誤謬
誤謬(ごびゅう)とは、論理的な誤りや間違いを指す言葉である。一般的には、推論や議論の過程で生じる論理的な矛盾や非合理性を指す。誤謬は、事実とは異なる結論を導く可能性があるため、正確な情報伝達や理解を妨げる要素となる。 誤謬には様々な種類が存在し、それぞれ特定の論理的な間違いを表す。例えば、「人身攻撃の誤謬」は議論の相手を攻撃することで、その人の主張を否定しようとする誤謬である。また、「二分法の誤謬」は、二つの選択肢しか存在しないと誤って仮定する誤謬である。 誤謬は、日常生活やメディア、政治的な議論など、様々な場面で見られる。誤謬を理解し、それを避けることで、より正確で合理的な議論が可能となる。
ご‐びゅう〔‐ビウ〕【誤×謬】
誤謬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/06 07:25 UTC 版)
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誤報と偽情報 |
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論理学における誤謬(ごびゅう、英: fallacy[注 1])とは、誤った推論のことである。平易には「論理の飛躍」などと表現される。誤謬には「形式的」なものと「非形式的」なものがある。論理学やその周辺分野では、結論の正否を問わず「誤謬」という。意図的な誤謬は「詭弁」という。
概説
アリストテレスのころから、非形式的誤謬はその間違いの根源がどこにあるかによっていくつかに分類されてきた。「関連性の誤謬」、「推論に関する誤謬」、「曖昧さによる誤謬」などがある。同様の誤謬の分類は議論学によってももたらされている[2]。議論学では、論証(論争)は合意を形成するための個人間の対話プロトコルとみなされる。このプロトコルには守るべきルールがあり、それを破ったときに誤謬が生まれる。以下に挙げる誤謬の多くは、このような意味で理解可能である。[要出典]
個々の論証における誤謬を認識することは難しい。というのも、修辞技法的パターンによって表明間の論理的つながりが分かりにくくなっていることが多いためである。誤謬は、対話者の感情や知性や心理的弱さにつけこむ。論理的誤謬をよく知ることで、そのような状況に陥る可能性が減るのである。誤謬は相手に影響を与えたり信念を変えさせたりすることを目的としてコミュニケーションの技法として利用されることが多い(詭弁)。マスメディアに見られる例は、プロパガンダ、広告、政治、ニュース番組での意見表明などがあるが、それだけに限定されるものではない。[要出典]
人間が誤謬に陥るのは、それ一面もっともらしさを持っていることによってのみで、ウソでも、デマでもそれがデマであり、ウソであることを知っていて信ずる者はいない[3]。
形式的誤謬
論理学において、「形式的誤謬」 (formal fallacy) あるいは「論理的誤謬」 (logical fallacy) とは、推論パターンが常にまたはほとんどの場合に間違っているものをいう。これは論証の構造そのものに瑕疵があるために、論証全体として妥当性がなくなることを意味する。一方、非形式的誤謬は形式的には妥当だが、前提が偽であるために全体として偽となるものをいう。[要出典]
誤謬という用語は、問題が形式にあるか否かに拘らず、問題のある論証全般を意味することが多い。[要出典]
演繹的主張に形式的誤謬があっても、その前提や結論が間違っているとは言えない。どちらも真であったとしても、結論と前提の論理的関係に問題があるため、論証全体としては誤謬とされる。演繹的でない主張であっても形式的誤謬が内在することはありうる。例えば、帰納的主張に確率や因果の原理を間違って適用することも形式的誤謬に数えられる。[要出典]
形式的誤謬の例
- 連言錯誤
- 形式的には2つの事象AとBについて、不等式をこの節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年11月)→「認知バイアス」も参照
非形式論理学において、「非形式的誤謬」 (informal fallacy) とは、論証における推論に何らかの間違いのある論証パターンを指す。形式的誤謬のように数理論理学的に論理式で表せる誤謬ではなく、自然言語による妥当に見える推論に非形式的誤謬は存在する。演繹における非形式的誤謬は妥当な形式でも言外の前提によって発生する。つまり、演繹における非形式的誤謬は一見して妥当に見え、その主張自体は健全に見えるが、隠された前提に間違いがある。[要出典]
帰納的非形式的誤謬は全く違ったアプローチが必要であり、論証に含まれる推計統計学的な部分が問題となる。例えば、「早まった一般化」の誤謬は以下のように表される。[要出典]
- s は P であり、かつ s は Q である。
- 従って、全ての P は Q である。
これにさらに前提を追加すると次のようになる。
- 任意の X と 任意の Φ について、X が P でありかつ X が Φ なら、全ての P は Φ である。
このようにするとこの主張は演繹的となり、これが誤謬なら、追加された前提は偽である。このような手法は帰納と演繹の違いを無くす傾向がある。推論の原則(演繹的か帰納的か)と論証の前提を区別することは重要である。[要出典]
非形式的誤謬の例
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年5月)- 公正世界誤謬
- 全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。「我欲に天罰が下った」「ハンセン病に罹患するのは宿業を負ったものが輪廻転生したからだ」「カーストが低いのは前世でカルマが悪かったからだ」など、加害者や天災に原因を求めるよりも被害者や犠牲者の「罪」を非難する。
- 早まった一般化
- 十分な論拠がない状態で演繹的な一般化を行うこと。「1, 2, 3, 4, 5, 6はいずれも120の約数だ。よってすべての整数は120の約数である」。
- 誤った二分法
- 選択肢をいくつか提示し、それ以外に選択肢がないという前提で議論を進めること。例えば、多重債務者の「このまま借金取りに悩まされる人生を送るか、自殺するか、二つに一つだ」という思考。すなわち、自己破産という選択肢を除外している。
- 間違った類推
- 重大な相違を無視して事象の類似性に基づいて論証(類推)すること。「酒とコーヒーは似たような嗜好品だ。飲酒は法律で規制されている。よってコーヒーを飲むのは法律で規制されているはずだ」。
- 例外の撲滅(en)
- 例外を無視した一般化を元に論旨を展開すること。「ナイフで人に傷をつけるのは犯罪だ。外科医はナイフで人に傷をつける。従って、外科医は犯罪者だ」。
- 偏りのある標本
- 母集団から見て偏った例(標本)だけから結論を導くこと。「(日本在住の人が)周囲には黄色人種しかいない。よって世界には黄色人種しかいない」。
- 相関と因果関係の混同 (擬似相関)
- 相関があるものを短絡的に因果関係があるものとして扱う。「撲滅された病気の数とテレビの普及には相関がある。よってテレビが普及すれば病気が撲滅される」
- 両者は時間の経過により独立に進んだだけだが、数値上は両者に相関ができてしまうので、因果関係があるかのような勘違いをしてしまった。
- 前後即因果の誤謬 (羅:post hoc ergo propter hoc)
- A が起きてから B が起きたという事実を捉えて、A が B の原因であると早合点すること。呪術と病気の治癒は因果関係ではなく前後関係である。
- 滑り坂論法(en)
- 「風が吹けば桶屋が儲かる」的な論法で、何らかの事物の危険性を主張すること。ドミノ理論。必ずしも誤謬とは限らない。「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺は誤謬といってもよいが、「第一次世界大戦でロシア軍が劣勢になるとコーカサスバイソンが絶滅する」という一連の事象はそれぞれ実際に起こった事態であり、(ロシア皇室は絶滅の危機にあったコーカサスバイソンを保護していたために)因果関係があった可能性がある。しかし、ロシア皇室がコーカサスバイソンを保護した時点で保護を必要とするほどに絶滅傾向にあったためこれも確実とは言い切ることはできない(複雑で迂遠な因果で結ばれた遠くはなれた二点の事象自体はバタフライ効果と言ってその存在が指摘される)。
- 因果関係の逆転
- 因果関係を逆転させて主張する。例えば「車椅子は危険である。なぜなら、車椅子に乗っている人は事故に遭ったことがあるから」。「バスケットボールの選手は身長が高い。よってバスケットボールをすると背が伸びる」(バスケットボールをしたから背が伸びたとは限らない。もともと背の高い人を選手として採用している可能性もある)。
- テキサスの狙撃兵の誤謬
- 本来相関のないものを相関があるとして扱う。クラスター錯覚ともいう。
- その名前は、上官が狙撃兵に腕前を問うたところ、遠くにある壁の標的の真中に命中しているのを指し示したため腕前に感心したが、実は壁の銃痕にあとから標的を描いただけだった、というテキサスのジョークに由来する。
- 論点先取
- 結論を前提の一部として明示的または暗黙のうちに使った論証。形式的には間違っていないが、結論が前提の一部となっているため、全体として真であるとは言えない。「彼は正直者なんだから、ウソを言うわけないじゃないか」。
- 曖昧語法 (amphibology)
- 文法的に曖昧な文形で主張をすること。「十代の若者に自動車を運転させるべきではない。それを許すのは非常に危険だ」という文章では、若者が危険な目にあうと言っているのか、若者が他者を危険にさらすと言っているのか曖昧である。
- 多義語の誤謬 (equivocation)
- 複数の意味をもつ語を使って三段論法を組み立てること。例えば、「車(自動車)の運転には免許が必要だ。自転車は車(車両)である。したがって自転車の運転には免許が必要だ」。(媒概念曖昧の虚偽も参照)
- 連続性の虚偽
- 術語の曖昧性により常識的な認識とのズレが生じる誤謬。「砂山のパラドックス」、「テセウスの船」とも。「砂山から砂粒を一つ取り出しても、砂山のままである。さらにもう一粒取り出しても砂山である。したがって砂山からいくら砂粒を取り出しても砂山は砂山である」。
- 多重質問の誤謬
- 質問の前提に証明されていない事柄が含まれており、「はい」と答えても「いいえ」と答えてもその前提を認めたことになるという質問形式。「君はまだ天動説を信じてるのかね?」という質問は、「はい」でも「いいえ」でも「過去に天動説を信じていた」という暗黙の前提を認めたことになる。
誤謬と合理性
この記事の内容の信頼性について検証が求められています。私たちはそれが全くのデタラメであると知って信じることはない。誤謬がその一面においてもっともらしさ、合理性を持っているということを認めるならば、我々が誤謬を克服するには「誤謬はバカげたもの」「ついうっかりから間違えた」「知識の不足」等によって生じたものに過ぎないという常識的な見方を変えなくてはならない[5]。誤謬がもっともらしい、合理的だと考えられるのはそれが確認されている真理(事実)に基づいており、それを支える事実があると思われるからである。すなわち我々が誤謬に陥いったときにも、初めは真理と事実の上に立っていたのである[3]。真理と事実から出発しても誤謬に陥るのは、真理というものは常に条件的にのみ真理であるということを忘れるからである[注 2]。
我々が誤謬に陥らないためには、ある事実、真理から出発するときにその条件に十分注意して推論することが大事である。ではそのような注意をすれば我々は一切の誤謬を無くすことができるかといえばそれは否である[7]。微視的領域では古典力学が成立しないという認識は、古典力学をそこに適用して失敗することで初めて明らかになったことである。我々が自然を認識しようとするときには誤謬はつきものであり、本質的なものである。それは対象が無限に多様であることに対して、我々の認識そのものは限界があることによる[8]。
誤謬を恐れずに自然に働きかけ、誤謬から学ぶことが認識を深める唯一の基礎である。また我々が決して克服できない誤謬もある。それは自然そのものの中に矛盾を持っている場合である[注 3]。そのためこのような誤謬の克服には弁証法を必要とする[9]。
→「矛盾」も参照関連項目
- エビデンス
- パラドックス
- 誤り (法律)
- 詭弁
- 権威
- 人身攻撃 (羅:ad hominem)
- 権威に訴える論証 (argument from authority)
- 事例証拠 (anecdotal evidence)
- 陽否陰述 (apophasis)
- 認知バイアス(cognitive bias)
- 限定合理性(bounded rationality)
- 批判的思考 (critical thinking)
- 非形式論理学 (informal logic)
- 探究 (logical argument)
- 健全性 (soundness)
- 擬似相関 (spurious correlation)
- 妥当性 (validity)
- 伝統に訴える論証 (appeal to tradition)
- 論点先取 (begging the question)
- 錯誤
- 誤用
- 合成の誤謬(fallacy of composition)
- 分割の誤謬(fallacy of division)
- カチッサー効果
- 認知の歪み
- マーヤー
脚注
注釈
- ^ 荒木 (1922) は、「Fallacyの訳語は色々ある、似而非推論、誤謬、謬論、過誤論、論過、謬見、不正論、謬見、相似、虚偽等であってまちまちである、適当な訳語に苦んでいるように思われる、著者は「曲論」と訳した。」と述べる[1]。この他に、心理学用語等では「錯誤」とも訳されるが、この二字はerrorの訳語にも当てられるので紛らわしく、その点は「誤謬」や単に「誤り」とする訳し方も同じ問題がある。最も早く且つ最も普及した訳語は「虚偽」であり、井上哲次郎編『哲学字彙』(1881年)34ページに掲げられ、以来、文部省『学術用語集 論理学編』(大日本図書、1965年)で「虚偽」に統一され、『哲学事典』(平凡社、1971年)に「虚偽」で、『岩波 哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)には「虚偽論」で立項されている。
- ^ たとえばパスツールは生物の自然発生説を打ち破ったが、これから「いついかなるときでも無生物から生物は発生しない」とするならばそれは誤りである。地球上のある時期には無生物から生物が発生したからである。またニュートン力学は真理であるといっても、それは量子力学や相対性理論の領域まで真理であるのではない。これらの理論はその適用範囲を超えて用いられるならたちまち誤謬となる[6]。
- ^ たとえば光は波と粒子の性質を持つとされるが、光は波動であるとすればそれは誤りであり、粒子であるとしても誤りである。両者を折衷しても問題は解決しない[9]。
出典
関連文献
- Aristotle, "On Sophistical Refutations", De Sophistici Elenchi.
- William of Ockham, Summa of Logic (ca. 1323) Part III.4.
- John Buridan, Summulae de dialectica Book VII.
- Francis Bacon, "the doctrine of the idols" in Novum Organum Scientiarum, Aphorisms concerning The Interpretation of Nature and the Kingdom of Man, XXIIIff.
- The Art of Controversy | Die Kunst, Recht zu behalten - The Art Of Controversy (bilingual), by Arthur Schopenhauer (also known as "Schopenhauers 38 stratagems")
- John Stuart Mill, A System of Logic - Raciocinative and Inductive. Book 5, Chapter 7, Fallacies of Confusion.
- C. L. Hamblin, Fallacies. Methuen London, 1970年.
- Fearnside, W. Ward and William B. Holther, Fallacy: The Counterfeit of Argument, 1959.
- Vincent F. Hendricks, Thought 2 Talk: A Crash Course in Reflection and Expression, New York: Automatic Press / VIP, 2005, ISBN 87-991013-7-8
- D. H. Fischer, Historians' Fallacies: Toward a Logic of Historical Thought, Harper Torchbooks, 1970.
- Douglas N. Walton, Informal logic: A handbook for critical argumentation. Cambridge University Press, 1989年.
- F. H. van Eemeren and R. Grootendorst, Argumentation, Communication and Fallacies: A Pragma-Dialectical Perspective, Lawrence Erlbaum and Associates, 1992年.
- Warburton Nigel, Thinking from A to Z, Routledge 1998年.
- T. Edward Damer. Attacking Faulty Reasoning, 5th Edition, Wadsworth, 2005. ISBN 0-534-60516-8
- Carl Sagan, "The Demon-Haunted World: Science As a Candle in the Dark". Ballantine Books, March 1997 ISBN 0-345-40946-9, 480 pgs. 1996 hardback edition: Random House, ISBN 0-394-53512-X, xv+457 pages plus addenda insert (some printings). Ch.12.
- 外薗幸一「論理学的観点からみた誤謬の事例」『鹿児島経大論集』第40巻第1号、1999年4月20日、93-123頁。 NAID 110004672704
- 「論理学に関する無理解のサンプルについて68の指摘」三浦俊彦(2006-8-20)[1][2]
- 「絵で見てわかる 誤謬の事典」アリ・アルモサウィ [3]
- 板倉聖宣「誤謬論」『科学と方法』、季節社、1969年、64-73頁。(初出:東大自然弁証法研究会『科学と方法』、1953年11月)
- 麻柄啓一「「連言錯誤」はなぜ生じるのか」『千葉大学教育学部研究紀要. I教育科学編』第46巻、千葉大学教育学部、1998年2月28日、19-26頁、ISSN 1342-7407、NAID 110004715536、2024年3月6日閲覧。
誤謬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:59 UTC 版)
お前だって論法は、次のようなパターンをとる。 人物Aが、Xを主張する。 人物Bが、Aの行動や過去の主張などは、主張Xに沿ったものではない、と主張する。 したがって、主張Xは誤りである。 このような例として次のようなやりとりが考えられる。 ピーター:ビルは税金を騙し取っている。 ビル:お前だって未払いの駐車料金が20件もあるくせに、よくもそんなことが言えたもんだ。 相手の道徳上の性格や、行動は、一般的に議論の論理性とは無関係であり、これは誤謬である。この手法は、燻製ニシンの虚偽を用いた戦術でしばしば用いられる、人身攻撃論法のひとつであり、そこではなんらかの主張なり議論が、それを唱えたり、支持したりする者に関する事実によって拒まれることになる。
※この「誤謬」の解説は、「お前だって論法」の解説の一部です。
「誤謬」を含む「お前だって論法」の記事については、「お前だって論法」の概要を参照ください。
誤謬
出典:『Wiktionary』 (2021/06/15 14:18 UTC 版)
名詞
発音(?)
- ご↗びゅー
翻訳
- アイスランド語: rökvilla
- アラビア語: سفسطة
- インドネシア語: kesesatan
- ウクライナ語: логічна хиба
- 英語: fallacy
- オランダ語: drogreden
- カタルーニャ語: fal·làcia
- ギリシア語: λογική πλάνη
- スウェーデン語: argumentationsfel
- スペイン語: falacia
- スロヴァキア語: logický klam
- セルビア語: логичка грешка
- チェコ語: logický klam
- 中国語: (繁): 謬論/ (簡): 谬论
- 朝鮮語: 오류
- ドイツ語: Fehlschluss
- トルコ語: safsata
- ノルウェー語: tankefeil
- ハンガリー語: érvelési hiba
- ヒンディー語: मिथ्या तर्क
- フィンランド語: argumentointivirhe
- フランス語: sophisme
- ヘブライ語: כשל לוגי
- ポーランド語: sofizmat
- ポルトガル語: falácia
- リトアニア語: argumentacijos klaida
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