きこう‐ぶん〔キカウ‐〕【紀行文】
読み方:きこうぶん
「紀行」に同じ。
紀行文
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/02 23:53 UTC 版)
紀 行文(きい ゆきぶみ、またはゆくぶみ[1]、弘和3年(永徳3年、1383年) - 薨年不明)は、室町時代の紀伊国の国造兼日前宮の神主にして公卿、歌人である。俊長の男。
後小松天皇の明徳4年(1393年)11歳で元服し、翌年5月叙爵[2]、翌翌応永2年(1395年)3月に立身栄達を望まなかった父俊長が南紀の地に隠居すると世職を襲い[3]、同年8月第60代国造及び日前宮神主となる[2]。
応永8年3月に刑部大輔に補され[2]、同29年(1422年)に国造と日前宮神主職を子息行長に譲るが[4]、その後も宮仕は続けたようで、後花園天皇の正長2年(永享元年、1429年)には非参議従三位に叙せられ、永享10年まではその在官が確認できる[5]。恐らくはその間であろうか、御前で和歌3首を詠ずることがあり、その詠を褒賞した天皇から剣2口を下賜され[6]、その中の1口は国吉銘であったという[2]。時期は不詳であるが永享11年以後に致仕し、父俊長に倣って南紀の地に隠居した[6]。なお、非参議と兼ねていたのかは不明であるが極官はどうやら大膳大夫であったらしく[7]、また隠棲地は名草郡の毛見浦で、そこは父俊長と同じ地であったと伝える[8]。
後花園天皇の御前詠のように歌人として当時著名で[6]、私家集として『大膳権大夫行文五十首』2篇が遺り、その中の1篇には後小松天皇宸筆の御批点及び御判詞が付けられていたこともあって「家の名誉、子孫の重宝」とされ[9]、両篇から1首ずつが『新続古今和歌集』に入集されている[10]。
脚注
- ^ 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年。
- ^ a b c d 『紀伊続風土記』巻14「国造家譜」行文条。
- ^ 林靖『本朝遯史』(万治3年(1660年)序)と石井元政『扶桑隠逸伝』(寛文3年(1663年)序)の紀俊長及び行文条。両書とも譲職を応永12年のことと記すが『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条によって訂正する。
- ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文及び行長条。
- ^ 『公卿補任』永享元年から同10年条。
- ^ a b c 前掲『本朝遯史』及び『扶桑隠逸伝』。
- ^ 『続群書類従』巻183所収『紀伊国造系図』。
- ^ 『紀伊続風土記』巻15「毛見浦」国造俊長父子隠栖ノ旧趾条。
- ^ 『紀伊続風土記』「国造家譜」行文条、『大膳権大夫行文五十首』(『続群書類従』巻400所収)識語。但し御判詞は伝わっていない。
- ^ 雑上「夢さむる夜半の時雨は冬きぬとおどろかしてやよそに過ぐらん」(新編国歌大観番号1763)と雑中「和歌のうらのちりにつげとやかきをかんかひも波まのもくづなれども」(同1902)。因みに家集では後者に後小松天皇の合点が付く。
参考文献
紀行文
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名称作者成立年代内容及び解説『更級日記』 菅原孝標女 康平年間(1058年-1064年) 二村山に関するくだりは、著者が13歳頃の1020年(寛仁4年)、父である菅原孝標に従って上総国から京へ戻る道中の様子を回想したもので、浜名湖を渡り猪鼻坂を越えて三河国の高師山に至ったこと、八橋は名前だけで橋の痕跡がなく何の見どころもないこと、二村山では大きな柿の木の下にしつらえた仮の宿の上に一晩中降ってくる柿の実を人々が拾っていること、宮路山では10月も下旬であるにかかわらず紅葉が落葉せずに盛んであること、尾張国境の「しかすがの渡り」は渡るべきか否か思い悩まされるところが面白いこと、鳴海の海岸に至ったところに夕潮が満ちてきて逗留するにも中途半端なので一行が皆走ってやり過ごしたこと、などといった行程とその時々の情景が描かれている。八橋・二村山・宮路山の位置関係に混乱がみられる一方で、鎌倉街道が整備される以前からこの二村山を中継する道筋が利用されてきたことも読みとれる。 『海道記』 不詳 1223年(貞応2年) 江戸時代には「鴨長明海道記」という名で刊行されたことがあり、作者は長年鴨長明だとされてきた。しかし後年、源光行・藤原秀能などの候補者が浮上し、現在では事実上作者不詳とされる紀行文である。京から鎌倉への道中の様子を漢文調で描いており、旅の途中でさしかかった二村山の景観についても駢儷体を駆使した秀麗な描写を行っている。作者は1223年(貞応2年)4月4日に萱津(かやづ)を発ち、近道ではあるが急坂となる「塩見坂」を避け、回り道だがなだらかな二村山へと向かう。数多くの山はあるけれども、優雅な山はこの山だけ。松の木もあまたあるけれども、松の木立の美しさはこの山に勝るものはない。松風の音を聞いて雨かといぶかしんだが、鶴がのどかに空を舞いながら鳴いているのを聞いて晴天であることを知る。千古不変の松の姿はこれからも変わらないであろうが、自分の命は一時のはかないものであるから二度と目にすることはできないであろう。 『東関紀行』 不詳 1242年(仁治3年) 作者は鴨長明、源光行、源親行などといわれていたが、現在では事実上不詳とされる紀行文である。齢50近い作者が歩んだ京から鎌倉までの道中を記録しており、1242年(仁治3年)8月17日に熱田を発った作者は海岸沿いの道を東に進んで夜半には二村山に到達している。徐々に白みはじめた空のもと、この山道が山頂から遥かに眺める空と波の間に続いていくようだという、荘厳な情景を歌に詠んでいる。作者はその後、8月25日頃には鎌倉に到着している。 『春能深山路(はるのみやまぢ)』 飛鳥井雅有 1280年(弘安2年) 飛鳥井雅有は鎌倉時代の公家で、歌人として知られるほかさまざま紀行文・日記も残している。当日記では、1280年(弘安2年)11月14日から11月26日にかけて京から鎌倉へ移動した道中において、冷たい嵐の吹く二村山を越え、荒涼とした野原を渡って八橋に到着したとする記述が残っている。 『十六夜日記』 阿仏尼 1283年(弘安6年) 藤原為家の側室で歌人としても知られた阿仏尼による紀行文で、継子(藤原為家正室の子)二条為氏と実子の冷泉為相の間に生じた所領紛争に荷担した作者が幕府に裁定を委ねるべく鎌倉へ向かった旅の道中及び鎌倉滞在中の様子を描いている。1279年(弘安2年)10月16日に京を発った作者一行は、4日後の10月20日の昼には二村山付近に達していたと考えられるが、山野が思いのほか深いために、ようやく境川を越えて八橋宿に到達した頃には夕暮れになってしまっていたという。なお、十六夜日記は毎日の記述に日付をふっており、熱田-鳴海潟-二村山-八橋-宮路山という移動経路を正確に読みとることができる。また、10月29日に鎌倉に到着したとあることから、鎌倉時代にあって京-鎌倉間の移動に要した日数がおおよそ2週間程度であったことも正確にうかがえる。 『覧富士記』 尭孝 1432年(永享4年) 尭孝は室町時代中期の僧侶で、また歌人でもある。1432年(永享4年)に室町幕府第6代将軍足利義教の富士山見学に随行した時の様子を、紀行文として残している。9月15日に二村山を越え、9月19日には夜の闇に浮かぶ富士山をうち眺め、帰路にあった9月25日には境川を越えている。この紀行文の中で尭孝は二村山を、三河国-遠江国国境の山と認識していたようである。
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