潮流説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 03:30 UTC 版)
関門海峡の潮の流れの変化が壇ノ浦の戦いの勝敗を決したとの説が一般に流布されている。しかし、潮流に関しては、合戦について簡潔にしか記していない『吾妻鏡』にはもちろん触れられていない。軍記物語の『平家物語』では「門司関、壇ノ浦はたぎり落ちる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。源氏の船は汐に向かって押され」と記されており、平氏が追い潮、源氏が向かい潮で戦ったことは述べられているが、潮流が反転して戦況を転換させたとの筋立てにはなっていない。 現在知られる合戦への潮流の影響は大正3年(1914年)に黒板勝美東京帝国大学教授が著書『義経伝』で提唱した説である。 合戦が行われた時間については『吾妻鏡』は午の刻(12時ごろ)に終わったと記しており、一方、関白九条兼実の日記である『玉葉』には午の刻(12時ごろ)に始まり、申の刻(16時ごろ)に終わったと記されている。 黒板勝美は海軍水路部の元暦2年3月24日(グレゴリオ暦換算で5月2日)の関門海峡の潮流の調査を元に、午前8時30分に西への潮流が東へ反転して、午前11時頃に8ノットに達し、午後3時頃に潮流は再び西へ反転することを明らかにし、合戦が行われた時間帯は『玉葉』の午の刻(12時ごろ)から申の刻(16時ごろ)が正しく合戦は午後に行われたとして、潮流が東向きだった時間帯は平氏が優勢で、反転して西向きになって形勢が逆転して源氏が優勢になったとした。 黒板勝美の説は壇ノ浦の戦いについて初めて科学的な検証を行ったものであり、最も権威のあるものとして定説化して広く信じられるようになった。小説、観光パンフレット類やテレビドラマはもちろん、源平合戦を扱った歴史関係書籍でもこの黒板説を元に壇ノ浦の戦いが記述されている。 この黒板説については、近年になって反論が出され、海事史の金指正三博士は潮流のコンピュータ解析を行い、合戦の行われた日は小潮流の時期で、8ノットという早い潮流は無く、また大正時代に潮流を調査した場所は最も狭い早鞆瀬戸であり(ここで千艘以上の兵船で戦うことは不可能)、広い満珠島・干珠島辺りの海域では潮流は1ノット以下であり合戦に影響を与えるものではないとした。 海上保安庁の潮流の調査に基づいても、早鞆瀬戸より東側の、合戦の行われた海域では1ノット以下という結果が出ている。 船舶史の石井謙治は同じ潮流に乗っている船の相対速度は変わらないので、潮流は合戦には影響しないと述べている。飯島幸人東京商船大学名誉教授も船同士の相対運動に潮流は関係ないとして潮流説に否定的な見解を述べている。 そもそも、鎌倉幕府による記録である『吾妻鏡』の記述を否定すべきではなく、『吾妻鏡』のとおり、合戦は午前に行われ午の刻(12時ごろ)に終わったとする説も根強い。
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