ぶん‐たい【文体】
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 14:35 UTC 版)
文体(ぶんたい)とは[1][2][3][4][5][6]、文章・散文のスタイルのこと。文芸評論の研究対象になり、時にはある作品の背後に作家性を見いだす際の根拠の一つとされる。
- ^ 小学館『デジタル大辞泉』. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 三省堂『大辞林』第3版. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 小学館『精選版 日本国語大辞典』. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 山口明穂、小田切秀雄、小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. “文体”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ a b 日立デジタル平凡社『世界大百科事典』第2版. “スタイル”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 小学館『デジタル大辞泉』. “スタイル”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ a b c d “文体”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ a b c “style”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 小学館『プログレッシブ英和中辞典』第4版. “style”. コトバンク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ “strain”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2020年7月7日閲覧。
- ^ 飛田 良文 [編] (2007)『日本語学研究事典』(明治書院)の「談話体」の項。
- ^ “黒木 晶子”. researchmap. 科学技術振興機構 (JST). 2020年7月7日閲覧。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 07:58 UTC 版)
「花物語 (吉屋信子)」の記事における「文体」の解説
『花物語』に見られる独自の文体は美文調と評されるが、主語も述語も曖昧で、当時の日常生活では使われなかった古文調の言葉や文字が用いられている。本田和子は、『幻影の盾』などでアール・ヌーヴォーを思わせる美文を書いたこともある夏目漱石や、王朝文学やポール・ヴェルレーヌの訳詞などの影響があることを指摘している。 また、連載当時は『少女の友』などの雑誌の投稿欄を通して、読者同士が文通などによって交流を持つ機会も少なくなかったが、彼女たちが用いていた文体に似ているという指摘もある。
※この「文体」の解説は、「花物語 (吉屋信子)」の解説の一部です。
「文体」を含む「花物語 (吉屋信子)」の記事については、「花物語 (吉屋信子)」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/28 01:20 UTC 版)
「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ」の記事における「文体」の解説
ヴォルフラムの文体は、ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクが「物語を内容と表現とで、内も外もくまなく彩り、飾ることができ・・・」、「彼の水晶のような言葉は常になんと濁りなく澄んでいるのであろう!」(石川敬三訳)と讃美したハルトマン・フォン・アウエらの文体とは全く異質である。 ヴォルフラムは、聞き手の好奇心に逆らい、謎のような譬えで愚弄し、注意力を試したり、異質なもの、相互に関係のないものを並列させて文体の統一を破り表象をかき乱す。文法を無視した語法、常識を破った比喩とグロテスクな対立、それにユーモアを織りまぜ、エロチックな描写をさしはさむ。また、聞き手に対する呼びかけ、「語り手」の意見の開陳と自身の戯画化なども、作者の強い個性を感じさせる。それゆえに、ヴォルフラムはゴットフリートに、「兎にも似て落ち着きがなく、言葉の園で口から出まかせの言葉を吐いて、いたずらに高く跳ね上がったり、遠くまでさまよったりすることを好(む)」(石川敬三訳)と酷評されたのも納得がいく。 しかし、聞き手の好奇心を高め物語の進行に巻き込んで、〔語り手〕〔登場人物・物語〕〔聞き手〕の三者が相互に積極的に関わり、ときに応答するダイナミックな物語の享受の方法を開拓した先駆者であること、その迫力、独創性ゆえに模倣者を多数輩出したことは疑いえない。現代の我々も、比喩の奇抜さ、筋の複雑さゆえにこそヴォルフラムに惹きつけられるのである。
※この「文体」の解説は、「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ」の解説の一部です。
「文体」を含む「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ」の記事については、「ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:21 UTC 版)
『美しい村』の文体は、それまでの『ルウベンスの偽画』や『聖家族』よりも、「息の長い屈曲した文体」となっており、これは『失われた時を求めて』に啓示を受けた堀が、意識的かつ意欲的にプルーストの文体を取り入れたものとされている。堀は1931年(昭和6年)4月の富士見サナトリウム入院中にプルーストを読み始めたとされている。ただし、丸岡明は堀の作品にプルーストの影のようなものが感じられるのは『風立ちぬ』からであると解説している。 本来、詩人的短編的特質の作家である堀は、自身とは異質なプルーストとの正面衝突をうまく回避しながらも、その文体を巧妙に『美しい村』に生かして、そこから『物語の女』、『風立ちぬ』に至る新しい「感情流路の形式」を得たと三輪秀彦は解説し、それは堀のいくらか「生硬な小説概念とは離れた地点」で大きな結実をもたらし、その地点から晩年の王朝文学傾倒へと繋がっていったとしている。
※この「文体」の解説は、「美しい村」の解説の一部です。
「文体」を含む「美しい村」の記事については、「美しい村」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 23:59 UTC 版)
モンテーニュは読者の興味をそそり、巻き込むように意図された巧妙なレトリックを用いて書いており、ある時には話題から話題へと意識の流れに沿って動くように見え、またある時には作品のより教育的な性質を強調する構造的な文体を用いてもいる。古代ギリシア、ラテン文学、イタリア文学からの引用がしばしば補強として用いられる。
※この「文体」の解説は、「エセー」の解説の一部です。
「文体」を含む「エセー」の記事については、「エセー」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 07:49 UTC 版)
この小説の大きな魅力のひとつに、クノー独特の言葉遣いがある。口語や俗語をふんだんに取り入れた『ザジ』の文体は、読者や批評家たちの注目をとりわけ集めた。こうした語り口の巧みさ、言葉そのものの面白おかしさは、クノーにとって出来事や語り手の性格よりもむしろ言語自体に興味の対象があったことに由来する。「コレージュ・ド・パタフィジック」のメンバーだったクノーの作品は、言語についてのふざけた、しかも真摯な考察にほかならない。 『ザジ』のテクストの大半を占めるのが直接話法による会話文であり、小説に生き生きとしたスピード感を与えている。中でも注目すべきはオウムの <緑> が得意とする「喋れ、喋れ、それだけ取り柄さ」で、この言葉は要所要所で物語を駆動する動機となっている。つまり人物たちは何よりもまず「喋る主体」として表象されている。一方で、いわゆる「小説」らしい心理描写や風景描写はほとんどない。人物たちの来歴や身体的特徴、内面的葛藤について、与えられる説明は最小限にとどまり、客観的で現実を再現するような細部は語られない。加えて、括弧でくくられた「(身振り)」や「(沈黙)」など芝居のト書き風の挿入句がある、これらの身振りは物語に演劇的な属性を与え、後半に展開される大衆劇のドタバタに限りなく近づいてゆく。
※この「文体」の解説は、「地下鉄のザジ」の解説の一部です。
「文体」を含む「地下鉄のザジ」の記事については、「地下鉄のザジ」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 20:08 UTC 版)
清の『古文辞類纂』では文章を以下の13類に分けている。なお8.碑誌類、10.箴銘類、11.頌賛類、12.辞賦類、13.哀祭類では一部韻文が含まれている。 論辨類 - 論説文一般。先秦諸子百家の書はこれに分類される。「~論」「~辨」「~説」「原~」など。 序跋類 - 自著や他者の著書に対してその著作意図などを述べたもの。論説文の一種。「序(敍)」は古くは書の最後につけられたが、『文選』頃になると冒頭につけられた。宋代以後には書の最後につけられるものは「跋」と呼ばれるようになった。 奏議類 - 臣下が皇帝に奉る上奏文。論説文の一種。「章」「奏」「表」「疏」「議」「上書」「封事」など。 書説類 - 「書」は書信による議論を、「説」は口頭による議論を表す。「書」には「論~書」「与~書」「答~書」といった題が付けられる。「説」は戦国時代の説客が諸国の君主に遊説したものを分類する。『春秋左氏伝』『国語』『戦国策』、前漢の劉向『説苑』など。 贈序類 - 唐代、送別会ではなむけに人々が詩を作りあったが、それを1巻にまとめて序をつけた。以後、序文だけを作って人に送る習慣が生まれた。これを「贈序」という。「送~序」といった題が付けられる。韓愈が作った作品が最も多く有名である。「王秀才を送る序」など。 詔令類 - 皇帝が臣下に下す文。古く『書経』収録の文は多くこれに入る。「詔」のほか、「制」「誥」「諭」「勅」「冊」「教」「令」「檄」「爾書」などがある。 伝状類 - 個人の伝記。「~伝」「~行状」と題する。「伝」は『史記』に「列伝」として個人の伝記が載せられたことに由来し、以後、正史にはその時代に歴史的な役割を果たした人物の伝記が載せられることになった。「行状」は一般的に「伝」よりも詳細に書かれており、「伝」が他人が書くのに対して、子孫や弟子達が作った。もともとは故人の諡の選定資料であったり、正史の伝の参考資料に供されたものであった。 碑誌類 - 記念として石に刻まれた文のこと。歴史的事件を記念した碑あるいは碑銘、死者の業績をたたえた墓誌あるいは墓誌銘に分かれる。銘とは碑誌全文のことを指す場合もあるが、特に最後につけられた韻文のことを指す。 雑記類 - 「記」とはある事件の顛末などを記したもの。雑記類ではそのうち伝状類、碑誌類を除いたものを分類している。石に刻まれたものもあり、そうでないものも含まれる。韓愈の「藍田県丞廰壁記」、范仲淹の「岳陽楼記」など。 箴銘類 - 自分あるいは他人を戒めるための箴言を収めた文。銘は古く青銅器に鋳込まれた金文のことをいい、銘文には戒めの言葉が多かったことに由来する。漢の崔瑗「座右の銘」、劉禹錫「陋室の銘」など。 頌賛類 - 他人を誉め讃えるための文。 辞賦類 - 辞賦を分類。詩歌と散文の中間的な文体。 哀祭類 - 死者を哀悼し弔う文。哀辞あるいは祭文と題される。通常、韻文である。
※この「文体」の解説は、「古文 (文体)」の解説の一部です。
「文体」を含む「古文 (文体)」の記事については、「古文 (文体)」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/05 15:50 UTC 版)
「ダイバージェント 異端者」の記事における「文体」の解説
批評家の多くが、本作の文体は速いペースで読めるような特徴的で小気味いい散文を作り出していると指摘している。例えば、ニューヨーク・タイムズのスーザン・ドミナスは「心地よいペースで、豊かな想像力の飛翔があり、時折、素晴らしいディテールで読者を驚かせる。」と述べている。アメリカン・プロスペクトのアビー・ノーランは本作が『ハンガー・ゲーム』や『Blood Red Road』のストーリー構造や文体を踏襲していると述べている。
※この「文体」の解説は、「ダイバージェント 異端者」の解説の一部です。
「文体」を含む「ダイバージェント 異端者」の記事については、「ダイバージェント 異端者」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 15:52 UTC 版)
文体は、読者に対して語りかけるようなもの(二人称体)が多くを占める。一人称の作品もあるがプレイヤーへの指示などは二人称である。
※この「文体」の解説は、「ゲームブック」の解説の一部です。
「文体」を含む「ゲームブック」の記事については、「ゲームブック」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 03:06 UTC 版)
『将門記』とおなじく、変体漢文で書かれている。『将門記』が対句や駢儷体などをもちいて美文調であるのに対し、『陸奥話記』は筆致をおさえた、淡々とした文体となっている。これは巻末に「定メテ紪謬多カラム、実ヲ知レル者之ヲ正サムノミ」(とても誤りが多いので、事実を知っているひとによってこれを正すのみである)とあって、この作品が記録文を目指したことと関連していると思われる。
※この「文体」の解説は、「陸奥話記」の解説の一部です。
「文体」を含む「陸奥話記」の記事については、「陸奥話記」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 23:47 UTC 版)
春琴抄は、改行、句読点、鈎括弧などの記号文字を極力使わない特徴的かつ実験的な文体で書かれており、新潮文庫版で10行近く句点がないことも珍しくなく、文章の区切りとして数ページ毎に空行がある他は、作中で一度も改行を使っていない。一般的には句点を必要とする場所でも句点を使わずに書いてあることも多く、例えば「…した。すると…」とか「…であろう。最初は…」といった場所が「…したすると…」とか「…であろう最初は…」となっている。
※この「文体」の解説は、「春琴抄」の解説の一部です。
「文体」を含む「春琴抄」の記事については、「春琴抄」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:47 UTC 版)
『エロ事師たち』は「エロ」を描いているが、綴られる描写は、リアリズム描写の文学ではなく、物語の大半は大阪弁の会話と独特なリズムの文体で成り立ち、この会話と地の文が互いに交錯するところに特徴がある。これらのリズムは、日本の古典的な語り物文芸(軍記物、義太夫、浪花節など)の伝統に則っているが、これは野坂が大阪の地元で自然と身についた、無意識の伝統が継承されているものと見られている。また、その文章は、村松梢風の晩年の文章を思わせるものもあり、その文体やテーマが醸し出す作品世界は、井原西鶴や鶴屋南北などの江戸文学と共通するものがある。
※この「文体」の解説は、「エロ事師たち」の解説の一部です。
「文体」を含む「エロ事師たち」の記事については、「エロ事師たち」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 07:15 UTC 版)
「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」の記事における「文体」の解説
『予言集』の本文に当たる。四行詩を100篇ごとをひとまとまりとした百詩篇の形式をとっており、1行10音綴(デカシラブ)の四行詩である。彼はabab型の交差韻(奇数行と偶数行がそれぞれ韻を踏む)を主体としている。aabb型の平韻やabba型の抱擁韻は百詩篇補遺(後述)などの真偽未詳の詩篇にしばしば見られる。 ノストラダムスは作詩においてラテン語の統語論を念頭においていたとされ、語順どおりに訳せないことがしばしばである。性・数の一致などを手がかりに語と語の関係を注意深く考慮しつつ読む必要があるが、詩によっては性・数の対応関係が変則的な場合があることも指摘されている。 このほか、過去分詞を多用する一方、そこで要請されるはずの存在動詞 être(英語の be 動詞に相当)が多く省略されている。これは時制上の混乱を招くほか、行と行の関連を曖昧にする効果を持つ。また、être に限らず名詞の数に比べて、動詞や前置詞が圧倒的に不足している場合や、動作主や動作の受け手が不明瞭な場合なども多く見られる。 単語レベルで見ると、ラテン語などから借用した造語のほか、既存の単語についても、語頭音消失、語中音消失、語尾音消失といった省略やアナグラムなど、様々な技法が駆使されている。 韻律に関しては、前半律(十音綴の最初の四音綴)のパロクシトン(無強勢のeで終わる韻)では、無強勢の e は続く母音によって発音が省略されるようになっているなど、当時から見ても古風なスタイルであったことが指摘されている。
※この「文体」の解説は、「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」の解説の一部です。
「文体」を含む「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」の記事については、「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 08:07 UTC 版)
作品の終盤に向っていく「最高潮部」の文体について佐藤泰正は、そこで牧野得意の「快速調」が発揮され、「筆はそのまま転調しつつ、一気に終熄部に走る」と解説し、その「見事な終結」は、読者の耳に残るような「弦のゆらぎ」があると評している。また、牧野の「調子にのった歌うような文章」は、「英語にひとしい自由を獲得したと思われる文体」の様相ともなり、それはヨーロッパ中世の騎士物語のパロディ的な文体ともなっていると磯貝英夫は解説している。 また、牧野の作品に「言葉の運用はぞんざい」な所がある点を三島由紀夫は言及し、それを「或る種の粗雑な戦後派の文体の先駆を思はせる」としている。そして、その文章のぞんざいさは、比較的牧野作品の中では「かなり緊密な作品」である『ゼーロン』にも見られるが、その欠点を補うほどの「爽快な魅力」があるとし、三島は次にように梶井基次郎や中島敦と比較しながら、牧野の魅力と文章の特色を分析している。 二人(梶井基次郎や中島敦)のストイックな生き方と作品形成に比べると、ヴァガボンド的要素に富み、私小説の系統ながら、独自の幻想とどす黒いユーモアに溢れ、文章も他二人に比べれば破格で、それだけに他の二人よりも読者の好悪のある作家である。 — 三島由紀夫「解説 牧野信一」(『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』)
※この「文体」の解説は、「ゼーロン」の解説の一部です。
「文体」を含む「ゼーロン」の記事については、「ゼーロン」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 06:32 UTC 版)
1918年の書評で、メー・シンクレア (May Sinclair) は、リチャードソンの、語りにおける自由間接話法の特徴的な使用を指摘した。『遍歴』の初期から、彼女は、意識の流れにそれを採用した。リチャードソンの文体は、ジェームス・ジョイスおよびヴァージニア・ウルフと作られる、より普通な平行よりもむしろ、ヘンリー・ジェームズのそれと、より適切に比較されるということは、主張されてきた。
※この「文体」の解説は、「遍歴」の解説の一部です。
「文体」を含む「遍歴」の記事については、「遍歴」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 00:00 UTC 版)
文は、目的や場面などに応じて、さまざまな異なった様式を採る。この様式のことを、書き言葉(文章)では「文体」と称し、話し言葉(談話)では「話体」と称する。 日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、「ですます体」「でございます体」「だ体」「である体」「ありんす言葉」(江戸・新吉原の遊女の言葉)「てよだわ言葉」(明治中期から流行した若い女性の言葉)などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。 なお、「文体」の用語は、書かれた文章だけではなく談話についても適用されるため、以下では「文体」に「話体」も含めて述べる。また、文語文・口語文などについては「文体史」の節に譲る。
※この「文体」の解説は、「日本語」の解説の一部です。
「文体」を含む「日本語」の記事については、「日本語」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:34 UTC 版)
原文(鈴鹿本)は平易な漢字仮名交じり文(和漢混淆文)(ただし、ひらがなではなくカタカナである)で書かれ、その文体はあまり修辞に凝らないものである。一方、擬態語の多用などにより、臨場感を備える。芥川龍之介は『今昔物語鑑賞』で、「美しいなまなましさ」「野蛮に輝いている」と評している。 極力、どの地域の、何という人の話かということを明記する方針で書かれ、それらが明らかでない場合には意識的な空欄を設け、他日の補充を期す形で文章が構成されている。例えば、典拠となった文献で「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました」という書き出しから始まる説話があり、その人名が具体的には伝わっていない場合であっても、その話を『今昔物語集』に収録する際には「今ハ昔、 ノ国ニ トイフ人アリケリ」との形で記述され、後日それらの情報が明らかになった場合には直ちに加筆できる仕様になっている。このような編纂意図から発生した意識的な欠落部分が非常に多いのが、本説話集の大きな特徴である。
※この「文体」の解説は、「今昔物語集」の解説の一部です。
「文体」を含む「今昔物語集」の記事については、「今昔物語集」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:51 UTC 版)
ジョイスは『ユリシーズ』の18の章をそれぞれ「同業者には未知で未発見の十八の違った観点と同じ数の文体」で書くことを試みている。前半の文体を特徴付けているのは「内的独白」ないし「意識の流れ」と呼ばれる手法であり、主要人物の意識に去来する想念を切れ目なく直接的に映し出してゆく。この手法に関しては、ジョイスは交流のあったフランスの作家エドゥアール・デュジャルダン(英語版)の『月桂樹は切られた』から影響を受けたことを認めている。 「意識の流れ」は一人の人物に焦点を合わせる手法であるが、『ユリシーズ』の後半では語りの視点が複数化・非個人化するとともに作者固有の文体というべきものが消失し、古今のさまざまな文章のパスティーシュを含む実験的手法がとって代わる。特にその実験が顕著なのが第14挿話であり、ここでは古代から現代にいたる、30以上の英語文の文体見本となっている。そして、最後の章では、主人公ブルームの妻モリーの滔々とした独白、つまり他者の声によって終わる。こうした後半の文体について、ディヴィッド・ヘルマンは、前半の語りの主体である「語り手」に対して、「編成者」という名称を使用している。 また、『ユリシーズ』の文章は、膨大な量の駄洒落や引用、謎かけや暗示、百科事典的な記述と羅列といったものを含んでいる。生前、ジョイスは、「非常に多くの謎を詰め込んだので、教授たちは何世紀も渡り私の意図をめぐって議論することになるだろう」とも語ったという。『ユリシーズ』は、英語原文にしておよそ26万5千語の長さをもっており、その中で固有名詞や複数形、動詞の変化形なども含め3万30種もの語が使用されている。
※この「文体」の解説は、「ユリシーズ」の解説の一部です。
「文体」を含む「ユリシーズ」の記事については、「ユリシーズ」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:46 UTC 版)
ヘミングウェイの文章は、多彩な形容詞の忌避、簡潔単純な文構造を基本として展開される。具体的には口語体で、一音節の語を多用する。たいていは20語以内の短い文章であり、しかも短文で複文を避け、[and] や [but] のような接続詞で文をつなぐ。修飾語の少ない簡潔な文であることは、内面的世界を無遠慮にむき出しにすることを好まない、ハードボイルドで厳しいストイシズムといえる。老人が実際に行ったこと、その周囲に存在した事物、それ以外はなにも描かれていないが、このことは逆に、描かれていることの確かさを強く感じさせる。『老人と海』では、こうした純粋で客観的な外面的描写を用いて、作者にとっての理想的な人間像を表現している。 『老人と海』は1,000ページを超える分量になったかもしれない。村のあらゆる人物を書くことだったできたし、彼らがどうして生活するか、生まれたか、教育を受けたか、子供を育てるか、その他の過程を細々と書くことだってできた……まず最初に経験を読者に伝えるのに不要なあらゆるものを切り捨てようとした……私はマカジキを見たことがあるし、海のことも知っている。それでそんなことは省略した。私は50頭あまりのマッコウクジラの群れが潮の中を同じ方向に向かって行くのを見たことがある。だからそんなことは省略した。漁村で聞いた話は全部省略した。だが、そんな知識は、氷山の表面下の部分になっている。 — ヘミングウェイ自身が語った創作態度。 ヘミングウェイはこの作品を200回以上も読み返して推敲したといわれる。このようにして煮詰められ煎じ詰められた表現が意味深い含蓄を持ち、一見簡素に見えるヘミングウェイの文に深さと幅を持たせている。例えば、作品中に老人の身上については一切の説明がないが、粗末な漁師小屋の壁にイエスとマリアの彩色画が貼りつけられていて、それは老人の妻の形見であった、という描写によって、老人が妻に先立たれていること、さらにはその妻は信仰が厚く、少なくとも老人にとってよき伴侶であっただろうことが連想される。さらに、壁には故人の写真が掛けられていたが、いまは取り外されて、片隅の棚に洗ったシャツの下に置かれていると述べられていることにより、老人にとって妻の存在の大きさが印象付けられる。わずかな描写がその背景を膨らませ、妻が登場しないことで、妻にも愛情が捧げられている。また、少年の性格についてはひとことの説明もないが、老人と少年の素朴な会話からは、少年の老人に対する思慕や優しい愛情に溢れていることがよくわかる。 ヘミングウェイの特徴ある文体はきわめて平易で、かつ誰にでも書けそうに思われるものである。加えて『老人と海』においては、「非情な写実主義」の典型とされてきたヘミングウェイの作風に、精神的な要素が有機的に調和している。このように物語の叙法に一つの新しい面を開いたことが、ノーベル文学賞の受賞につながった。
※この「文体」の解説は、「老人と海」の解説の一部です。
「文体」を含む「老人と海」の記事については、「老人と海」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 20:54 UTC 版)
「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事における「文体」の解説
本銘文はすべて漢字で記されているが、全体として漢文と日本語の文法が混然としており、国文の一体といえる。このような仮名がまだ生まれていない段階の日本語文を亀井孝は「漢字文」、吉澤義則は「記録体」と呼んでいる。『古事記』がそれにあたる著名なものであるが、それよりも古い本銘文にもすでに漢文の文法から脱して日本語化しようとする意図が窺える。例えば、「造寺」(動詞+目的語)は漢文式であるが、「薬師像作」(目的語+動詞)は日本語式になっている。また、「大御(おほみ)身」、「勞賜(たまふ)」、「仕奉(まつる)」のような日本語語順による敬語表記を交えている。
※この「文体」の解説は、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の解説の一部です。
「文体」を含む「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の記事については、「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 15:29 UTC 版)
「山椒魚」とその前身「幽閉」は、どちらも山椒魚を主人公とした三人称の語りによる作品であるが、その文体は両者で大きく異なっている。「幽閉」で用いられているのは、当時井伏が愛読していた正宗白鳥などを思わせる自然主義的な文体である。「幽閉」の山椒魚はその一人称が当時インテリ大衆の言葉として定着しつつあった「僕」であり、のちの「山椒魚」と比べると、山椒魚が内的独白(ダッシュを用いて表記される)によって直接に心情を述べている部分が多い。それに対して語り手は全知の視点をから山椒魚の陥った状況を詳細に・合理的に説明し、また山椒魚の内面に分け入ってその心理を代弁する。このとき語り手の文章の形式は三人称(「彼」)であっても、山椒魚の心情に寄り添うことによって山椒魚の独白と渾然一体となり、結果として「幽閉」は山椒魚の心情を主観的・直情的に物語る一人称的・独白的な作品となる。 これに対して「山椒魚」では、山椒魚と語り手とがはっきりと分化している。一人称が「俺」となった山椒魚の語りは鉤括弧でくくられて地の文に対し判然と区別され、語り手の客観的な位置からの説明がそれと混じることがない。この分化はさらに「諸君は、発狂した山椒魚を見たことはないであらうが、この山椒魚に幾らかその傾向がなかつたとは誰がいへよう。諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない」というような語り手の自己演出(語り手の「顔出し」)によって強められている。この語り手の自立によって、山椒魚の嘆きは相対化されて過度な感傷化が避けられるとともに(主情転化)、作品に批評性と、井伏作品特有のユーモアが与えられている。 こうした主情転化によるユーモアの付与はまた、いわゆる「欧文直訳体」をはじめとする井伏作品特有の文体的特徴によっても助長されている。「欧文直訳体」とは西欧の文章を稚拙に逐語訳したような文章で、「山椒魚の棲家は、泳ぎまはるべくあまりに広くなかつた」「そして小さな窓からのぞき見するときほど、常に多くの物を見ることはできないのである」といった表現にその例が見られる。これに加えて「陰花植物の種子散布の法則通り」「白い花弁は淀みの水面に広く円周を描きながら」といった自然科学用語の濫用、「発育」「横暴」「鞭撻」といった、小動物の世界を叙述するものとしてはいかにも大げさな漢熟語の使用も、事物の自然主義的な描写に対する「ずらし」として機能する。しかしこうした表現は自然主義文学が優勢であった当時の文壇において、井伏がナンセンス文学の作家と見なされ正当な評価が遅れる一因ともなった。
※この「文体」の解説は、「山椒魚 (小説)」の解説の一部です。
「文体」を含む「山椒魚 (小説)」の記事については、「山椒魚 (小説)」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 08:34 UTC 版)
つげは、川崎長太郎を愛読し、その文体にも川崎の影響を表しているものも多いが、特にこの作品での「てにをは」を省く文体は川崎長太郎独自のもので、その影響が強くうかがえる。
※この「文体」の解説は、「貧困旅行記」の解説の一部です。
「文体」を含む「貧困旅行記」の記事については、「貧困旅行記」の概要を参照ください。
文体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 03:06 UTC 版)
トールキンの書く文章は気取りなく簡潔である。彼は自分の創りだした架空の世界を当然のものとして扱い、それを冷静な筆致で詳細に描き、風変わりなものが新たに登場する際にはさり気ない書き方で書いている。このような飾り気の無い文体は、リチャード・アダムズの『ウォーターシップ・ダウンのウサギたち』やピーター・ビーグルの『最後のユニコーン』などの以降のファンタジー作品にも見られるもので、読者に架空の世界のリアリティを確信させるというよりもむしろ読者を作品の世界に没入させる効果がある。『ホビットの冒険』はシンプルな親しみやすい言葉で書かれている一方で、登場人物はそれぞれ固有の口調を持っている。語り手は途中でよく余談で話の流れを中断させるが(これは子供向け小説でも古英語の文学でもよく使われる技法である)、固有の語り口を持ち、主要登場人物の口調とは区別されている。 物語の基本的な構造は探求で、各章で何かしらの探求の話が語られる。多くの章では「荒地のくに("Wilderland")」に住む生き物が登場し、主人公一行の助けになったり、時には敵になったり危険をもたらしたりする。全体のトーンは明るく、歌やユーモアが散りばめられている。トーンを維持するために歌が利用されている例は、トーリンとその従者たちがゴブリンに誘拐されたときの場面(第4章)で、ゴブリンたちは地下を行進しながら次のように歌う。 原文(1995年第5版) Clap! Snap! the black crack!Grip, grab! Pinch, nab!And down down to Goblin-town You go, my lad! 日本語訳1(瀬田貞二訳) バタン、ドシン、黒い穴とじろ!ギュウギュウねじれ、つかまえろ!地下へどしどし、おりていけえ! ゴブリン町へ つれていけえ! 日本語訳2(山本史郎訳) パチーン、ポリーン、パリーン!つかんで、つねれ! グイッ、グリッ!下って下ってゴブリン街(まち)へ 走らねえかい、野郎ども このオノマトペ(擬声語)を多用した歌により、ゴブリンに連れ去られる危険な場面がユーモアで和らげられている。他の場面では、トロルの訛り(コックニー)や間抜けな言動、ビルボ一行を捕らえたエルフたちの酔っぱらった様子などによって、トールキンはユーモアと危険のバランスをとっている。異国の地での旅を軽い調子で、歌を挿入しながら語るという形式は、トールキンが強い影響を受けたウィリアム・モリスの『アイスランドへの旅』に由来するものと考えられる。
※この「文体」の解説は、「ホビットの冒険」の解説の一部です。
「文体」を含む「ホビットの冒険」の記事については、「ホビットの冒険」の概要を参照ください。
「文体」の例文・使い方・用例・文例
- 簡潔な文体なので私はその作家が好きだ
- 簡潔な文体
- 文体の格調高さ
- 荘重な文体で書く
- 彼女の文体はどちらかといえばぎこちない
- 個性的な文体
- 美しく飾った言い回し,美文体
- その若い作家は明らかにヘミングウェイの文体を手本にして自分の文体を作りあげたようだ
- 彼は非常に独特の文体を持つ
- 気取った文体
- その作家はかなり文体が洗練されてきた
- 彼女の文体はぎこちない
- 形式的な文体で書きなさい
- 彼の初期作品は独自の文体に欠けていた
- その文体はうまく訳せない
- その作家は独特の文体を持っている
- 私は作者の文体の華麗さが好きだ。
- 動詞helpはto不定詞・原形不定詞の両方をとりますが、くだけた文体では原形不定詞が多いとされており、この例文でもそれが使われています。
- 文体が作家に持つ関係は、色彩が画家に対するのと同じである。
- 君のエッセイは文体に関してはすばらしい。
- >> 「文体」を含む用語の索引
- 文体のページへのリンク