大火からの復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 14:21 UTC 版)
大火により、守横町130戸、中町126戸など計606戸1,700棟が焼失、被害総額は2,000万円以上に達した。実に石岡町民の5分の1以上が被災したことになる。これを受け、皇室より御内帑金(ごないどきん)が下賜された。その後、今泉哲太郎と今泉義文の兄弟によって石岡大火を綴った『あゝ石岡大火災』がまとめられた。 町の景観は、石岡大火によって一変した。中町商店街では道路の拡幅と歩道の整備が行われ、ポプラの街路樹が植えられ、ガス灯も設置された。中町の土蔵は焼け残ったものの、焼失した多くの建物は2階建の洋風建築や木造モルタル建築へと建て替えられた。なお石岡大火では丁子屋が唯一、焼失を免れた商家建築として現存し、国の登録有形文化財となっている。 また駅前通り(八間道路、現在の茨城県道277号石岡停車場線)が新たに整備され、1929年(昭和4年)10月21日に大火からの復興を兼ねて盛大な開通式が行われた。同年の11月15日には茨城県内で大日本帝国陸軍の特別大演習が行われ、八間道路の聖駕通御(せいがつうぎょ)を記念して、「御幸通り」の別名が与えられた。この時、御内帑金への感謝として、『石岡写真帖』が献呈された。 中町の北にある香丸町は大火に巻き込まれなかったため、しばらくの間土蔵が残っていたが、1983年(昭和58年)から1988年(昭和63年)にかけて歩道を確保するためのセットバック工事を機に店舗や住宅の新築が行われ、中町とは異なる景観を呈するようになった。
※この「大火からの復興」の解説は、「石岡大火」の解説の一部です。
「大火からの復興」を含む「石岡大火」の記事については、「石岡大火」の概要を参照ください。
- 大火からの復興のページへのリンク