中原有象
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/21 03:18 UTC 版)
中原 有象(なかはら の ありかた[2][注釈 3])は、平安時代中期の儒学者・貴族。美濃介・十市春宗の子。官位は従四位下・治部卿。
注釈
- ^ a b 『押小路家譜』『系図纂要』。『外記補任』でも天慶6年(943年)で(数え)42歳とあり[1]、ここから逆算。[1]。
- ^ 明経道に関わった十市致明という人物は『類聚符宣抄』九にも見える[1]。
- ^ 『大日本史料』天元元年8月5日条所載の『外記補任』二では、「象」について、「ミツ」と「カタ」の2通りの訓み方が併記されている[1]。同『尊卑分脈』では、「カタ」と「ユキ」が併記[1]。
- ^ 有象以前にも弘宗王の子らなど中原の氏(うじ)を名乗る者は存在したものの、それらの氏族のその後は定かではない[3]。
- ^ 有象の父を春宗とするのは、後世の諸系図だけではなく、『外記補任』二にも記載される[1]。
- ^ 『類聚符宣抄』九所載の文書に「従五位上勘解由次官兼博士十市宿禰有象」と署す[1]。
- ^ 七叟の名を全て挙げると藤原有衡(在衡)、菅原文時、橘好古、高階良臣、菅原雅規、十市有象、橘雅文で、典拠は『日本紀略』同日条・『本朝文粋』巻九「菅原文時詩序」・『尚歯会詩』(後藤昭雄「安和二年粟田殿尚歯会詩考」)・『粟田左府尚歯会詩』(『群書類従』第九輯(文筆部)所収)[12]。
- ^ 朝廷の年中行事の一つで、天皇の前で行われる論戦。
- ^ 成績最優秀者の得業生4人に次ぐ優良者に与えられる地位。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『大日本史料』1編17冊47-56頁.
- ^ a b c 福井 1994.
- ^ 太田 1936, pp. 4251–4252.
- ^ 吉岡 1997.
- ^ a b c 太田 1934, pp. 3894–3895.
- ^ 『大日本史料』1編6冊272頁.
- ^ 鈴木 1987, p. 5.
- ^ 井上 2005, p. 329.
- ^ 『政事要略』30
- ^ 『大日本史料』1編8冊224-226頁
- ^ 『日本紀略』天徳4年5月10日条
- ^ a b 野尻 2007, p. 111.
- ^ 三上 & 正宗 1937, p. 40.
- ^ 『日本紀略』
- ^ 『類聚符宣抄』9,笇得業生試
- ^ 『本朝世紀』
- ^ a b c d e f g h i 『地下家伝』2,押小路
- ^ 『外記補任』2
- ^ 『二中歴』2,儒職歴
- ^ a b 『類聚符宣抄』9
- ^ 『尊卑分脈』では11月。『国史大辞典』「中原氏」は12月説を採用。
- ^ 『尊卑分脈』
- ^ 『外記補任』
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