二条為定とは? わかりやすく解説

二条為定

読み方にじょう ためさだ

南北朝時代歌人公卿。為通の子、為世の孫。8才で父を失い叔父養子となる。のち出家し法名を釈空という。はじめ後醍醐天皇仕え、のちに足利尊氏親近する。勅により『続後拾遺集』『新千載集』を撰出、奏覧した。延文5年(1360)歿、68才。

二条為定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/15 09:38 UTC 版)

 
二条 為定
時代 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕 永仁元年(1293年)?
死没 延文5年/正平15年3月14日1360年3月31日
改名 為孝(初名)→為定→釈空(法名)
官位 正二位民部卿、権大納言
主君 後醍醐天皇光厳天皇→後醍醐天皇→光明天皇崇光天皇後光厳天皇
氏族 御子左家
父母 父:二条為道、母:飛鳥井雅有の娘
兄弟 為親、為定二条藤子中宮西園寺禧子宣旨後醍醐天皇側室)
土御門禅尼
為貫、為遠、定世、為有、覚家(興福寺別当)、昭海、良寿
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二条 為定(にじょう ためさだ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿歌人二条為道(為通)の子。

略歴

父は早くに死去し、元亨3年(1323年)に参議となる。叔父の為藤の感化を受け、正中2年(1325年)に後継者として『続後拾遺和歌集』を撰集した。はじめ姉妹の権大納言三位局(懐良親王らの母)が宮人として仕えていた後醍醐天皇に近侍したが、元弘の変以後は天皇に従わず、北朝側に通じて延文4年/正平14年(1359年)に『新千載和歌集』(二条良基足利尊氏の推挙による)を撰出し、南北朝動乱の時期の歌道師範の家を守った。なお、文和4年/正平10年(1355年)8月17日に出家釈空と称するようになった。

為定の和歌は、『玉葉和歌集』以下の勅撰和歌集や『続現葉和歌集』以下の私撰和歌集に多数入集し、『文保御百首』などの定数歌もある。彼の詠歌を集めた『為定集』は2系統あり、一方は私撰集で、他方は為定の家集だが、いずれも為定自身ではなく、後人の撰によるものである。

系譜

  • 父:二条為道(1271-1299)
  • 母:飛鳥井雅有の娘
  • 正室:土御門禅尼
  • 生母不明の子女
    • 男子:二条為貫
    • 男子:二条定世
    • 男子:二条為有
    • 男子:覚家 - 興福寺別当
    • 男子:昭海
    • 男子:良寿



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