家業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/12 01:21 UTC 版)
家業(かぎょう)
- 一般的には、家族によって継承される一定の生業のことをいう[1]。
- 日本史(社会構成史)では、特定の氏族や家系によって、特定の学問・知識・技芸・業種などが世襲的に継承される仕組みのことをいう[1]。
- 家庭用と業務用の略。食品・卸売業界で用いる業界用語。
一般的な概念としての家業
一般的には、家族によって継承される一定の生業のことをいう[1]。この意味の家業は世界のあらゆる時代、あらゆる地域にみられる概念である[1]。
家業型経営の特徴は家業となっている会社の存続とそのビジネスの安定が特に重視されることであり、企業規模が拡大しても、創業家の目が行き届きにくくなることで一定の規模で成長を止める傾向がある[2]。
家業型経営では一般にはオーナー経営者が経営を行う[2]。比較的狭い既存事業の分野で専門的な特化により高い競争力、収益力を誇る企業をグローバル・ニッチトップ企業(GNT企業)と呼ぶが、日本の家業型経営の企業には中小のモノづくりを行うGNT企業が多い[2]。ドイツのようにファミリー企業でもオーナーの一族は株式を所有するだけで経営はプロの経営者が行う形態の企業が多い場合もある[2]。
日本史の概念としての家業
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日本史(社会構成史)の研究においては、特に中世以降の日本社会にみられる、特定の氏族や家系によって特定の学問・知識・技芸・業種などが世襲的に継承される仕組みをいう概念である[1]。
公的な官職
家業という考え方は、特殊な分野における学問や技術が特定の氏族や家系に帰属してそこの専業と認識される状況下によって発生した。律令制の全盛期であった8世紀から9世紀にかけて既にその萌芽が見られ、礼家(れいけ、礼制・家族法)、薬家(やくけ、医薬)、法家(ほっけ、刑事法)などと呼ばれる家柄が出現している。
11世紀から12世紀の日本では律令制下の官制が事実上形骸化に向かいつつあり、残された官司間の統属(上下)関係も事実上崩壊していく。そのような中で機会の平等とも呼べるものは失われ本来公的なものであったはずの官職が私物化され、特定の氏族に委ねられるようになっていき(家職)、また特定の氏族に委ねられた官司による独立した業務運営が可能な態勢が構築されていった。このような、王朝国家における特定の氏族による官職の家職化及び権能の排他的継承を「官司請負制」と呼ばれている。その特定の氏族にとっては、先祖代々授けられる官職・任務は「家業」として認識されるようになったわけである。
例としては、弁官局の小槻氏、外記局における清原氏、検非違使庁における坂上氏や中原氏が挙げられる。
商工関係を司る官職を継承する家系では、自ら商業や工房を経営することをやめ、担当する業種の営業許可権を利用し、座をはじめとするその業種の関係者の活動を支配することで、関係者から金品を得ることを以って業とするようになった。
現代では官民の有力な家系同士が複雑に結びついて閨閥を形成し、営業許可権に限らない利権を持つ[3]。
学問・文化
ある学問・技術などが、特定の氏族のみに帰属し、他の氏族が持たない場合があったが、そのような場合、その学問・技術などは、一代で終わらせてしまうのではなく、子孫が継承することで存続させるべきであるという観念が自然に発生した。学問・技術が、二代、三代、四代、、、と無事に継承された場合、特定の一族で継承される「家業」として定着するようになった。
文化の分野では、華道や茶道などの「道」と呼ばれるある種の技能体系が、やはり世代を越えて継承されるようになり、「家道」と呼ばれるようになった。これらの「道」の分野の世代間継承では、知識・技能(知的財産)それ自体だけでなく、権威性(ネームバリュー、ブランド、商標権)や、一門(弟子らの組織)と彼らを監督する権限(ある種の経営権)などが、ワンセットで子孫に継承されることになり、後の「宗家」や「家元」制度(ある種の永続的事業システムや法人システム)につながっていくことになった。
江戸時代の公家社会ではそれぞれの家が、自己の財政維持のための収入確保の意味も含めて先祖伝来の学問・芸術を家業化していき、同時にその家業をもって朝廷に奉仕することで家職化していった。また、江戸幕府からも各公家に対して朝廷への奉仕の一環として家業への専念を求められた。ただし、新家創設や旧家再興(当主急死による養子縁組も含む)の家業の扱いについては不明な点もあり、今後の研究課題とされている[4]。
出典
- ^ a b c d e 『歴史学事典第8巻』山口和夫、弘文堂、2001年、83頁。
- ^ a b c d 吉村哲哉、「1G01 グローバル・ニッチトップ企業の企業タイプの類型化(技術経営(事例・ビジネスモデル・事業化)(1),一般講演)」『年次大会講演要旨集』 2015年 30巻 セッションID:1G01, p.166-169, doi:10.20801/randi.30.0_166, 研究・イノベーション学会
- ^ 広瀬隆『私物国家-日本の黒幕の系図』 光文社 1997年 系図14 国家を私物化した一族の全系図
- ^ 佐竹朋子「一八世紀公家社会における学問と家業」『ヒストリア』235号(2012年)/所収:佐竹『近世公家社会と学問』吉川弘文館、2024年 ISBN 978-4-642-04357-1 2024年、P155-157.
参考文献
- 佐藤進一「家業」(『日本史大事典 2』(1993年、平凡社) ISBN 978-4-582-13102-4)
関連項目
- 家系、氏族、家職
- 官職
- 学問、文化
- 同族経営(ファミリービジネス)、en:Family buisiness
- 親子、家族、親族
- 家政、家訓、家風
- 信頼、信用、ロイヤリティ
- オン・ザ・ジョブ・トレーニング(OJT)
- 職業選択の自由、人権
外部リンク
家業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:49 UTC 版)
1883年(明治16年)あるいは1884年(明治17年)、父・東之助により遊学を止め帰郷せよ、と言われる。望月家はこの頃三菱の高島炭鉱からの石炭の輸送を一手に引受けさらに石炭販売と業務を拡大しており、人出が足りなくなったため呼び戻されたのであった。長崎に出向き、叔父・源九郎の助手として働き始める。そして三菱支店長の紹介で、松島炭鉱(現三井松島産業)での運搬・販売に加え採掘権を得ることになり、兄・俊吉と共に松島での業務に勤めた。望月の仕事を鉱山業としてる資料があるが、それはここから来ている。 1895年(明治28年)、ハルと一度目の結婚をしているが、母・リツと折り合いが悪かったためすぐに別居し、1897年(明治30年)正式に離婚している。 1895年台湾へ旅立つ。この年から台湾の日本統治が始まり、広島県会議員および商工会議所有志らと一緒にその視察および県産物の販路拡大を目指して渡航したものだった。また兄・俊吉が甲申政変直前の朝鮮に渡り鬱陵島の木材を用いて造船の請負販売する契約を金玉均と交わしたことがあり(甲申政変で金が失脚したため執行されず)、望月もこれを見習って台湾で一旗揚げるつもりで渡航したという。ただ、台湾ではマラリアを患い志半ばにして帰国した。このマラリアで生死の境をさまよった経験がその後の生き様に大きく関係することになる。 1897年(明治30年)、チサトと二度目の結婚。そしてこの時期に兄・俊吉が自由党に属し政治活動を始めるようになる。また望月は時期は不明だが、父・東之助に代わって東野村長を務めていたことがあった。
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「家業」の例文・使い方・用例・文例
- 仕事をやめて家業を継ぐことに決めた
- 彼は家業を継ぐために司教の職を捨てた。
- 彼は家業を続けたいんだと思います。
- 彼は家業の木工業に従事しています。
- 私はこの半年間、家業の手伝いをしておりました。
- 彼は家業を全て長男に譲った。
- 彼は家業を継ぎたいと考えています。
- 彼は父親の死後、家業を引き受けた。
- 彼は慶応大学を卒業するとすぐに家業を継いだ。
- 彼は家業を継いだ。
- 彼の息子達のどちらとも彼の家業を継ぎたがらない。
- 彼に家業を継ぐようにときつけた。
- あそこの息子は家業などそっちのけでいくつになってもお坊っちゃんだ.
- 家業は次男が継いだ.
- 父は息子にどうでも家業を継がせたかった.
- 父親は家業を継ぐか家を出るかの二者択一を息子に迫った.
- 彼は家業を引き継いだ.
- 彼は家業を放擲してフランス革命の研究に没頭した.
- 浮気家業
- 浮気家業をした女が堅気になるとかえって堅いものだ
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