同一人物説
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同一人物説(どういつじんぶつせつ)とは、2人の異なる人物は実は同一人物なのではないかと推測する仮説のこと。
概要
同一人物説には、最終的に広く受容されているものから、一部の主張者にとどまり、学術的に否定あるいは無視されているものまでさまざまあるが、以下の例では後者の場合が多い。本記事では、こうした仮説が提示される事象そのものについて解説する。
同一人物説は、以下のような条件が揃った場合に語られる。
- 前半生となる人物の多くは、有名であり、能力もあったと推測されながらも、若くして非業の死を遂げた人物。このような人物は悲劇の英雄として語られ、後世の大衆の人気が高くなるため(判官びいき)、もっと長く生きていてほしいという願望(生存説)が、同一人物説を醸成する原動力の一つとなる。
- 後半生となる人物の多くは、出自が不明で、壮年以降に歴史上に現れる人物。このような人物の前半生は謎解きの対象となりやすく、その答えの一つとして、同一人物説が語られる。
- 生没年が近い者同士が選ばれる。
作家や芸術家の場合は、作風の共通点などが根拠とされる。活動時期は重なっていることもある。
複数の文献調査や、文献と考古学的調査の比較対象に基づいて同一人物説が主張される場合も多い。このような同一人物説は特に「(人物)比定」と呼ばれる。なお、主君から与えられた偏諱などによる改名が原因で、同一人物の事績が後年誤って別人のそれとして扱われてきたとする説が唱えられる場合もある[1]。
例
- 卑弥呼
- 日本側の歴史書に残る、さまざまな女性との同一人物説がある。
- 神武天皇と崇神天皇
- 10代崇神天皇の諱号が「国の開祖」と解釈できるため、初代神武天皇と同一人物だという説。いずれか(あるいは両方とも)が架空だとの説もある。
- 応神天皇と仁徳天皇
- 記紀の記述に重複があることから、同一人物説がある。
- 倭の五王
- 大和朝廷の天皇に比定されることが多い(異説もある)が、どの天皇かについては諸説ある。また『宋書』では珍の死と済の即位だけが書かれていないため、珍と済を同一人物として読んでも矛盾は生じない。
- 源義経とチンギス・カン
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源義経は奥州衣川館で自刃したとされるが、実は生き延びて蝦夷へ、さらに海を越えて大陸へ渡り、モンゴル帝国を築いた英雄になったという仮説。
→詳細は「義経=ジンギスカン説」を参照
- 明智光秀と天海
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明智光秀は、山崎の戦いから落ち延びる途中で死んだとされるが、実は生きており、豊臣家を滅ぼした徳川家の元で活躍したという説。その他、光秀の従弟の明智光春や、娘婿の明智秀満とする説もある。
→詳細は「天海=明智光秀説」を参照
- 写楽
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10か月の活動期間に140枚以上の版画を残した東洲斎写楽は、生没年不詳の謎の浮世絵師として知られ、その正体として、初代歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎、喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、歌舞伎役者の中村此蔵など、様々な人物が候補に挙げられてきた。
→詳細は「東洲斎写楽 § 写楽の正体」を参照
- 大塩平八郎と洪秀全
- 洗心洞学会(のち大阪陽明学会)創設者・石崎東国により唱えられた、大塩平八郎は当時の中国大陸に亡命、のちに太平天国の建国者・洪秀全となったという説。
- ウィリアム・シェイクスピア
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→詳細は「シェイクスピア別人説」を参照
- 大場つぐみとガモウひろし
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大ヒット漫画『DEATH NOTE』原作者に関する説。
→詳細は「大場つぐみ」を参照
脚注
- ^ 加地宏江による山入師義・言義同一人物説(「源威集の作者について」『中世歴史叙述の展開 -『職原鈔』と後期軍記-』)や江田郁夫による小山泰朝・満泰同一人物説(「小山若犬丸の乱について」『室町幕府東国支配の研究』)などが挙げられる。
関連項目
同一人物説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 02:53 UTC 版)
大蔵庄左衛門(能楽師・仙台伊達藩金春大蔵流の創始者) 服部家が猿楽も関係する伊賀忍者と関わりの深い氏族である事や、大蔵流の家であり金春家の血を引く大久保長安の長女を正重が娶った事から、同じく「長安の女子」を後妻とした能楽師・大蔵庄左衛門を服部正重と同一人物であるとする説がある。服部正重の義父である大久保長安は元の名を大蔵藤十郎秦長安といい、猿楽・能楽の家系である金春家の流れを組む大蔵流大蔵大夫家の血筋であった。長安の祖先である大蔵大夫の元祖、大蔵十郎秦信喜(道加)は金春禅竹と世阿弥女子の子の一人である。その大蔵流の能楽師の中に、長安の娘を後妻に迎えたという「大蔵正左衛門信広(休岸)」という人物が存在する。長安の系図中に広く確認される女子は服部正重の妻となった長女・美香と、武田家旧臣・三井十郎左衛門吉正(あるいは吉正の嫡男)の妻であり徳川家康の側室となるお牟須の方を産んだ次女・楓の二人であり、離縁・再嫁や庶子等の記録はあまり見られない。正重の祖先は伊賀発祥の服部氏族である。「世子六十以後申楽談儀」「四座役者目録」、現在も論争中であるが「上嶋家文書(観世系図、観世福田系図)」「播州永富家文書」等に金春家の縁戚にあたる世阿弥の父・観阿弥が服部氏族の出身である等の記述がみられる事、藤堂藩能奉行を務めた上嶋氏と服部氏に縁戚関係がある事、また伊賀忍者の隠形術(七方出)に猿楽師の変装も含まれる等の理由から、服部氏族出身であり長安の女子を娶った正重について「大蔵信広・休岸という名は長安に師事した正重の能の芸名である」という説がしばしば唱えられた。 しかし、この大蔵正左衛門(または庄左衛門)は金春禅竹の子孫である金春禅曲の三男であり、兄弟には金春流の家元を継いだ金春七郎秦氏勝(清本)と尾張徳川家に仕えた庶子の金春八左衛門(安喜)がいる。庄左衛門の元の名は金春氏紀(喜寿・権兵衛安信)で、号を休岸といった。大久保長安の父であり大蔵大夫であった大蔵信安もまた金春家の血筋であり、元の名を金春喜然といった。しかし、長安は能楽師よりも武士としての成功を望んだため大蔵大夫を継がず、兄の土屋新之丞も長篠の合戦で戦死してしまった。このため、能楽の家としての大蔵大夫家は存続の危機にさらされていた。大蔵家には長安の大蔵大夫家の他、小鼓方である大蔵道違(道意・道伊)、太鼓方である大蔵道智(道知)の家があった。ある時、長安の従兄弟であり太鼓方の名手である大蔵道喜(大蔵平蔵)が事故で死に、一人娘が取り残された。このため長安はこの女子を養女とし、金春禅曲の三男であった金春氏紀を養子に迎えて二人に祝言を上げさせた。これにより金春氏紀は名を大蔵庄左衛門信広と改め、能楽の家である大蔵大夫家を継ぐ事となった。1604年(慶長8年)頃には、庄左衛門はすでに大蔵大夫家を継いでいたとみられる。この後、庄左衛門は仙台伊達藩にて独自の流派である「金春大蔵流」の創始者となり、休岸と名乗った。庄左衛門と長安の養女(大蔵道喜女子)との間には男子のほか女子も生まれ、狂言大蔵流の大藏栄虎(弥衛門)の妻となったという。また、庄左衛門の能の技は孫である大蔵経喜(経寿、常休)に受け継がれ、経喜は1678年(延宝6年)庄左衛門から相伝された能の型を「萬能鏡」に記した。これらの記録や史料から、服部正重と大蔵庄左衛門休岸は別人であると考えられる。 松尾芭蕉、弟子の河合曾良(俳諧師) 「おくのほそ道」を記した俳聖・松尾芭蕉の故郷が伊賀である事や、俳諧の旅において全国の関所を通過できた事、危険な全国行脚を安全に完遂できた事、一日あたりの移動距離が長い等の理由から、「芭蕉と曾良は忍者あるいは服部半蔵であった」という説がしばしば唱えられる。しかし、芭蕉の家系は伊賀の有力国人であり柘植三方の一氏である福地氏流松尾氏であり、服部半蔵家とは出自が異なる。芭蕉の弟子である曾良も信濃国高島城下の下桑原村(現長野県諏訪市)で高野七兵衛の長男として出生しており、服部半蔵家と関わりが薄い。また、芭蕉は1644年(寛永21年/正保元年)出生、曾良は1649年(慶安2年)出生であり、この時四代目服部半蔵であった正重及び次代となる長男正吉らは存命中であった。このため、松尾芭蕉及び曾良と服部半蔵は別人であると考えられる。
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