大火と飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:30 UTC 版)
延宝8年(1680年)5月に将軍徳川家綱が死去、霊廟を東叡山寛永寺のなかに造営することとなったため、寛永寺は山内の塔頭4ヵ院の地をこれに充当し、代地を別に賜わっている。そのおり了翁は、代地のうち余った所に経蔵と学問所の建立を御法事総奉行大久保忠朝に願い出ている。また、稲葉正則の助力により、明版続蔵大蔵経1万巻余と外典5千巻余を入手し、瑞聖寺に寄進している。なお、翌年には、了翁と同年生まれでともに隠元に学んだ鉄眼道光が黄檗版大蔵経6,923巻を刻刊している。 天和2年(1682年)には、天和の大火いわゆる「八百屋お七の火事」により、買い集めていた書籍14,000巻を失ったが、それでもなお被災者に青銅1,100余枚の私財を分け与え、棄て児数十名を養い、1,000両で薬店を再建し、1,200両で勧学寮を完工させ、台風で倒壊した日蓮宗の法恩寺を再建するなど自ら救済活動に奔走した。 天和3年(1683年)、前年の火災の被災民のため約1,300両もの義捐金を供出したほか、餅を配ったり、迷子の親を探したり、焼死者を埋葬したりと献身的な活動をつづけた。この年はまた関西では飢饉が起こっているが、ここでも銭1,100余貫、黄金1,000両を施して救済に手をさしのべた。当時の江戸の人々はこうした了翁を「如来様」と呼んで敬慕したという。
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