氏祖
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 21:04 UTC 版)
詳細は「中原有象」を参照 その後、10世紀後半の儒学者である十市有象が中原有象(なかはら の ありかた、延喜2年(902年)–?)に改姓したのが中原氏の始まりである。 有象以前、十市氏は既に明経道と関わりがあった。『類聚符宣抄』九に、延長8年(930年)7月24日、従五位下十市部良佐(十市良佐)が助教として天文密奏を行ったことが見える。これに加え、後世の系図類では、十市氏は学者の家系であるだけではなく、有象の父の春宗や、叔父とされる良忠(前記の良佐と同一人物とされる)も外記局に務めていた事務方一家でもあったと書かれている。しかし、『外記補任』には春宗や良忠(良佐)が外記を務めていたという記録はなく、井上幸治は、史料上は否定されるとしている。 有象に話を戻すと、承平元年(931年)12月27日頃にはまだ学生であったが(『類聚符宣抄』九)、その後に直講(明経道の教師)を経て、天慶5年(942年)12月13日に権少外記として外記局に務め始め、同8年(945年)には宿禰の姓(かばね)を下賜されて氏姓が十市首から十市宿禰となり、同9年(946年)2月7日に大外記として事務方の長となる(『外記補任』二)。同年4月28日、村上天皇即位に合わせ、従五位下を叙爵されて貴族となった(『外記補任』二)。その後、遠江介や出雲守を歴任したのち(『外記補任』二)、天徳2年(958年)に律令制における儒学者の頂点である明経博士の地位に昇った(『二中歴』二・儒職歴)。 有象は左大臣藤原在衡や、文章博士菅原文時(道真孫)とも親交があり、安和2年(969年)3月13日には、共に尚歯会(有識者同士で高齢を祝う祝宴)を開いている。 有象が中原氏を名乗った正確な時期はわからないが、後世の諸系図では天禄2年(971年)に中原宿禰に改姓したと言われ、『国史大辞典』「中原氏」(吉岡真之担当)もこれを採用している。少なくとも、『類聚符宣抄』九によれば、安和2年(969年)8月11日の時点ではまだ十市氏だった。 同様に、後世の系図類では、天延2年(974年)11月あるいは12月に朝臣の姓(かばね)を下賜され、氏姓が中原宿禰から中原朝臣になったという。14世紀後半の系図である『尊卑分脈』では11月だが、それ以後の系図では12月とするものが多い。『国史大辞典』「中原氏」は12月説を採用している。
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