逸話・説話
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安和2年(969年)に発生した安和の変を受けて右大臣に昇進したが、既に高齢であったこと、および変の10日前に自ら所有する粟田山荘に学者や文人を招いて尚歯会を開いていることから、在衡は変に関与していないと考えられている。実際に、左大臣・源高明の失脚の情報を聞いた在衡の家人が、大臣の座が空席になったため自分の主人が大臣になれると喜んだところ、在衡は怒ってその家人を追放した。また、大臣任官の定例の祝宴も開催しなかったと言われている。 僧侶の子息で五位の諸大夫の養子という、その出自に比して異例の出世を遂げたこともあり、数々の説話に彩られた人物である。若年時に鞍馬寺において天童から大臣への昇進と長命の予言を受けたという話や、天皇の下問には周到な準備をもって的確に答え、しかも風雨を厭わず参勤した話などが、『古事談』に収められている。 尚歯会の際に詠まれた漢詩が『粟田左府尚歯会詩』に残されている。在衡が主催した尚歯会の七叟は、在衡本人・菅原文時・橘好古・高階良臣・菅原雅規・十市有象(中原有象)・橘雅文だった。
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逸話・説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 03:41 UTC 版)
挙周の出世が伸び悩んでいる時に、母の赤染衛門は藤原道長の妻倫子に歌を送った。 おもへきみかしらの雪をうちはらひ 消えぬさきにといそぐ心を(頭にふりかかる雪を打ち払いながら、雪のように我が身が消えないうちにと急ぐ心を、どうぞお察し下さい) 頭の雪=自分の白髪とかけ、年老いつつも息子を案じる母の心を詠んだ歌であるという。 道長はこの歌を見て同情の心が湧き、挙周は和泉国国司に任じられた。だが挙周は国司赴任中に病にかかってしまった。挙周の病は重くなる一方であったので、赤染衛門は京から急いでかけつけ、住吉神社で息子の治癒を祈願した。御幣には一首の歌が添えられていた。 代はらむと思ふ命は惜しからで さても別れむほどぞ悲し(息子の命と代えようと言う私の命は惜しくないけれども、そうして息子と別れるならばやはり悲しいことであるよ) 自分の命を捧げても惜しくはないので、息子だけは助けてほしいという歌であった。やがて挙周の病は全快したが、母の行動を伝え聞いた挙周は同じように住吉神社に赴き、「母が死んでは生きてはいけないので、母が捧げた命は自分の命で補ってほしい」と祈ったという。 以上の説話は『赤染衛門集』、『今昔物語集』巻第二十四に収められるほか、『十訓抄』巻十、『古今著聞集』巻五などの説話集にもとられて広く流布した。(本記事の歌は『今昔物語集』の本文による。)
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逸話・説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:40 UTC 版)
『大鏡』によると、その和歌の腕前は非常に尊重されていたらしく、天慶6年(943年)正月に大納言・藤原師輔が、正月用の魚袋を父の太政大臣・藤原忠平に返す際に添える和歌の代作を依頼するために、わざわざ貫之の家を訪れたという。 『袋草紙』などでは、貫之の詠んだ歌の力によって幸運がもたらされたという「歌徳説話」も数多く伝わっている。
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