飛鳥井雅有とは? わかりやすく解説

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あすかい‐まさあり〔あすかゐ‐〕【飛鳥井雅有】

読み方:あすかいまさあり

[1241〜1301]鎌倉末期歌人。雅経(まさつね)の孫。家集に「隣女和歌集」など。


飛鳥井雅有

読み方あすかい まさあり

鎌倉後期公卿歌人。雅経の孫、教定の子後宇多伏見後伏見三朝歴任して正二位民部卿に至る。関東祇候の延臣として度々鎌倉赴く和歌家業蹴鞠能くする。『続古今集』以下の勅撰集に歌を収め家集に『隣女和歌集』、紀行文に『春の深山路』等がある。正安3年(1301)歿、60才。

飛鳥井雅有

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/05 07:58 UTC 版)

 
飛鳥井雅有
時代 鎌倉時代中期 - 後期
生誕 仁治2年(1241年
死没 正安3年1月11日1301年2月20日
改名 雅名(初名)→雅有
官位 正二位民部卿
主君 後深草天皇亀山天皇後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇
氏族 飛鳥井家
父母 父:飛鳥井教定
母:北条実時の娘または源定忠の娘[1]
兄弟 雅有、忠輔、基長、宗有、二条為氏
雅顕、二条為道[2]
養子:雅孝
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飛鳥井 雅有(あすかい まさあり)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿歌人左兵衛督飛鳥井教定の子。官位正二位民部卿飛鳥井家3代当主。父と共に関東祗候雲客諸大夫の一員として、鎌倉幕府に信用され、京都鎌倉で活動した。

経歴

仁治2年(1241年)、鎌倉で誕生。翌年叙爵。建長3年(1251年)改名し従五位上侍従となる。

以後、弘安元年(1278年)に従三位正応2年(1289年)、従二位となる。正応4年(1291年)、参議に就任。のち兵部卿を経て永仁3年(1295年)に民部卿、永仁6年(1298年)に正二位に至る。正安3年(1301年)1月11日薨去。享年61。跡は弟・基長の子で養子の雅孝が継いだ。

歌人としては、永仁元年(1293年)8月、二条為世京極為兼・九条隆博の三人と共に勅撰集の撰者に指名された。しかしこの企画は頓挫している。収録された歌の初出は『続古今和歌集』。勅撰集に入集したのは計72首である。

私家集『隣女和歌集』がある。日記紀行類としては『仏道の記』、『嵯峨のかよひぢ』、『最上の河路』、『都路の別れ』(以上の4種を「飛鳥井雅有日記」とも)、『春のみやまぢ』など。また蹴鞠の書の『内外三時抄』がある。

系譜

脚注

  1. ^ 尊卑分脈
  2. ^ 二条為定の母

出典




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