家次系本庄氏について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 07:13 UTC 版)
系図上では、家次自身が本庄を称した事になっているが、疑わしい点がないわけではない。後世に創られた系図は、『吾妻鏡』を参考にして記述された事は明らかであり、その為に生じた誤りも見られる。家長の三男である家次が本庄を称したかどうか怪しい部分も含まれていると言うのは、14世紀に成立した『吾妻鏡』には、家次の名がたった一度しか記述されていない事が一つに挙げられる。この事は上述した通りである。そのうえ、この軍記物は、父家長を「家国」と誤記していたり、庄三郎忠家を「庄司三郎忠家」とするなど、人名に対する誤記が多く目立ち、よく知られている。この事を考慮すれば、写本の過程で、後世の人々が庄家次を「本庄家次」と解釈して記述してしまった可能性も否定できなくなる。また、後世に創られた系図の方は、そのまま信用できるものでもなく、改変や創作された部分も多々見られる。例として、『武蔵七党系図』で、家次の弟を久下塚氏祖である庄弘定としているが、これは明らかに久下塚氏の一族が、自らの氏祖は児玉党の本宗家一族と兄弟であると見せようとしたものであり、同族意識から来た系図の改編、悪い言い方をすれば、捏造である。こうした事から、本庄氏に関する系図も慎重に研究されてきた経緯がある(結果として、児玉党の本宗家であるにもかかわらず、本庄氏の世間的な認知度は低い)。家次は亡き兄である頼家の養子となり、家督を継いだ後、備中国へ地頭として赴任し、そのまま備中庄氏と化した。徹底して、客観的に考察した場合、確実に本庄氏を名乗ったと言えるのは、家次の弟である時家と、家次の子息である朝次に限定される事となる。すなわち武蔵国の本拠に居住し続けた庄氏である。家次の子息である朝次は、秩父郡へ移住し、父の弟である時家に、本宗家の地位を譲ったものと考えられている(この事について妙清禅尼がどうかかわったのかは不明である)が、それで朝次が庄氏分家となったのであれば、自ら本庄氏を称している事はおかしく、また、時家が朝次に本庄を名乗らせる事もおかしい。従来の通説にある、本庄とは本家の庄氏の意味であるとした場合、違和感が生じてくる。時家が児玉党をまとめる為に自ら本庄氏を称したとすれば、それはリスクがともなう事であり、同族同士で争い(家督争い)になりかねないデリケートな問題である(家次の子息も武蔵国内で本庄を称している為)。こうした考察からも、本庄を「本家の庄氏」とする説には無理が生じてくるのは明白であり(むしろ、元から無理のあった説であると言える)、本庄の本とは、モト=元を意味し、備中の庄氏に対して、「本拠地の庄氏」と言う意味で本庄を称したとする説が研究者によって唱えられている。そもそも、本庄を本家の庄氏とする説は、近世・近代の人が考えたものであり、それも学者が考察した説ではない。到底、客観的とは言えないにもかかわらず、多くの者がこの説をそのまま用いていた。それもこの一説のみを深く信仰している状態と言ってもよいほどに。事実的に疑わしいと言う主張も現れなかった。都合が何も悪くない為である。そして、後世に創られた系図を信用しすぎた結果でもある。こうした経緯から、本庄を「本家の庄氏」とする、一説に限定して、主張する考え方は、客観的な考察とは言えず、危ういものがある。従来の説には疑わしい点も多分にあると言う事を、今後は知っておくべきである。 追記として、本庄を本家の庄氏であると世間的に錯覚、誤解させた要因は、この他にもある。本庄宗正の一族が、自身を庄小太郎頼家(家長の長男)の末裔=児玉党の直系の嫡流であると自称して、系図の改編(捏造)をした事である。彼らの本庄氏祖の伝承は明らかに創作されたものである。そして後世では、家長の子息の全てが本庄氏を名乗ったと言う俗説や、家長自身が本庄を称したとする俗説まで生じる事となり、世間的にも広まってしまった。実際に本庄を称したと言えるのは、家次の子孫と時家の子孫である。
※この「家次系本庄氏について」の解説は、「庄家次」の解説の一部です。
「家次系本庄氏について」を含む「庄家次」の記事については、「庄家次」の概要を参照ください。
- 家次系本庄氏についてのページへのリンク