せつ‐わ【説話】
説話
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第2曲はもっとも長く、全体の半分近くを占める。歌詞は「使徒言行録」第6-7章の抜粋で、キリスト教最初の殉教者とされるステファノについて歌う。この曲では合唱は休み、かわりに語り手が参加してメロドラマの形式を取る(語り手はこの曲にのみ登場)。 語り手とアルトの歌が交互にステファノの殉教について物語るが、両者はしばしば重なりあう。ステファノ自身の言葉はテノールによって歌われる。クライマックスの、人々がステファノに石を投げる箇所(7章57-58節)はアルトとテノールが複雑に重なりあう。管弦楽はかなり複雑な構造を持つ。最後の部分(7章59-60節)はアカペラで語り歌われる。
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常行は若い頃、忌夜行日(陰陽道において、百鬼夜行の日である事から、夜の外出を避けるべきとされた日)にも関わらず、想いを懸けている女の許へ出かけたために、百鬼夜行に出会い鬼に捕らわれそうになる。しかし、常行の乳母が兄弟の阿闍梨に書いてもらった尊勝陀羅尼を常行の服の襟に入れておいたおかげで、鬼は常行を捕らえる事ができず、常行は何とか家に逃げ帰ることができたという。
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平治の乱後に配流となった人々が、次第に都に召還されていく中で、惟方はいつ赦されるかわからないまま過ごしていたが、配所から都に対して女房へことづけて「この瀬にも沈むと聞けば涙川 流れしよりもぬるる袖かな 」という歌を詠んだ。この歌を聞いた後白河法皇は哀れんで、惟方を赦免し都に召還したという。
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説話には場所が村として伝わっているものと北京として伝わっているものがある。
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御伽草子の七草草子に、説話が語られている。 唐の楚国に、大しうという親孝行者がいた。両親はもう百歳を越し体がままならず、そんな両親を嘆き悲しんだ大しうは、山に入って21日間もの苦行を行い祈願した。 「私に老いを移してもいいのでどうか両親を若返らせてください」 そこに天上の帝釈天からお告げがあった。 「そなたの願いを聞き入れた。須弥山の南に齢8000年の白鵞鳥がいるが、この秘術をぬしら親子に授ける。ついては、毎年春のはじめに七種の草を食べること。 1月6日までに7種類の草の集めておくこと。次の時刻に柳で作った器に種を載せ、玉椿の枝で叩くこと。酉の刻から芹 戌の刻から薺 亥の刻から御形 子の刻から田平子 丑の刻から仏座 寅の刻から菘 卯の刻から清白 辰の刻からこれらの種を合わせ、東から清水を汲んできて、これを煮て食べること。 一口で10歳、七口で70歳若返るので、ついには8000年生きることができよう。」大しうはこの教えを繰り返し暗唱すると、この日は正月であったのですぐに山を降りて7種類の草を集め、6日の夕方から教えの通り、不思議な心持ちで夜通し草を叩いた。朝になり、東から汲んだ水で炊いて両親に食べさせたところ、たちまち若返ったのはいうまでもない。これが世に伝わり、噂を聞いた当時の帝はこの親孝行に感動して位を譲った。 すなわち、七草の由来とともに、ここでは親孝行の功徳を説いた話だったのである。
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河原院には融の幽霊が出るということでも有名で、『今昔物語集』などにいくつかの話が載っている。 『今昔物語集』27-2 -- 宇多上皇が滞在中に融の霊が現れ「ここは私の家です」と言ったので、上皇が「お前の息子から貰ったのだ」と一喝すると、それ以降、融の霊は現れなくなった。 『江談抄』 -- 宇多上皇が京極御息所と河原院で夜を過ごしていると、融の霊が現われ「御息所がほしい」と言った。上皇は断ったが、御息所は死んだようにぐったりとしていた。上皇は急ぎ宮中に戻り、僧に祈祷させたところ、御息所は生き返った。 『紫明抄』 -- 宇多上皇が御息所と河原院で月を眺めていると、何物かが御息所を建物の中へ引き入れようとした。上皇が「何物か」と問うと「融」と答えがあり、御息所は放されたが、すでに御息所は息絶えていた。 『今昔物語集』27-17 -- 東国から上京した夫婦が、荒れはてた河原院で一夜を明かそうとしたが、夫が馬を繋いでいる間に妻は建物の中から差し出された手に捕えられた。夫が戸を開けようとしても堅く閉ざされて開かない。戸を壊して中に入ってみると、そこには血を吸いつくされた妻の死体が吊るされていた。
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『今昔物語集』に湛慶の密通・還俗に関する説話がある。 ある時、慈覚大師の弟子の湛慶阿闍梨が、夢の中で不動尊から「前世の因縁により汝は某国某郡の誰某の娘と通じて夫婦になる」とのお告げを受けた。湛慶は戒律を破ることを防ぐために、10歳ほどのその女性を捜し当て彼女の首を切って京に逃げ帰った。のちに、病気の祈祷のために忠仁公(藤原良房)の屋敷に参上した際、湛慶はその家の女房と密通してしまう。女房の首には大きな傷跡があり、果たして以前殺そうとした少女その人であった。湛慶は因縁の深さに心を打たれ、還俗してその女房と夫婦になったという。 なお、公輔の時代から約300年下った平安時代後期の『玉葉』にも筆者である九条兼実が藤原長光から聞いた話としてほぼ同様の話が記されている(ただし、長光は公輔の法名を「惟修」、彼が殺そうとした少女は当時4、5歳であったとする)。長光は藤原公雅が「公輔」と改名したことについて新しい名に良くない先例があるとして、不祥事を起こして還俗・改名した高向公輔の例を挙げたとみられている。
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ヨーロッパの説話では、王のもとから黄金の林檎を盗み出すのは、通常、鳥であることが多い。以下に例を挙げる。 イワン王子と火の鳥と灰色狼(ロシア) 黄金の鳥(ドイツ) 黄金の人魚 The Golden Mermaid(ドイツ) 9羽のクジャクと黄金の林檎 The Nine Peahens and the Golden Apples(セルビア、ブルガリア) 勇敢なPrâsleaと黄金の林檎 Prâslea the Brave and the Golden Apples(ルーマニア、鳥ではなくズメウが盗む)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 03:01 UTC 版)
アナークは双子を持たず、一人で産まれた。また彼女はカインの姉妹であり、カインがアベルを殺した後、イエメンで彼と結婚した。アナークは姦淫を犯し、それは地上で初めて行われた悪だった。彼女には2つの頭と20本の指があり、指にはそれぞれ2つの爪が付いていた。
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『今昔物語集』に除目の結果についての予想がよく的中すると評判になったとする説話がある。
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大永4年(1524年)、父・能家より家督を譲られるが、天文3年(1534年)に父が島村盛実により砥石城を攻められ自害すると、子・直家を連れ備後国鞆津まで落ち延びる。 後に備前福岡の豪商・阿部善定に庇護されると、善定の娘を娶り、忠家、春家の男児2人に恵まれた。なお、『常山紀談』では興家は愚であったため、阿辺定善に養われて牛飼童となり、年経て召使ふ下女を娶わせて子が3人、直家・忠家・春家としている。 天文5年(1536年)に病死した。なお、没年は天文9年(1540年)とする説もある。また家臣たちに暗愚と言われ、そのストレスで自害し、このことが家臣や嫡子・直家の混乱を招くと考えた正室や側妻、重臣らが自害したことを隠すため病死したと嘘をついたという説もある。ただ、直家は興家が自害したことを見抜いていたともいう。 既に家督を譲られ家長となっていたにもかかわらず、抵抗もせず城を明け渡し逃亡したことを受け、興家は暗愚であったと後世評されるが、宇喜多の家名や幼い直家を守るためにあえて暗愚を装っていたという説もある。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:26 UTC 版)
また、をかしみのある話の源流は『竹取物語』、『今昔物語』または『宇治拾遺物語』に収められた説話にさかのぼる事もできる。 仏教布教のための説経節 儒教伝来とともに日本へ渡ってきた故事
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 02:47 UTC 版)
息子の大江挙周が重病を患っていた際、「大江挙周の重病の原因は住吉神社による祟りではないか」との話を見聞したことから、赤染衛門は挙周の快方を祈願して、「代わらむと 祈る命は をしからで さてもわかれんことぞ悲しき」との和歌を住吉神社の祭殿に奉納した。赤染衛門の挙周への祈念が、住吉神社の祭神に聞き入れられ、挙周の重病は根治したという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 20:48 UTC 版)
民間説話においては前述のように、人の心を察して口真似などで人をからかう妖怪とされるが、地方により伝承が異なる。 秋田県平鹿郡、茨城県稲敷郡、群馬県邑楽郡、静岡県田方郡などでは、人の声を真似ることから木霊や山彦が「アマノジャク」と呼ばれ、山中の声の反響はアマノジャクが声を真似しているなどという。栃木県芳賀郡、富山県西礪波郡、岐阜県加茂郡では山姥を指して天邪鬼と呼ぶ。 神奈川県箱根や静岡県伊豆では、天邪鬼は巨人のようなものとして伝えられており、かつて天邪鬼が富士山を崩そうとして失敗し、そのときに運び出した土がこぼれてできたのが伊豆大島だという。岡山県久米郡中央町(現・美咲町)では、天邪鬼が二上山を高くしようとして石を積み上げたが、完成間近で夜が明けたために失敗し、兵庫県多可郡では天邪鬼が山々の間に橋を造ろうとしたが、同様に失敗したといい、これらの地方では山の上に自然石が転がっている場所や、製作者のわからない石垣などは天邪鬼によるものとされている。 岩手県九戸郡では天邪鬼が炉の灰の中にいるといい、東北地方では天邪鬼は蛹のこと、秋田県仙北郡角館ではチャタテムシのこととされる。また、同県の平鹿郡(現・横手市)での俗信では、嬰児はアマノジャクが子守をして泣かせないと言われていた。 『うりこ姫』など、昔話(日本の童話)にも登場する。 長野県南佐久郡の小海の奥の「カッポウ」という所に天邪鬼がいた。大きな体をしており、一気に一山越えて手桶をついたので、その跡がある。また付近には天邪鬼の足跡も残っている。
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高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。これを神産巣日御祖神が回収した。 また島根県石見地方に伝わる伝説には、大気都比売神の娘に乙子狭姫がおり、雁に乗って降臨し作物の種を地上に伝えたとする。
※この「説話」の解説は、「オオゲツヒメ」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 02:35 UTC 版)
有国が若い頃、豊前守に任ぜられた父輔道とともに九州に下向した。輔道は下向先で病気で死亡してしまったため、有国は父親のために泰山府君祭を行った所、輔道は生き返った。輔道が言うところによると、現世の罪を裁く閻魔大王から、(泰山府君祭による)すばらしいお供え物があったことから、現世に返してやるべきとの評定があった。しかし、評定の際に陰陽道の専門家でもない者(有国)が泰山府君祭を行うことは大罪であるため、輔道の代わりに有国をあの世に呼び寄せるべきとの意見があったが、あの世の冥官の中で、親孝行による行為である上に、京都から遠い九州の地では陰陽道の専門家がいないのはやむを得ない、との意見があり親子共々許されたという。
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桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物であった。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されている。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉』では良岑宗貞の名で登場。
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テッサリアー地方のケンタウレの間でもヒュロノメーほど美しい女性はおらず、同じく美貌で知られたケンタウロスであるキュラロス(英語版)の心を艶やかな物腰と愛の告白でつかんで結ばれた。 ヒョロノメーは半人半馬の姿に出来るだけの身だしなみに気を遣い、常にその毛並みを整えてローズマリー(迷迭香)やバラやすみれで編んだ花環を首にかけたり、時には白い百合の花をさしたりした。また、山の頂から湧きだした泉で1日に2回顔を洗ったり、水浴びをしていた。キュラロスとは互いに愛し合っており、一緒に山野を駆けたり、洞窟で身体を休めたりしており、戦いのきっかけとなったペイリトオスとヒッポダメイアの結婚式にも一緒に参列していた。 キュラロスとヒョロノメーも戦いに巻き込まれたが、その最中に飛んできた槍がキュラロスの首と胸の間に刺さって心臓をかすった。すぐにキュラロスの身体は冷たくなっていき、それを見たヒョロノメーは彼の身体を抱きしめて傷口を手でふさいだり、口づけをして何とか魂が身体から抜けるのを止めようとしたが、それが無理だと悟ると、絶叫しながら夫の命を奪った槍先にうつ伏せになると、槍に己の身体を貫かせ、キュラロスの身体を抱きしめながら死んだという。 ケンタウロス族小惑星ヒュロノメはヒュロノメーにちなんで名付けられた。
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古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。 すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
※この「説話」の解説は、「蘇民将来」の解説の一部です。
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メッコ和尚開山和尚は妊娠中に死亡し埋葬された母の墓の中で産声を上げた。土を掘りだした時、鍬が眼にあたり、片目を失明したため「メッコ和尚」と言われた。 鬼石貞祥寺の和尚がお経を上げていると悪い鬼が手を出した。和尚は数珠でその腕を叩き落とした。鬼は「もう悪事はしません」と言ったので、和尚は腕を返してやった。鬼はその腕をはめ込み、大きな石を持ち上げてみせた。その石を「鬼石」と呼ぶ。 尾垂山貞祥寺の山号を尾垂山とする説があるが貞祥寺の建立は1521年であり、甲賀三郎伝説とは時代に整合性がなく間違いである。かつて貞祥寺の南にあり廃寺となった尾垂山 龍覚寺と取り違えたと思われる。
※この「説話」の解説は、「貞祥寺」の解説の一部です。
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イザナギとイザナミは天浮橋から天沼矛をかき回して、オノゴロ島を作った。彼らはオノゴロ島に降り立ち、八尋殿と天の御柱を建てた。イザナミは自分の身体に足りない所(女性器)があることを発見し、イザナギは余っている所(男性器)があることを発見した。イザナギはイザナミの足りない所に彼の余っているところを差し込んで国産みを行うことを提案し、イザナミは承諾した。天の御柱をイザナギは左から周り、イザナミは右から回って、鉢合わせ、お互いの魅力を褒め合ったが、イザナミの方が先に言葉を発したことは良くないとされた。イザナミはヒルコと淡島を産んだ。
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『宇治拾遺物語』には、保輔が自分の屋敷の蔵の床下に穴を掘り、商人を蔵に呼びつけて物を買ったそばからこの穴に突き落として殺していた、という説話が語られている。
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房住山が修験の場として開かれていた頃、房住山一帯を支配し翁面(上小阿仁村沖田面)に住む高倉長者という族長がいた。高倉長者は坂上田村麻呂と協力して、長面三兄弟という蝦夷を征伐したとされている。その長者に「たつこ」というひとり娘がいた。この娘の婿は阿仁と言ったので、人々は彼のことを「阿仁殿」と言った。ところが、婿をとってしばらくしたら長者に男子ができた。長者は後に財産の争いが起き、血を見ることがないようにとクジ引きで土地を分け与えることにした。その結果、娘婿の阿仁殿は米ヶ沢(米内沢)、実子は鎌ヶ沢(合川町鎌沢)に住みそれぞれの地を支配することになった。その後、二人は奥地を切り開き、娘婿は「大阿仁」と言われる比立内地区まで、実子の方は「小阿仁」とよばれ萩形までをそれぞれ支配することになった。
※この「説話」の解説は、「合川町」の解説の一部です。
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以前、良相は学生であった小野篁が罪を犯した際これを弁護した事があった。後に良相は病を得て一旦死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えられるが、閻魔王宮の臣として裁判を手伝っていた篁の執り成しによって赦され冥界から帰還したという。
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『宇治拾遺物語』には、昔尾張国の俊綱(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある。 『十訓抄』等にも俊綱に関する説話がある。
※この「説話」の解説は、「橘俊綱」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 23:26 UTC 版)
『封神演義』などをはじめとした小説作品において、紂王の名で広く登場が見られる。日本でも高井蘭山『絵本三国妖婦伝』などに妲己の正体を天竺・中国・日本をまたにかけた九尾の狐であるとした物語が描かれ、そこに登場している。
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『今昔物語集』には、以下の話が記されている。10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく思い手を出すことができなかった。その者こそが保昌で、保昌は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという。 同様の説話は『宇治拾遺物語』にもある。また、後世袴垂は保昌の弟藤原保輔と同一視され、「袴垂保輔」と称されたが、今昔物語の説話が兄弟同士の間での話とは考えにくい為、実際は袴垂と藤原保輔は別人と考えられている。 『十訓抄』にも保昌の説話が載っている。保昌が丹後国に下向のおりに、与謝山で騎乗したままの白髪の老武者に出会い、郎党達は礼を失したこの人物を「奇怪なり」と咎めようとしたが、一騎当千の馬の立てざまから保昌は「ただものにあらず」と見抜き通過した。やがて多くの従者を率いた平致経に行き会い、老武者が致経の父・平致頼であると知ったという。この逸話は、「優れた武者を見通した保昌もまた優れた武者である」ことを表すものである。 和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に弓を射掛けられるもなんとか一枝を得て愛を射止めたという逸話があり、京都の祇園祭の保昌山のモチーフにもなっている。
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スカサハはアルスター物語群のひとつ「エメルへの求婚」に登場する。この物語は『赤牛の書』や『レンスターの書』などの写本に残されており、いくつかのバージョンがある。スカサハが登場する中盤のあらすじは以下のとおりである。 スカサハはアルヴァの東方(現在のスコットランド)で、一種の軍事学校を開く教師であった。のちにクー・フラン(クー・フーリン)の親友となるフェル・ディアドも生徒の一人で、他のバージョンにはデアドラとの悲恋で有名なノイシュ、Egomasの息子Lochmor、Foraの息子Fiamainもスカアハの生徒であることが書かれている。 ある日、アルスターの英雄クー・フランが、武術修業のためスカサハのもとを訪れる。 数々の難所を乗り越えアルヴァに辿りついたクー・フランにスカサハは驚嘆し、この若き英雄を弟子にする。スカサハは当時、他部族の王妃である女武芸者オイフェが支配する人々と戦っていたが、クー・フランがオイフェを一騎打ちで破り、この地に平和をもたらす。 スカサハは一年と一日の間、クー・フランに鮭飛びの術や必中必殺ガイ・ボルガはじめとした様々な奥義を伝授した。具体的には、球の妙技、刃の妙技、平らに置いた盾の妙技、投げ槍の妙技、縄の妙技、胴の妙技、猫の妙技、大胆鮭跳躍の妙技、棒高跳びに障害物跳び、歴戦の戦車の御者だけに許された後退回転、必中必殺ガイ・ボルガと真鍮の刃、車輪の妙技、八人の妙技、呼吸秘術、口唇憤怒、戦士咆哮、止め斬りの秘法、水切り失神突きの秘法、槍登りの妙技、槍のてっぺん棒立ちの妙技など、非常に多岐にわたる。 戦いの技術以外にも、スカサハはクー・フランにある予言を与えている。この予言は「Verba Scáthaige」、日本語で「スカサハの言葉」というタイトルで今日まで伝わっている。元々は8世紀前半の写本『ドルム・シュネフタの冊子』に残されていた可能性が高いが、現在この写本は行方不明となっている。スカサハは予言の力を用い、クー・フランを待ち受ける数々の困難、クー・フランの最期、またクアルンゲの牛捕りのクライマックスをも言い当てた。
※この「説話」の解説は、「スカアハ」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:37 UTC 版)
房住山が修験の場として開かれていた頃、房住山一帯を支配し翁面(上小阿仁村沖田面)に住む高倉長者という族長がいた。高倉長者は坂上田村麻呂と協力して、長面三兄弟という蝦夷を征伐したとされている。その長者に「たつこ」というひとり娘がいた。この娘の婿は阿仁と言ったので、人々は彼のことを「阿仁殿」と言った。ところが、婿をとってしばらくしたら長者に男子ができた。長者は後に財産の争いが起き、血を見ることがないようにとクジ引きで土地を分け与えることにした。その結果、娘婿の阿仁殿は米ヶ沢(米内沢)、実子は鎌ヶ沢(合川町鎌沢)に住みそれぞれの地を支配することになった。その後、二人は奥地を切り開き、娘婿は「大阿仁」と言われる比立内地区まで、実子の方は「小阿仁」とよばれ萩形までをそれぞれ支配することになった。
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説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 01:27 UTC 版)
『平家物語』の志度合戦では、16騎で3000騎を率いる阿波水軍に向かい、平家の家人田内左衛門教能を言葉巧みに欺き降伏させた。義盛は勝浦でも近藤親家を懐柔している。 『義経記』では終始義経と運命を共にし、平泉で討ち死にしたとされる。
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説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 16:09 UTC 版)
アルコーンはアダムの妻であるイヴに恋情を抱くが、イヴから嘲笑される。ある時、アルコーンはイヴと寝たかと思ったが、それはイヴではなくイヴの影であり、アルコーンは自分自身を汚すことになった。 イヴはアダムとの間にカインとアベルを産んだ。カインがアベルを殺害すると、イヴはセトを産み、その後に「人間の世代から世代への助け」のために「何者にも汚されなかった処女」としてノーレアを産んだ。 アルコーンは洪水を起こして、人間やその他の生物を跡形もなく滅ぼすことを企んだ。ノアはその企みを知り、方舟を作った。ノーレアは方舟に乗る為にノアの下に行ったが、彼は彼女を方舟に乗せなかった。そのため、ノーレアは風を吹き付けて、方舟を燃やした。ノアは二隻目の方舟を作ることとなった。 アルコーンはノーレアを騙すために、彼女の下に来て、イヴは自分たちと寝たと言った。ノーレアはこれに対し、アルコーンはイヴと寝たのではなく、イヴの虚像と寝たのであり、したがって自分がアルコーンから出て来たわけでもないと告げ、自分は天上の世界から来たと言った。アルコーンは顔色を変え、ノーレアを辱めようとして迫った。ノーレアは神に向かって自分をアルコーンから助け出すよう叫んだ。すると、天から大天使エレレートが降下し、彼女になぜ叫んでいるのか尋ねた。アルコーンは退去した。エレレートは、自身のことを「理解」であると述べ、人類とアルコーンの本質について語った。
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説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 15:12 UTC 版)
アベルの姉であり妻であるルルワは、アダムとイヴの娘たちの中で最も美しく、母親よりも美しいと説明されている。しかし、カインはルルワと一緒にいたイヴの子宮の中で、ルルワを憎んでいたと伝えられている。ルルワという名前は「美」を意味する。また、「真珠」や「月の宝石」という意味もある。一方、カインという名前は、双子の妹を憎んでいたことに因んで「憎む者」を意味した。 アベルはカインにとってのルルワと同様に、双子の妹アクレミア(Aklemia)を持っていた。イスラム教とラビの伝承によると、彼らと彼女らの父親であるアダムは、ルルワはアベルと結婚し、アクレミアはカインと結婚することを提案した。ルルワをアクレミアよりも魅力的だと思っていたカインは、この提案に反対した。ルルワの双子の兄弟を納得させるために、アダムは、神意を伺うために彼に神への捧げものを供えさせたが、カインの供え物は神によって拒絶された。カインはアベルを殺害すればルルワが自分の妻になると考え、アベルを殺害した。 『アダムとイヴとサタンの対立』によると、ルルワはカインがアベルを殺した時、そのことを泣きながらアダムとイヴに伝えた。アダムとイヴは驚いて泣き叫びながらアベルが殺された場所に行くと、アベルの遺体に獣が群がっていた。家族は大泣きした後、遺体を埋葬し、140日間喪に服した。その時アベルは15歳半で、カインは17歳半だった。弟の喪が明けると、カインはアダムとイヴの許可なしで妹のルルワと結婚した。両親は息子を一人失った悲しみに囚われ、カインがルルワに近づくことを制止できなかった。
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説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/04 01:39 UTC 版)
定基が三河守として任国に連れて行った女が亡くなった際、悲しみの余り、しばらく埋葬せずに、女の亡骸を抱いて臥していた。数日後、定基が女の口を吸うと、ひどい死臭がした。さすが定基も耐えられず、女に対して疎ましく思う気持ちが起こり、ようやく女を埋葬した。その後定基は「この世はつらく苦しいものだ」と、発心を起こしたという。 出家した寂照が、都で乞食をしていたところ、離縁した妻に会い、元妻に「『私を捨てた報いで、このように(落ちぶれた姿に)なれ』と思っていたが、この通り見届けることができたことよ」と辱めを受けたが、逆に寂照は「この徳により必ず仏心を得られるであろう」と手をすりあわせて喜んだという。 寂照については、幸田露伴『連環記』にも採りあげられている。
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説話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 15:26 UTC 版)
長谷雄の祖父である紀国守は医道を家業として伝えてきたが、国守の遺誡により、紀氏の衰退から脱却するために新しく家を継ぐ者には紀伝道を学ばせることになった。 しかし、国守の子である貞範はその遺誡を果せぬことを覚って、自ら長谷寺に参籠し、文才の優れた子を授ることを祈願した。 満願の日に至り、御帳の中より12-3歳ばかりの童子が現れ、貞範の懇篤なる願いを聞き届け、「吾は汝の子とならん」と伝え、さらに、汝とこの山の松に変らぬ契りを結ぼうと夢告した。やがて、貞範は夢告にいう「松」は、「十八公」とも書くと気づく。観音の縁日は18日であったことから、観世音菩薩が伽藍守護の金剛童子を授けて下さったと歓喜し、その童子を長谷観音に因んで「長谷雄」と名付けたという(『三国伝記』)。
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