家業経営と文芸活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 13:46 UTC 版)
寛政11年(1799年)9月25日紀伊国有田郡栖原村に豪商垣内家新家垣内淡斎の次男として生まれた。幼名は駒次郎。 文化8年(1811年)父に随い江戸に出て、持店の博施堂河内屋孫左衛門店に勤務した。同店は江戸砂糖問屋仲間の筆頭に位置し、大坂堺筋から主に奄美大島産黒砂糖・本土産白砂糖を仕入れ、江戸の砂糖卸商・小売商・菓子商等に販売した。血気盛んで剣術・槍術を好んだため、これを抑えるため父の命で大窪詩仏に漢詩を学んだ。別に書道を学び、隷書を得意とした。 文政5年(1822年)7月3日父淡斎が死去すると、家業は番頭服部吉兵衛に任せ、文芸に興じた。湯浅浦南に結成された古碧吟社に参加し、盟主垣内己山の死後これを継承した。弘化2年(1845年)7月石田冷雲から観潮園を借り入れ、柳宗元「漁翁」に因み欵乃詩窓と号した。 文政8年(1825年)3月13日兄垣内玄蔵と藩に呼び出され、度々上納していた冥加金の見返りに苗字帯刀を許された。同年12月にも会計方から献金を命じられ、文政9年(1826年)2月20日1,200両を完納し、藩御用達を名乗った。 天保7年(1836年)天保の大飢饉が起こると、大塩平八郎からの蹶起への参加要請を断り、天保8年(1837年)栖原坂・田坂の修築、天保9年(1838年)由良港の荒地開墾を行い、窮民を雇用して高賃金を支給した。この功績により、藩からは5人扶持を給され、天保10年(1839年)9月地士、天保11年(1840年)11月独礼格となり、天保14年(1843年)12月10人扶持、後に20人扶持となった。 天保・嘉永頃、藩納戸方に接触して収税帳簿を検閲し、栖原等3ヶ村の水主米・無地荒を減税させたという。 一方、家業は文政12年(1829年)火事で被災した前後から奥店勘定で赤字が続き、天保4年(1833年)菱垣廻船一方積令による樽廻船使用禁止、天保12年(1841年)棄捐令による売掛金欠損に加え、上記事業に1万両以上を出費したため、財政は悪化の一途を辿った。
※この「家業経営と文芸活動」の解説は、「菊池海荘」の解説の一部です。
「家業経営と文芸活動」を含む「菊池海荘」の記事については、「菊池海荘」の概要を参照ください。
- 家業経営と文芸活動のページへのリンク