源為憲とは? わかりやすく解説

みなもと‐の‐ためのり【源為憲】

読み方:みなもとのためのり

[?〜1011平安中期学者文人源順(みなもとのしたごう)に師事漢詩よくした。著「三宝絵詞」「口遊(くちずさみ)」「世俗諺文」。


源為憲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/11 23:45 UTC 版)

 
源為憲
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 寛弘8年(1011年)8月
別名 字:源澄
官位 正五位下伊賀守
主君 一条天皇三条天皇
氏族 光孝源氏
父母 父:源忠幹
兄弟 為親、為憲、為正
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源 為憲(みなもと の ためのり)は、平安時代中期の貴族・文人。光孝源氏美濃権守源是恒の曾孫。筑前守・源忠幹の子。官位正五位下伊賀守

経歴

文章生から、内記蔵人式部丞を経て、巡爵により従五位下に叙せられる。のち、花山朝三河権守一条朝遠江守美濃守伊賀守と地方官を歴任した。遠江守在任中に国内の作田を1200余町から3500余町にしたといい[1]、『北山抄』『吏途指南』に遠江守在任時の功過定のことがみえる。

長保元年(999年)12月に美濃国で発生した藤原宗忠による橘惟頼・平頼親等の殺害事件に関して、国守の為憲も罪を問われる[2]。為憲は職務の停止を命ぜられ[3]、明法による解官の勘申も行われるが[4]、翌長保2年(1000年)2月には以下理由により赦されている[5]

  • 宗忠が斬刑を減じて流刑になったため、為憲も解官を減じるべき。
  • 美濃国の百姓らが、為憲によって国内が興復していることから解任すべきでない由を申している。
  • 長保元年(999年)に焼亡した内裏の再建にあたって、承香殿と北壇の造営を美濃国が担当していたが、期限が決まっているところに、担当の国替を行うと、遅延が発生する懸念がある。

なお、長保2年(1000年)9月に承香殿の築垣の上に小児の死体が置かれ、7日間の穢れとなる事件が発生。内裏の造営に携わっていた国司の為憲が遷宮を遅らせるために行った、との噂が立ったという[6]

人物

源順に師事し、文章・漢詩和歌に秀で、『本朝文粋』に受領申文を載せ[1]、『本朝麗藻』『類聚句題抄』などに漢詩作品を、『拾遺和歌集』(1首)に和歌作品を残している。そのほか『口遊』『世俗諺文』などの教養書も撰している。また仏教にも造詣が深く、『三宝絵詞』『空也(くうやるい)』などを撰している。

官歴

脚注

  1. ^ a b c d e f 『本朝文粋』第6「請被殊蒙天恩依遠江国所済功幷成業労任美濃加賀等国守欠状」
  2. ^ 『権記』長保元年12月13日条
  3. ^ 『権記』長保元年12月14日条
  4. ^ 『権記』長保元年12月25日条
  5. ^ 『権記』長保2年2月22日条
  6. ^ 『日本紀略』長保2年9月21日条
  7. ^ a b 『尊卑分脈』
  8. ^ 『三宝絵詞序』
  9. ^ a b c d e 『権記』
  10. ^ 『勅撰作者部類』

出典




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