天和の大火とは? わかりやすく解説

天和の大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/21 14:38 UTC 版)

天和の大火(てんなのたいか)とは、天和2年旧暦12月28日(西暦換算1683年1月25日)に発生した江戸の大火である。28日正午ごろ駒込大円寺から出火し、翌朝5時ごろまで延焼し続けた。死者は最大3500余と推定されている。 

お七火事(おしちかじ)ともいうが、八百屋お七はこの火事では被災者であり、のちに八百屋お七が放火した火事とは異なる[1][2]

八百屋お七

この大火により焼け出された江戸本郷の八百屋の一家は、檀那寺(この寺については諸説ある)に避難した。避難先の生活の中で八百屋の娘・八百屋お七は、寺の小姓と恋仲になる。やがて店が再建され、お七一家はその寺を引き払ったが、お七の寺小姓への想いは募るばかり。そこでもう一度火事が起きたらまた同じように寺にいけるかもしれない、と寺小姓に会いたい一心で自宅に放火した。火はすぐに消し止められぼやにとどまったが、お七は捕縛されて鈴ヶ森刑場火炙りの刑に処せられた。このことから、天和の火災はお七火事とも呼ばれるようになった。

天和の大火を題材とした作品

出典

  1. ^ 黒木喬 著『お七火事の謎を解く』教育出版、2001年
  2. ^ 高橋圭一「八百屋お七とお奉行様」『江戸文学』29号、ペリカン社、2003年

天和の大火

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 10:05 UTC 版)

萩城下町」の記事における「天和の大火」の解説

1682年天和2年)、平安古町山県左衛門宅から出た火は、堀内延焼蔵元役所80余に及ぶ寺社侍屋敷町屋焼き重大な被害もたらした就任間もない藩主毛利吉就は、住吉神社祭礼簡素化道路修繕など復興着手した1685年貞享2年)には、それまでの町にはなかった時鐘家来負担設置することが決まったその後1710年宝永7年)には、侍屋敷であった地域が町人に売却され形成された、御許町橋本町唐樋町から「独立」するなど、の町は繁栄した町名は町となることが許されということ因む)。

※この「天和の大火」の解説は、「萩城下町」の解説の一部です。
「天和の大火」を含む「萩城下町」の記事については、「萩城下町」の概要を参照ください。

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