紀行文とは? わかりやすく解説

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きこう‐ぶん〔キカウ‐〕【紀行文】

読み方:きこうぶん

紀行」に同じ。


紀行文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/22 16:54 UTC 版)

紀 行文(きい ゆきぶみ、またはゆくぶみ[1]弘和3年(永徳3年、1383年) - 薨年不明)は、室町時代紀伊国国造日前宮神主にして公卿歌人である。俊長の男。


  1. ^ 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
  2. ^ a b c d 紀伊続風土記』巻14「国造家譜」行文条。
  3. ^ 林靖『本朝遯史』(万治3年(1660年)序)と石井元政『扶桑隠逸伝』(寛文3年(1663年)序)の紀俊長及び行文条。両書とも譲職を応永12年のことと記すが『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条によって訂正する。
  4. ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文及び行長条。
  5. ^ 公卿補任』永享元年から同10年条。
  6. ^ a b c 前掲『本朝遯史』及び『扶桑隠逸伝』。
  7. ^ 続群書類従』巻183所収『紀伊国造系図』。
  8. ^ 『紀伊続風土記』巻15「毛見浦」国造俊長父子隠栖ノ旧趾条。
  9. ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条、『大膳権大夫行文五十首』(『続群書類従』巻400所収)識語。但し御判詞は伝わっていない。
  10. ^ 雑上「夢さむる夜半の時雨は冬きぬとおどろかしてやよそに過ぐらん」(新編国歌大観番号1763)と雑中「和歌のうらのちりにつげとやかきをかんかひも波まのもくづなれども」(同1902)。因みに家集では後者に後小松天皇の合点が付く。


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紀行文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 05:41 UTC 版)

二村山」の記事における「紀行文」の解説

名称作者成立年代内容及び解説更級日記菅原孝標女 康平年間1058年-1064年二村山に関するくだりは、著者13歳頃の1020年寛仁4年)、父である菅原孝標に従って上総国から京へ戻る道中様子回想したもので、浜名湖渡り猪鼻坂を越えて三河国高師山に至ったこと、八橋は名前だけで痕跡がなく何の見どころもないこと、二村山では大きな柿の木の下にしつらえた仮の宿の上一晩中降ってくる柿の実人々拾っていること、宮路山では10月下旬あるにかかわらず紅葉落葉せずに盛んであること、尾張国境の「しかすがの渡り」は渡るべきか否か思い悩まされるところが面白いこと鳴海海岸至ったところに夕潮満ちてきて逗留するにも中途半端なので一行が皆走ってやり過ごしたこと、などといった行程とその時々の情景描かれている。八橋二村山宮路山位置関係混乱みられる一方で鎌倉街道整備される以前からこの二村山中継する道筋利用されてきたことも読みとれる。 『海道記』 不詳 1223年貞応2年江戸時代には「鴨長明海道記」という名で刊行されたことがあり、作者長年鴨長明だとされてきた。しかし後年源光行藤原秀能などの候補者浮上し、現在では事実上作者不詳とされる紀行文である。京から鎌倉への道中様子漢文調で描いており、旅の途中でさしかかった二村山景観についても駢儷体駆使した秀麗な描写行っている。作者1223年貞応2年4月4日萱津(かやづ)を発ち近道ではあるが急坂となる「塩見坂」を避け回り道だがなだらかな二村山へと向かう。数多くの山はあるけれども、優雅な山はこの山だけ。松の木もあまたあるけれども、松の木立の美しさはこの山に勝るものはない。松風の音を聞いてかといぶかしんだが、のどかに空を舞いながら鳴いているのを聞いて晴天であることを知る。千古不変の姿はこれから変わらないであろうが、自分の命は一時はかないのであるから二度と目にすることはできないであろう。 『東関紀行不詳 1242年仁治3年作者鴨長明源光行源親行などといわれていたが、現在では事実上不詳とされる紀行文である。齢50近い作者歩んだ京から鎌倉までの道中記録しており、1242年仁治3年8月17日熱田発った作者海岸沿いの道を東に進んで夜半には二村山到達している。徐々に白みはじめた空のもと、この山道山頂から遥かに眺める空と波の間に続いていくようだという、荘厳な情景を歌に詠んでいる。作者その後8月25日頃には鎌倉到着している。 『春能深山路はるのみやまぢ)』 飛鳥井雅有 1280年弘安2年飛鳥井雅有鎌倉時代公家で、歌人として知られるほかさまざま紀行文・日記残している。当日記では、1280年弘安2年11月14日から11月26日にかけて京から鎌倉移動した道中において、冷たい嵐の吹く二村山越え荒涼とした野原渡って八橋到着したとする記述残っている。 『十六夜日記阿仏尼 1283年弘安6年藤原為家側室歌人としても知られ阿仏尼による紀行文で、継子藤原為家正室の子二条為氏実子冷泉為相の間に生じた所領紛争荷担した作者幕府裁定委ねるべく鎌倉向かった旅の道中及び鎌倉滞在中の様子描いている。1279年弘安2年10月16日に京を発った作者一行は、4日後の10月20日の昼には二村山付近に達していたと考えられるが、山野思いのほかいために、ようやく境川越えて八橋宿に到達した頃には夕暮れになってしまっていたという。なお、十六夜日記毎日記述日付をふっており、熱田-鳴海潟-二村山-八橋-宮路山という移動経路正確に読みとることができる。また、10月29日鎌倉到着したとあることから、鎌倉時代にあって京-鎌倉間の移動要した日数おおよそ2週間程度であったことも正確にうかがえる。 『覧富士記尭孝 1432年永享4年尭孝室町時代中期僧侶で、また歌人でもある。1432年永享4年)に室町幕府6代将軍足利義教富士山見学随行した時の様子を、紀行文として残している。9月15日二村山越え9月19日には夜の闇に浮かぶ富士山をうち眺め帰路にあった9月25日には境川越えている。この紀行文の中で尭孝二村山を、三河国-遠江国国境の山と認識していたようである。

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紀行文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 23:04 UTC 版)

ロバート・ルイス・スティーヴンソン」の記事における「紀行文」の解説

内地船旅』An Inland Voyage, 1878年友人Rob Roy canoeとの、ベルギーアントウェルペンからフランスポントワーズまでの旅)吉田健一訳、岩波文庫『旅は驢馬をつれて』に収録Edinburgh: Picturesque Notes, 1878年故郷エディンバラ土地建築歴史紹介) 『旅は驢馬をつれて』Travels with a Donkey in the Cévennes, 1879年フランス中部セヴェンヌ山脈2週間ひとり旅) The Silverado Squatters, 1883年(妻ファニーその子ロイドとの、アメリカNapa Valleyへの新婚旅行カリフォルニアワイン発展予見している) Across the Plains, 1892年(1879–80年執筆ニューヨークからカリフォルニアまでの列車の旅) The Amateur Emigrant, 1895年(1879–80年執筆ヨーロッパからニューヨークまでの船旅) The Old and New Pacific Capitals, 1882年1879年8-12月のカリフォルニアモントレーでの滞在) Essays of Travel, 1905年

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紀行文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:13 UTC 版)

鎌倉文化」の記事における「紀行文」の解説

散文では、国内政治二極構造となり、京都鎌倉往還さかんになったことを反映してすぐれた紀行文があらわれた。 そのなかのひとつに、阿仏尼が、藤原為家との実子冷泉為相)と為家の嫡子二条為氏とのあいだで起こった播磨国細川荘をめぐる所領相論幕府訴訟するため鎌倉赴いた際の紀行文日記十六夜日記』がある。 『海道記』と『東関紀行』はともに著者不詳の紀行文であり、いずれも和漢混淆文記された、中世紀行文学嚆矢となった作品である。前者1223年貞治2年)に京都白河中山に住む「侘人」が、後者1242年仁治3年)に京の東山在住していた「閑人」がともに鎌倉旅したようすを紀行文としており、『東関紀行』の作者『海道記』読み、それを強く意識し、かつ前提にして書かれているという要素濃厚である。『海道記』作者については、かつては鴨長明説もあったが長明没後の作品であることが明らかであるので、こんにちでは源親行説が有力である。 さらに、純粋の紀行文学とはいえないが『とはずがたり』のなかにも紀行文がみえる。藤原定家日記明月記』には1201年建仁元年)に定家後鳥羽院熊野参詣同行した際の紀行文『熊野行幸記』が記されている。

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紀行文

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 17:01 UTC 版)

タイガーバームガーデン (香港)」の記事における「紀行文」の解説

三島由紀夫は、1961年訪れたタイガーバームガーデングロテスクな奇景一つ一つ克明に観賞し、以下のような感想綴っている。 この庭には実に嘔吐催させるやうなものがあるが、それが奇妙に子供らしいファンタジイと残酷なリアリズム結合依ることは、訪れる客が誰しも気がつくことであらう。中国伝来色彩感覚は実になまぐさく健康で、一かけらの衰弱もうかがはれず、見るかぎり原色がせみぎ合つてゐる。こんなにあからさまに誇示された色彩形態卑俗さは、実務家の生活のよろこび極致にあらはれたものだつた。胡氏不羈奔放を装ひながらも、この国伝来悪趣味集大成成就したのである中国人永い土俗的な空想と、世にもプラクティカル精神との結合が、これほど大胆に、美といふ美に泥を引つかけるやうな庭を実現したのは、想像及ばない出来事である。いたるところで、コンクリート造り物は、細部にいたるまで精妙美に逆らつてゐる。幻想素朴なリアリズム足枷はめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に背馳したもの生れるといふ好例である。 — 三島由紀夫美に逆らふもの」

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