句碑の建立とは? わかりやすく解説

句碑の建立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「句碑の建立」の解説

一茶死後まもなく、故人顕彰する二つ動き始まった。句碑の建立と一茶句集編纂である。句碑の建立は一茶門人たちが大きな役割果たしたのはもちろんであるが、経済面については弟、仙六が一茶門人旧友たちに広く費用寄付募るなど、大い尽力した生前一茶とは父の遺産問題激しく対立し上手くいかなかった間柄であったが、亡兄一茶句碑建立向けて地元柏原先頭立ったのは仙六だった。 膨大な一茶俳句の中から、どの句を撰んで碑に刻むかについては、門人たちの中で様々な議論交わされた、結局撰ばれた句は 松影寝てくふ六十よ州かな であった。この句の松影とは松平氏、すなはち徳川家暗喩している。つまりの影、徳川氏お陰をもって日本全国六十余州寝て暮らしている、天下泰平謳歌していると、徳川の平和を称えた句である。この句は一茶にとっての自信作であり、そのこと知っていた門人たちが撰んだと見られている。また句碑に刻む句の決定には、文政10年1827年)の大火の後、復興向けて歩みだしていた柏原事情も関わっていたと考えられる句碑北国街道沿いの柏原宿入口に当たる場所に立てられることになった大火からの復興象徴として徳川家支配寿ぐ一茶の句を句碑に刻むことになったのである。 碑の裏面には句の作者である一茶紹介漢文刻まれた。碑文中野代官大原四郎左衛門代官付き役人であった大塚庚作の作であり、表の句と碑文の揮毫大塚が行った。大塚が深い教養持ち人望もあったため、碑文起草依頼されたものと考えられている。作成から200年近く経過し碑文一部摩耗して読めなくなっているが、天保3年1833年)の紀行文の中で全文紹介されている。 一茶句碑三回忌に当たる文政12年1829年)、柏原宿入口建立されたと考えられている。そして明治9年1876年)、道路拡張工事に伴い句碑諏訪社境内移された。なお、かつては明治11年1878年)に行われた明治天皇北陸巡幸際し徳川家支配寿ぐ碑が街道沿いにあることが問題視され諏訪社移されたとの説が唱えられていたが、それは誤りである。

※この「句碑の建立」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「句碑の建立」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

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