まつお‐ばしょう〔まつをバセウ〕【松尾芭蕉】
松尾芭蕉
松尾芭蕉
松尾 芭蕉 (まつお ばしょう)
1644〜1694 (正保元年〜元禄7年) |
【俳人】 人生を旅とし、旅を俳諧にした。漂泊の俳人。『奥の細道』の著者。 |
俳人。伊賀国出身。津藩に仕えて俳諧をたしなみ、北村季吟の指導を受けた。30歳で江戸に出ると、才を認められて談林派江戸宗匠となる。それまでの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から離れ、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現して、蕉風俳諧を打ち立てた。東北路への旅を始まりに諸国を旅し、九州を目指す旅行中、大坂で死去する。『野ざらし紀行』『奥の細道』などの紀行俳文を残す。 |
年(和暦) | ||
●1651年 (慶安4年) | ■慶安の御触書公布 | 7才 |
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 15才 |
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | 19才 |
●1681年 (天和元年) | ■護国寺建立 | 37才 |
●1682年 (天和2年) | ■江戸大火(八百屋お七の火事) | 38才 |
●1687年 (貞享4年) | ■生類憐みの令 | 43才 |
・渋川 春海 | 1639年〜1715年 (寛永16年〜正徳5年) | +5 |
・徳川 家綱 | 1641年〜1680年 (寛永18年〜延宝8年) | +3 |
・林 鳳岡 | 1644年〜1732年 (正保元年〜享保17年) | 0 |
・徳川 綱吉 | 1646年〜1709年 (正保3年〜宝永6年) | -2 |
・西川 如見 | 1648年〜1724年 (慶安元年〜享保9年) | -4 |
松尾芭蕉
松尾芭蕉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 02:05 UTC 版)
松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(正保元年)(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)[1][2])は、江戸時代前期の俳諧師。伊賀国阿拝郡(現在の三重県伊賀市)出身。幼名は金作[3]。通称は甚七郎、甚四郎[3]。名は忠右衛門、のち宗房(むねふさ)[4]。俳号としては初め宗房(そうぼう)[2]を称し、次いで桃青(とうせい)、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。
注釈
出典
- ^ 佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表
- ^ a b 阿部(1986)、p.235-241 略年譜、p.1-34 誕生と身辺・郷党の秀才
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)
- ^ 高橋(1993)、p.303 略年譜、p.4-9 松尾忠右衛門宗房の寛文時代
- ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.37参照及び引用
- ^ 東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8。
- ^ 佐藤編(2011)、p.247、あとがき
- ^ 東明雅、芭蕉の恋句、岩波新書黄版91、岩波書店1997年、p.1参照及び引用
- ^ a b 北出楯夫. “【俳聖 松尾芭蕉】第1章 若き日の芭蕉”. 伊賀タウン情報YOU. 2016年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月12日閲覧。 “上柘植村説は芭蕉の没後84年を経た安永7年(1778年)に、蓑笠庵梨一の『奥の細道菅菰抄』に「祖翁ハ伊賀国柘植郷の産にして...」と書かれたのが始まり。その後いくつかの伝記に引用されることになるが、その根拠は乏しい。”
- ^ a b c d e f 饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃
- ^ a b c d e f g h i j 佐藤編(2011)、p.34-37、芭蕉の生涯 江戸下向(延宝期)
- ^ 饗庭(2001)、p.30-42、3.談林風と江戸下向
- ^ a b c d e f 佐藤編(2011)、p.38-41、芭蕉の生涯 深川移居(延宝末~天和期)
- ^ a b c d 饗庭(2001)、p.43-54、4.隠者への道
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.14-17、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉における貞門・談林・天和調
- ^ ミュージアム都留(2000)pp.114-117。
- ^ 松尾芭蕉ゆかりの地 江東おでかけ情報局、2020年9月21日閲覧
- ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.41-44、芭蕉の生涯 『野ざらし紀行』の旅
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.44-47、芭蕉の生涯 草庵生活と『鹿島詣』『笈の小文』『更科紀行』の旅
- ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.47-48、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の旅
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.49-50、芭蕉の生涯 『猿蓑』の成立
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.50-52、芭蕉の生涯 『おくのほそ道』の成立と「かるみ」への志向
- ^ a b c d e f g 佐藤編(2011)、p.52-54、芭蕉の生涯 最後の旅へ
- ^ a b 饗庭(2001)、p.206-216、17.晩年の芭蕉
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.61-66、蕉門を彩る人々 最初期から没後まで蕉門であり続けた人々
- ^ a b c d e 佐藤編(2011)、p.66-71、蕉門を彩る人々 晩年に入門し「俳諧の心」を受け継いだ人々
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.72-73、蕉門を彩る人々 『猿蓑』を編集した対照的な二人
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.74、蕉門を彩る人々 おわりに
- ^ a b c d 佐藤編(2011)、p.190-192、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と俳論
- ^ 稲葉有祐『宝井其角と都会派俳諧』笠間書院、2018年2月、299頁。
- ^ “落柿舎について”. 2024年1月29日閲覧。
- ^ “ようこそ、獅子門へ”. 2024年1月29日閲覧。
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.17-18、俳諧の歴史と芭蕉 芭蕉発句の成果
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.216-223、芭蕉と蕉門の俳論 芭蕉と「かるみ」‐『別座舗』の場合
- ^ 饗庭(2001)、p.217-252、18.芭蕉の芸術論
- ^ a b 佐藤編(2011)、p.223-226、芭蕉と芭門の俳論 元禄俳諧における名句
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.192-195、芭蕉と芭門の俳論 俳諧文芸の本質・俳諧精神論‐「俗語を正す」「風雅の誠」
- ^ a b c 佐藤編(2011)、p.195-198、芭蕉と芭門の俳論 対象把握の方法‐物我一如と本情論
- ^ “レファレンス共同データベース”. 国立国会図書館. 2019年12月9日閲覧。
- ^ 麻生編(1969)、p.356
- ^ a b c 芭蕉の脚力普通だった - 『読売新聞』2018年12月19日、2021年3月4日閲覧。
- ^ a b c d e 第4回「芭蕉忍者説の傾向と対策」(後期) - 三重大学人文学部・人文社会科学研究科、2021年3月4日閲覧。
- ^ a b c d e 「芭蕉忍者説」を検証 三重大・吉丸准教授が起源など解説 - 『産経新聞』2017年1月29日、2021年3月4日閲覧。
- ^ 芭蕉忍者説尾崎広める - 『読売新聞』2018年4月11日、2021年3月5日閲覧。
- ^ (エッセイ)百地家系図の「芭蕉」に関する記述について (吉丸雄哉) - 国際忍者研究センター、2021年3月4日閲覧。
- ^ NHK衛星ハイビジョン2009年1月11日16:00『地球特派員スペシャル』にて岡本行夫がウクライナから持ち帰った中学2年生の教科書を示して。
- ^ 大谷泰照監修、堀内克明監修、朝尾幸次郎ほか編 『社会人のための英語百科』 大修館書店、2002年3月、181頁。
松尾芭蕉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 13:55 UTC 版)
俳人。「松尾芭蕉あるてぃめっとくいず」として仲間ハズレ三択に全問正解すれば仲間になる。小林一茶と同程度の能力。
※この「松尾芭蕉」の解説は、「江戸もの」の解説の一部です。
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松尾芭蕉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/23 05:36 UTC 版)
北岸は松尾芭蕉が居を構えた場所で、隅田川と小名木川の合流地点付近の住居跡は芭蕉歴史庭園として整備されている。また近隣に江東区芭蕉記念館がある。
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松尾芭蕉
出典:『Wiktionary』 (2021/08/15 09:02 UTC 版)
人名
松 尾 芭 蕉 (松尾+芭蕉 まつお ばしょう 旧仮名表記:まつお はせお)
- 江戸時代前期日本の俳諧師(≒俳人)。寛永21年(1644年) - 元禄7年(1694年)。本名は松尾宗房( - むねふさ)。本来の俳号(wp)は単に芭蕉。別号、桃青(松尾桃青)。代表作として、紀行文では『おくのほそ道(奥の細道)』が、俳句では「古池や蛙飛びこむ水の音」や「閑さや岩にしみ入る蝉の声」がある。
由来
- 俳号「芭蕉」の由来は、江戸深川に構えた庵の号を、当初は「草庵」といったが、そこに植えた芭蕉の木が立派に生長して名物となったことから弟子達がこの庵を「芭蕉庵」と呼ぶようになると、これを受けて、天和2年(1682年)、師匠は戯れに自らを「芭蕉」と号するようにもなった。
- このように、「芭蕉」は戯号(戯れに使う号)であるがゆえ、改まった場面で使われることはなく、そのような場面で使う主たる俳号は「桃青」であった。つまり、元来は桃青が主たる俳号で、芭蕉は別号の一つであった。
- 桃青は、憧れの詩人であった唐の「李白(wp)」を元にした俳号であり、「梨」と「白」で「李白」と号すなら、(未熟な)自分は「桃」と「青」で「桃青」と号す、というもじりである。
呼称一覧
- 幼名 - 金作(きんさく) :松尾金作。
- 諱(個人の本名) - 宗房(むねふさ) :松尾宗房。
- 通称1 - 忠右衛門(ちゅうえもん)、あるいは、忠左右衛門(ちゅうざえもん) :本名と合わせた形は、松尾忠右衛門宗房あるいは松尾忠左右衛門宗房(※以下同様)。
- 通称2 - 藤七郎(とうしちろう)
- 通称3 - 甚七郎(じんしちろう)、あるいは、甚四郎(じんしろう)
- 俳号1 - 宗房(そうぼう) :諱を音読みした号。伊賀国居住期の俳号の一つ。寛文4年(1664年。21歳時)初出。
- 俳号2 - 桃青(とうせい) :江戸日本橋居住期の俳号の一つ。戯号でない俳号として代表的。延宝3年(1675年。32歳時)初出。
- 俳号3 - 芭蕉、はせを :江戸深川居住期(芭蕉庵時代)の俳号の一つ。天和2年(1682年。39歳時)初出。庵号「芭蕉庵」に由来する戯号であり、改まった場では用いなかった。
- その他の俳号 - 坐興庵、栩々斎(くくさい)、花桃夭(かとうよう)、華桃園、泊船堂、芭蕉洞、芭蕉庵、風羅坊、釣月軒、夭々軒、素宣、土糞、杖銭、鳳尾、羊角、羽扇
- かしこまった俳号 - 桃青、芭蕉桃青、武陵芭蕉散人桃青
- 雅名 - 俳聖
- 後世の呼称 - 松尾芭蕉(まつお ばしょう)
関連語
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