仮説
(定説 から転送)
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仮説(かせつ、英: hypothesis)とは、真偽はともかくとして、何らかの現象や法則性を説明するのに役立つ命題[注 1]のこと。仮に設けられた説として仮設とも書く[1]。仮説はその正否を実験的に検証しうるような、具体的に明確な内容を持つものであり、その仮説に反するような新しい実験事実が出てきても、その仮説を工夫してのらりくらりと変えて、いつまでたっても誤りを認めないような説は仮説ではなくドグマである[2][注 2]。天動説から地動説、創造説から進化論などの科学上の認識を大きく変えた理論は、いずれも大胆な仮説を立てることから始まっている[4]。
- ^ 『岩波 哲学・思想事典』p.239 「それ自体の真偽は確かめられていないが、色々な現象を説明したり、法則を導き出したりするために役立つものとして、仮に推論の前提に置かれる命題。」
- ^ たとえばデカルトの渦動説やプリーストリーの熱素説などがそのようなドグマと言える[3]。
- ^ たとえばプリーストリーの熱素説(フロギストン説)では、当初、フロギストンは物質であるから重さがなければならないとされたが、燃焼の際、質量減少が起こることが発見されると、マイナスの重さを持つものと変更された。それはもはや以前に考えられていたフロギストンではないから、本来は仮説を新しく出し直さなければならない[6]。
- ^ これに対する反論として、板倉聖宣はニュートンの万有引力は「大胆な仮説」であり、すべての科学的認識は仮説演繹ではなく仮説実験的に成立するとしている[11]。
- ^ ニュートンは、デカルトの「渦動説」のような宇宙に満ちた微粒子の運動を仮定して天体運動を説明しようとするような試みがすべてうまくいっていないのを見て、私はそのような仮説(ドグマ)は作らないと言ったのであって、ニュートン自身は『光学』で「光の粒子説」を仮説として提出している。これは原理的に実験で検証可能なものであるから仮説である。後世の科学史家は「ニュートンが仮説を否定した」と誤解している[11]。
- ^ 時枝誠記は「言語過程観」と呼んでいた。
- ^ ヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハなどが支持。マッハ主義とか経験主義と呼ばれ20世紀初頭に特に欧州大陸で勢力があった。マッハらは感覚で認識できないものを考えるのは非科学的だとして、ボルツマンやマクスウェルの熱現象を分子運動論で考える原子論に反対した。
- ^ 「Descent with modification」(『種の起源』)
- ^ 板倉聖宣 1966a, p. 264.
- ^ 板倉聖宣 1966a, p. 269.
- ^ 板倉聖宣 1966a, pp. 268–269.
- ^ 井藤伸比古 2021.
- ^ a b c 板倉聖宣 1966a, p. 271.
- ^ 板倉聖宣 1966a, p. 270.
- ^ 板倉聖宣 1966a, p. 272.
- ^ 板倉聖宣 1966a, p. 273.
- ^ a b 板倉聖宣 1966b, p. 208.
- ^ 『岩波 哲学・思想事典』p.239
- ^ a b 板倉聖宣 1966b.
- ^ PC Watch 2016.
- ^ WIRED 2009.
定説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/21 07:11 UTC 版)
「鞆の浦鯛しばり網漁法」の記事における「定説」の解説
鯛は春先に産卵のため瀬戸内海中央部にやってくるため、それを狙って瀬戸内海沿岸部各地で鯛漁が行われていた。 この地ではこの漁法が開発される以前は、地引き網漁、あるいは沖合に張った建て網で岸近くまで誘導して捕獲していた。そこから讃岐国西讃周辺で行われていた「たい大網」あるいは「縛網」を参考に、沖合に出て鯛の魚群を積極的に捕獲するしばり網漁法に移っていった。 村上太郎兵衛義光は、因島村上氏(村上水軍)ゆかりの人物で江戸時代初期は沼隈郡常石に住んでいた。備後福山藩は、藩の重要港である鞆の沖合に位置し当時は無人島だった走島を抑えるため、義光に入植させた。この際、義光には島の全権を与えられたことから庄屋となり、そして備後灘一帯の漁業権を与えられたことから網元となり漁法の開発を進めていった。 「走島」も参照 寛永年間1630年頃、義光は鯛網を改良し、より漁獲量をあげ鯛を傷つけずつまり商品価値を落とさず効率的に捕獲する漁法として「沖しばり網」漁法を生み出した。鞆の当納屋忠兵衛と協力して改良した鯛網を始めると、漁獲高が格段にあがっていった。
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定説(佐藤進一の説)
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「麟 (織田信長の花押)」の記事における「定説(佐藤進一の説)」の解説
もともと、この花押が何の文字にあたるのかは研究者の間でも不明であり、日本中世史研究者の佐藤進一も、初めて見たときはこの花押を解読することはできなかったという。しかし佐藤は、勝海舟(勝麟太郎)の花押「麟」と比較することで、この信長の花押も「麟」の字をもとにしたものである可能性に気づいた。 勝海舟の花押「麟」は、「麟」の字の草書体の下半分が左右に開いたものである。佐藤によれば、信長の花押「麟」は勝海舟の花押の形と比べてより記号化がなされたものであり、「鹿」の草書体での書き出しの部分と「米」の部分を省いている。 「麟」とは中国の伝説上の生物「麒麟」のうち雌を意味する字であるが、中世日本においても、「麒麟」は理想的な政治が行われている社会のみに出現するものだと信じられていた。そのため、信長が「麟」の花押を使用したことは、「至治の世、平和の代への願望」の表明であったと佐藤は解釈する。そして、断言はできないとしつつも、信長が平和社会の実現を自分自身の力で達成しようという理想が込められている可能性を指摘している。このような願望を伴った花押は信長一人だけが用いたものではなく、竹中半兵衛重治の晩年の花押「千年おゝとり」(鳳凰)も、同様に平和社会への願望が込められている。 この花押使用の契機は、少し前に起きた永禄の政変であると考えられる。室町幕府将軍の足利義輝が謀反によって殺害されたこの事件の影響によって、信長は「麟」の字の花押を用い、またしばらくして「天下布武」の印章を用いるようになるのである。
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定説
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(現在の定説は1958年国宝厳島神社建造物修理委員会『国宝並びに重要文化財建造物厳島神社昭和修理綜合報告書』によるもの。) 「厳島神社#歴史」も参照 厳島神社は593年(推古天皇元年)佐伯鞍職によって建てられたとされる。鳥居も本社創建とともに建設されたとされる。 現状のような海上社殿となったのは、平清盛の援助を受け佐伯景弘によって1168年(仁安3年)建設された。海上の大鳥居もこの頃に創建されたと考えられている(初代)。初期の扁額は表側(海側)が小野道風・裏側(社殿側)が弘法大師の筆であったという。 1286年(弘安9年)10月、大鳥居は再建された(2代目)。この鳥居は1325年(正中2年)6月25日大風で倒壊した。 1371年(建徳2年/応安4年)4月、大鳥居は再建される(3代目)。材木は現在の佐伯区利松・廿日市市宮内などから運ばれた。倒壊時期不明。 1547年(天文16年)11月18日、大内義隆を旦那として大鳥居は再建される(4代目)。この時から両部鳥居になったと言われる。また義隆は大願寺尊海の要請により、後奈良天皇の宸翰の額を神社に贈る。倒壊時期不明。 1561年(永禄4年)10月、毛利隆元を当主とする毛利氏一族によって大鳥居は再建される(5代目)。材木は現在の能美島大原・中村、仁保島、山口県岩国市から運ばれた。1716年(亨保元年)自然に倒壊した。 1739年(元文4年)9月、広島藩主浅野吉長によって大鳥居は再建される(6代目)。楠は現在の中区広瀬、安芸区船越、安芸郡府中町、呉市下蒲刈町から運ばれた。1776年(安永5年)7月7日、落雷により倒壊する。1788年(天明8年)厳島を訪れた菅茶山は『遊芸日記』の中に「華表旧と江中に在り、往年雷震焚蕩し、仍お未だ修建せず」と記している。 歌川豊春 『厳島弁天図』18世紀刊行。6代目以前の大鳥居にあたる。明神鳥居、朱塗なし。扁額は「大明神」。 歌川国貞 『紅毛油絵風 安芸の宮島』文政8年(1825年)刊行。7代目以前の大鳥居にあたる。社殿は朱塗だが大鳥居にはなし。 歌川広重『六十余州名所図会 安芸 巌島祭礼之図』嘉永6年(1854年)刊行。7代目以前の大鳥居にあたる。樹皮がついたまま。扁額は「伊都岐島大明神」。 1801年(享和元年)3月27日、大鳥居は再建される(7代目)。楠は牟婁郡和歌山県側、南区宇品、竹原市、呉市などから運ばれた。1850年(嘉永3年)8月7日、大風・高潮により大鳥居は大破した。額は南の阿多田島あたりにまで漂流した。 1875年(明治8年)7月18日、小泉甚右衛門(小泉本店)らの斡旋により大鳥居は再建される(8代目、現行)。
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「定説」の例文・使い方・用例・文例
- この病気の原因については定説がない.
- 太りすぎは心臓病の原因になるというのが定説になっている.
- ジョン・カルバンの絶対予定説に反対して、人間の自由意志が神の主権と互換性を持つと考える17世紀の神学(その創設者J・アルミニウスの名をとって名づけられる)
- (厳格なカルヴァン主義の予定説の教義に反対した)オランダ人神学者ヤコブス・アルミニウスの教えを信じるバプテスト派信徒のグループ
- 厳格な予定説を信じたフランスの神学者ジャン・カルヴァンの教えを信じるバプテスト信徒の集団
- オランダ人のプロテスタントの神学者で、ジョン・カルバンの絶対的な予定説に反対したアルミニウス説を創立した(1559年−1609年)
- スイス人の神学者(フランス生まれ)で、信念(予定説、恩寵に抵抗できないこと、信仰による義認)により長老制を定めた(1509年−1564年)
- イタリア人の1846年から1878年までの教皇で、作品が1854年に聖母マリアの無原罪懐胎の定説を宣言した
- キリスト教における,予定説という考え方
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