四万十川を挟んで東西に対陣する。まず長宗我部方の第一陣が正面から渡河を試み、数に劣る一条方は後退しつつ弓矢や鉄砲を浴びせて応戦した。ここですかさず、長宗我部方の第二陣に控えていた福留儀重率いる手勢が北へ向かい、障壁となる杭がない上流から迂回する動きを見せる。二方面からの挟撃を恐れた一条方は隊を分け、上流に向かった福留隊を追ったが、この隙を逃さず、長宗我部元親は残った全軍に一斉渡河を命じた。 少ない兵力をさらに分散させ、寄せ集めで指揮系統も乱れていた一条方に、正面から倍以上の兵力で迫る長宗我部軍を迎え撃つだけの力はなく、たちまち総崩れとなった。なおも追撃を受けた一条方は200余名の死者を出して敗走したのに対し、長宗我部方に被害は少なく、土佐の覇権がかかった四万十川の戦いは、数刻で決着した。夕方になる前には首実検を終えることができたと言われる。
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合戦の経過
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鎌倉幕府編纂の歴史書である『吾妻鏡』には壇ノ浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」とのみ簡潔に書かれており、合戦の具体的な経過は分からない。そのため信憑性には難があるものの『平家物語』、『源平盛衰記』などの軍記物語を基に巷間で信じられている合戦の経過を述べることになる。 また、以下の経過は大正時代に黒板勝美東京帝国大学教授が提唱して以来、広く信じられている潮流説に基づいている。
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合戦の経過
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義貞は約67000の軍勢で京を出陣。尊良親王と共に東海道を鎌倉へと進んだ。一方、尊氏は東国の武士を集め弟の直義を大将として新田軍を迎え撃つため出陣させた。 建武2年12月5日、両軍は安倍川右岸河口付近の手越河原で激突。時に正午だった。 正午から夜8時まで17回の激闘の末、新田軍が夜襲に成功し直義勢は敗れた。この戦いで近江国守護の佐々木道誉の弟の貞満らが戦死。道誉も新田軍に降伏して新田軍に従軍した。難太平記ではこのとき、直義の家臣の淵辺義博が身代わりに殺され、直義が逃げる間をつくったとされる。 南朝方から書かれた『太平記』では直義は鎌倉に敗走したものの、義貞は伊豆国府に兵を逗留させたままにしたため「薄情」(情けないの意)と評している。一方、足利方から書かれた『梅松論』では直義軍は鎌倉まで退却せず箱根水呑(水呑峠)に留まったとしている。
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合戦の経過
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岩屋城には763名の城兵が籠る。1586年(天正14年)7月12日島津軍は降伏勧告を出すが紹運はこれに応じず、徹底抗戦を行った。7月14日、島津氏による岩屋城攻撃が開始された。しかし、島津軍の大半は他国衆であり戦意に欠けていた。紹運の采配により、島津軍は撃退され続け、おびただしい数の兵を消耗していた。城攻めで苦戦する島津方は紹運の実子を差し出せば講和する旨を伝えたが紹運はこれにも応じなかった。 籠城戦が始まって半月が経過した27日、島津軍は島津忠長が自ら指揮をし総攻撃を仕掛けた。多数の死者を出し城に攻め入り、ついに残るは紹運の籠る詰の丸だけになっていた。紹運は高櫓に登って壮絶な割腹をして、果てた。紹運以下763名全員が討死、自害して戦いの幕は降りた。 一方、島津氏は岩屋城を攻略したものの多数の将兵を失ったため、態勢の立て直しに時間を要し、九州制覇という島津氏の夢が叶わなかった遠因となった。
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合戦の経過
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新納石城は日向国中部、現在の宮崎県児湯郡木城町石河内にあった城で、伊東四十八城の一つ。1568年(永禄11年)頃は長友源二郎が城主を務めていたとされる。なお現在、城跡は武者小路実篤が理想郷として開設した日向新しき村(一般社団法人)の敷地となっている。 永禄年間(1558年–1570年)、伊東四十八城に代表されるような栄華を誇った日向の伊東義祐であったが、1572年(元亀3年)の木崎原の戦い以降衰退し始めると、1577年(天正5年)に到ってついに島津氏の侵略に耐えきれず、北九州の大友宗麟を頼って家臣と共に日向から豊後へ一時的に退去した。これによって島津義久は日向の多くを手に入れ、北九州を治める大友宗麟との対決は避けられない状況となった。 他方、豊後で義祐を受け入れた宗麟はその要請に応じる形で日向への出兵を決定。それに先んじて、まず1578年(天正6年)2月に大友軍先鋒を日向北部の門川へ送り込んだ。この際義祐の命を受けた伊東家家臣団がこれに同行し、翌3月には伊東家家臣の長倉祐政、山田宗昌らが同じく日向北部の石城に入城し、日向北部から豊後へと侵略する島津軍に抗戦する構えを見せた。
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合戦の経過
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当初の予定通り2月18日に福光城を進発した石黒・惣海寺軍は、先陣に野村五郎と石黒次郎左右衛門率いる500名余り、二陣惣海寺宗徒1000名余り、本陣大将石黒右近光義以下500名余り、後陣300名余り、桑桂1600名から成り立っていた。一方、瑞泉寺には五箇山勢300名余り、近在百姓2000名余り、般若野郷の百姓1500名、そのほか射水郡百姓1000名らが武鍵 熊手・棒・鎌をなどを持って集い、総勢5000名余りの石黒方を上回る大軍勢となった。 瑞泉寺軍は井波より1里西の山田川まで押し出し、山田川沿いの田屋川原の地にて石黒軍を待ち構えた。到着した石黒軍は瑞泉寺軍が予想よりも遥かに多いことに気づいたが、坊主・百姓ならば蹴散らせると見て先陣500名余りと惣海寺宗徒300名が遂に瑞泉寺方に攻撃を仕掛けた。 これより先、かつて石黒家に仕えていた坊坂四郎左衛門は何らかの理由で石黒家に居所の桑山城から追い出され、土山御坊に寄宿していた。本泉寺を通じて土山に石黒家の瑞泉寺討伐の企みが伝わると、加州(加賀国)の宗徒2000人余りが瑞泉寺への助力のため集結した。坊坂四郎を中心とする土山の軍勢は全軍を二手に分け、一方は医王山惣海寺、一方は石黒家の居城福光条へ攻撃を仕掛けた。惣海寺・福光城ともに主力は田屋川原方面に出払っていたために防御の兵はないに等しく、まず惣海寺が陥落し、48の寺院は放火によって燃え尽きてしまった。福光城も女童ばかりで防ぐ者がなく、こちらも城下町が焼き払われた。 田屋川原において瑞泉寺方と激闘を繰り広げていた石黒軍は、物見の報告によってまず医王山の山谷より煙が立ち上がっていることに気づいた。更に福光城からも火が上がるのが見えると石黒・惣海寺軍は遂に戦意を喪失し、石黒勢1600名は挟撃を恐れて我先にと逃げ出した。瑞泉寺方は逃れる石黒方を追撃して700名余りの首を取り、馬具などを奪って野尻方面(現砺波市・南砺市境の一帯)にまで進出した。 石黒光義はこの地方で最も由緒の古い安居寺 (旧福野町西部)に逃れたが、瑞泉寺方はここまで押し寄せ、光義主従16名は全員腹を切り、 その首は獄門にかけられたという。この一戦後、利波(栃波)郡の国侍・地頭は残らず降参して井波に降ったため、「利波郡は瑞泉寺領と成」ったという。ただし、後述するようにこの時点で瑞泉寺による砺波郡支配が確立したかどうかについては、異論がある。
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合戦の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 01:40 UTC 版)
政宗は約10,000人(5,000人とも言われる)の兵を大崎領に送り込んだ。 2月2日、泉田重光率いる伊達軍先陣は中新田城に攻め寄せるが、城を囲む低湿地帯と折からの大雪によって身動きが取れなくなり、撤退を余儀なくされた。これを好機と捉えた大崎軍は城から打って出て伊達軍を撃破した。さらに、伊達方から大崎方へと転じた留守政景の岳父・鶴楯城主黒川晴氏が、中新田城を攻める伊達勢の後方から襲いかかった。挟み撃ちにされた伊達勢は潰走して新沼城へと撤収したが、追撃してきた大崎勢に城を包囲されてしまう。23日、新沼城に閉じ込められた留守政景は、黒川晴氏による斡旋を受けて、泉田重光・長江勝景(葛西晴信・相馬義胤からみた義兄)を人質として提出する代わりに城の囲みを解くことを条件に和議を結び、政景は29日に新沼城を出て敗残兵を収容しながら後退した。 また、大崎氏の分家にあたる最上義光(正室は大崎氏)は政宗による武力介入を許さず、5,000人の兵を率いて援軍に赴き、大崎軍に加勢して伊達領黒川・志田両郡の各所を攻略した。 一方、伊達領南方においても、2月12日に蘆名義広が大内定綱を遣わして苗代田城を攻略、伊達方の小手森城主石川光昌は相馬義胤を頼って離反する(これらの動きが郡山合戦へとつながる)。 最上、伊達氏の領域でも連日小競り合いが続いていた。4月28日、伊達勢は秋保で山形衆を百一人討ち取り、首二十一が政宗の元に届けられた。 一方、最上側でも大崎救援の隙をついて上杉景勝が重臣の本庄繁長に庄内出兵を命じている。当時は豊臣秀吉の惣無事令が発令されていたが景勝は秀吉の了解を得た上で出兵を行った。(十五里ヶ原の戦い)
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合戦の経過
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小寺勢は総勢2,000人ほどはいたが、政職の御着城や黒田氏の姫路山城などにも守備兵を割かねばならず、動かせる軍勢は孝隆率いる500の兵(黒田軍とする)だけであった。対する毛利軍は10倍の数の5,000であり、普通に戦ったのでは勝てないため、孝隆が策による戦いを展開していくこととなる。 相手は水軍兵のため、上陸してまもない頃は長時間船に揺られていた疲れで休んでおり、体勢が整っていないと判断した黒田軍は、その機を狙って奇襲攻撃をしかけた。更に、地元近隣の住民(農民)にも呼びかけ、旗を掲げさせた。毛利家中でも名将といわれるほどの実力のあった宗勝は何とか体勢を立て直そうとするも、農民たちの旗を援軍とみた毛利軍は撤退を決意し、上月に退却していった。
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合戦の経過
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天文6年(1537年)、扇谷上杉氏の当主である上杉朝興が没すると、13歳の朝定が同氏の当主となった。かねて武蔵国中央部への進出を画策していた北条氏綱はこの機に乗じて7千余の部隊で小田原城を出陣、河越城の攻略に成功した。一方、父朝興の遺言である河越城の死守を果たせなかった朝定は、重臣難波田憲重の居城である松山城まで後退して体制を立て直し、余勢を駆って城下まで攻め寄せた北条勢を迎撃した。難波田らの奮戦の結果撃退に成功したが、この際に行なわれたとされる和歌問答が風流合戦として著名である。
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合戦の経過
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元亀元年(1570年)8月13日、結城晴朝は結城城を発し、鬼怒川の船玉の渡しを越えて下妻城主・多賀谷政経を先鋒にして小田領へ侵入した。一手に石毛、豊田城に向けてその押さえとしておき、本隊は八木原から水守を過ぎ、大曾根にかかった。大曾根には小田方の浅野五郎左衛門・藤右衛門が砦を守っていたが、これを追い落とし、続いて若柴の佐藤弥左衛門、玉取の佐藤勘兵衛・甚七郎らを追い、蓮沼の庄司を滅ぼし、口ノ堀の三村三郎大夫を夜討ちし、猿壁から平塚原にかかり、一手は酒生の安楽寺を結城の本陣とした。 結城勢の侵入に対して、小田勢は小田氏治の旗本衆本隊が平塚原に出て対陣した。また苅間城主・野中瀬左衛門入道鈍斉の兵も出陣し、上ノ室城主・吉原越前、花室城主・大津長門らを大将として平塚原に向かった。平塚原は一里四方程の原であり、両軍入り乱れての乱戦となった。小田勢と結城勢は実力が伯仲しており戦いは一日では決着がつかず、やがて日も暮れ両軍相退きになった。結城勢は高田台に陣を張り、小田勢は苅間の大橋に引いて明神山に陣を張った)。 藤沢城の菅谷政貞は救援に向かい、桜川を渡って栗原に出て敵の様子をうかがった。結城勢の先陣は高田台にあり、結城晴朝の本陣は酒生にあったが、日が暮れたので合戦は明日ということになった。しかし結城勢は数に勝っていたため、小田勢は結城晴朝の本陣に夜討ちをかけようと、折からの時雨空の暗闇の中、物音もさせず、一の矢原で兵を三手に分け、石堂と兵藤の一手は猿壁から酒生の東口に回り、沼尻勢は西酒生に伏兵としておき、菅谷政貞勢は中根から口堀に向かった。結城勢は油断しており、小田勢はそれに乗じて不意に襲って本陣に火をかけたので、結城勢は大敗して吉沼まで退却した。高田に陣を敷いた多賀谷政経の隊は本陣に火の手が上がったのを見て、いそぎ救援に駆けつけたが、小田方の沼尻又五郎の伏兵にあって散々に敗れ、手子生を経て吉沼に退却した。
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合戦の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 06:08 UTC 版)
島津家久が豊後に侵攻し、大友氏の鶴ヶ城を攻撃した。12月11日、仙石秀久や長宗我部信親らはこれを救援しようと戸次川の手前に陣を敷いた。 戦略会議において、豊臣氏の軍監であった仙石は川を渡り攻撃するべきと主張したが(『土佐物語』)、元親は加勢を待ったのち合戦に及ぶべきとして、仙石の作戦に反対をしたが(『元親記』『土佐物語』)、仙石は城を救うことが最優先であるとして聞き入れず、十河も仙石の主張に理がありとして同調した。このため、渡河して出陣することになった。 戦闘は12月12日の夕方から13日にかけて行われた。先陣の仙石の部隊が不意を突かれて敗走したため、長宗我部軍の3千の兵が孤立し、島津方の新納大膳亮の5千の兵と戦闘状態になった。元親と信親らは乱戦の中で離ればなれになった。元親は戦場を離脱することに成功し、そのまま九州をも脱出し、伊予国の日振島まで逃走した。信親は中津留川原にて戦うが、鈴木大膳に討たれた。享年22。信親に従っていた700人は討死し、十河も戦死し、鶴ヶ城も落城した。 戦端を開かないように厳命していた秀吉は、仙石の命令無視と豊臣政権の権威低下につながる敗戦に怒り、仙石の讃岐国の領地を没収し尾藤知宣に与えた。
※この「合戦の経過」の解説は、「戸次川の戦い」の解説の一部です。
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合戦の経過
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別所長治の離反、及び毛利本軍の出陣を受け、羽柴秀吉は直ちに織田信長へ援軍を要請。まず播州に近い摂津の荒木村重の軍が合流するが、毛利軍がどこに現れるかは不明なままであった。この間に秀吉はしきりに毛利軍の動向を探る傍ら、三木城の攻略を開始し支城の野口城を陥落させている。一方の毛利軍は輝元軍が戦線から遠い備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景ら主力が上月城へ進軍。4月18日に包囲を開始する(第二次上月城の戦い)。上月城を守るのは尼子勝久を総大将とする山中幸盛・尼子氏久・尼子通久・神西元通らの手勢2300〜3000にすぎなかった。 毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために高倉山に進出した。対して、圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍だが、積極的に攻撃に出ようとはせず、陣城を構築し、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固めるという徹底ぶりで、完璧なまでの防御線を敷く。さらに連日法螺貝や太鼓を鳴らし威嚇行動を行い、兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取った。 織田軍にはさらに織田信忠を総大将として滝川一益、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝といった顔ぶれの援軍が到着したが、信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注いだ。このため秀吉も上月城に手を出すことはできず、後詰めの見込みがない尼子軍は絶望的な状況に立たされる。 これを見かねた秀吉は6月16日に京都へ向かい織田信長に指示を仰いだ。しかしあくまで播州平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われた。やむを得ず高倉山の陣を引き払うことになった秀吉は尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出したが、尼子主従はこれを黙殺し、徹底抗戦を選んだとされる。 6月25日、滝川一益・丹羽長秀・明智光秀が毛利軍に備えるため三日月山に布陣。羽柴軍・荒木軍は高倉山から書写山へ陣を移す。その際に熊見川(現佐用川)で毛利軍の追撃を受け、羽柴軍は大きな打撃を受けた。この戦いに参加していた毛利軍の武将・玉木吉保著作の『身自鏡』には退却した羽柴軍の陣前に「夏山に立てる羽柴の陣なれば、秋(安芸)風吹けば散り失せにけり」という歌が毛利軍兵士の手によって残されていたと記録されている。(熊見川の戦い) 7月1日、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、7月3日に尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らが自刃した。尼子再興軍の中心的人物であった山中幸盛も捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、備中国成羽で殺害された。こうして70日に及んだ上月城攻防戦は幕を閉じ、武門としての尼子氏は完全に滅亡した。 なお、生存した尼子再興軍の残党勢力は、尼子氏一門格にして筆頭家老亀井氏を継いだ亀井茲矩に率いられる形となり、本能寺の変後も秀吉麾下にて鳥取城攻略・朝鮮出兵参陣と転戦を重ね、因幡国鹿野・転封を経て石見国津和野を拝領、津和野藩(四万三千石)として幕末まで続いた。
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合戦の経過
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12月24日、松永久秀も織田信長への礼のため岐阜に下った。すると三好三人衆がこの隙を突いて動き出した。12月28日、美濃の旧国主斎藤龍興らを先鋒として、将軍方の三好義継家臣が守る堺南方の和泉家原城を攻め落とすと、三人衆は永禄12年(1569年)1月2日に堺を立って京へ向かい、4日に東福寺近辺に陣を置くと、まず京の将軍の詰城である勝軍地蔵山城をはじめとして、洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍の退路を断った。 これに対し、義昭は本国寺に籠城する構えを取った。翌日、三人衆は1万余の軍勢(5千とも8千ともいう)で攻め寄せ昼頃に合戦となったが、将軍直臣に信長家臣・若狭武田氏家臣を合わせた幕府軍2千が必死に防戦に当たり、若狭衆の山県盛信・宇野弥七らの奮戦により、三好勢の先陣薬師寺貞春勢が寺内への進入を幾度も阻まれるなどしているうち日没に至ったため、三人衆側は兵を収めた。将軍側は足軽衆など20人余りが討死したが、寄せ手の死者・負傷者も多数に上ったと伝わる。後年本能寺の変を引き起こす明智光秀が将軍側の一員として戦っており、この頃から歴史の表舞台に登場する。 この間に細川藤孝、北河内の三好義継、摂津の池田衆・伊丹衆などが将軍の救援として攻め上り、6日に七条の三好勢を三方から攻撃した。本国寺の籠城軍もこれに呼応して打って出た。不利を悟った三好勢は退却するものの将軍方に追いつかれ、桂川河畔で合戦に及んで敗北し、客将となっていた小笠原信定など多数が討死した。戦死者の数は、『信長公記』は首注文のある分として6名と「歴々の討取り」を記すだけだが、『細川両家記』では双方で8百余、『言継卿記』によれば千余、『足利季世記』によれば2千7百余、『永禄記』によれば数千という。
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