平安中期とは? わかりやすく解説

平安中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:51 UTC 版)

法住寺 (京都市)」の記事における「平安中期」の解説

永延2年988年)、太政大臣藤原為光法住寺落慶法要をいとなんだことが『日本紀略』『扶桑略記』などにみえる寺域釈迦堂には本尊金色丈六釈迦如来薬師如来観音菩薩延命菩薩如意輪観音法華三昧堂には普賢菩薩常行三昧堂には阿弥陀世尊安置され円融天皇迎えて豪華な法要がいとなまれた。為光は寛和元年985年6月に妻を、次いで7月には花山天皇女御であった藤原忯子失っており(忯子が亡くなったことで寛和の変起きた)、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。為光は現世栄達捨て、ここで念仏三昧の生活をおくった正暦3年992年)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。為光死後しばらくの間法住寺子孫によって護られていたが、長元5年1032年)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼失このあと120年間、大規模な再建などの記録見られない

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平安中期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 02:01 UTC 版)

平安時代」の記事における「平安中期」の解説

時平死後、弟の藤原忠平太政官首班となった。忠平は律令回帰路線否定的であり、土地課税路線推進していった。忠平執政期ごろに、有力百姓層(富豪層)へ土地経営納税請け負わせる名体制もしくは負名体制開始しており、この時期律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制移行する転換期考えられている。 忠平期を摂関政治成立期とするのが通説である。それ以前藤原良房の時から藤原北家摂政関白に就いて執政してきたが、発展段階摂関政治であったとして初期摂関政治区別されている。忠平以降朝政中心としての摂関官職として確立し、忠平の子孫のみが摂関就任するという摂関政治枠組み確定した。ただし、摂関政治においても摂関全ての決定権握っていたのではなく議政官衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。 桓武天皇軍団制廃止した結果として朝廷治安維持機能なくなったため、地方治安悪化し日本列島無政府状態陥った。特に、9世紀ごろから関東地方中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為横行し始めていた(貞観俘囚反乱寛平・延喜東国の乱僦馬の党)。群盗活動9世紀通じて活発化していき、富豪層自衛のために武装し武士となった富豪層は、東国などに土着した中級下級貴族層を取り込み従前軍団制代わる軍事組織として武士団結成した朝廷やむを得ず武士団地方治安維持を担わせる方針をとった。その後9世紀末から10世紀初頭寛平延喜期に、この時期勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪受領確執調停者として地方勢力扶植していったが、彼ら同士対立受領対す不平叛乱発展したのが、忠平執政期の天慶3年940年前後発生した承平天慶の乱である。朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初武士達を倒して同乱の鎮圧勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当な武芸家系認識された。 忠平の死後10世紀中葉村上天皇親政行った。これを天暦の治といい、延喜の治並んで聖代視された。 10世紀中葉から後期にかけて、ある官職に伴う権限義務特定の家系請け負わせる官司請負制中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族官人の家組織の中では、子弟外部から能力見込んだ弟子対し幼少期から家業たる専門業務英才教育ほどこし家業を担う人材育成した先述武士の登場も、武芸家系軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。 朝廷財政は、地方からの収入頼っていたが、特に地方政治においては国司大幅な行政権委任する代わりに一定上の租税進納義務づける政治形態進んだ。このとき、行政権委任されたのは現地赴任した国司筆頭者であり、受領呼ばれた受領は、大きな権限背景として富豪層からの徴税によって巨富蓄え、また恣意的な地方政治展開したとされ、その現れ10世紀後期から11世紀中期頻発した国司苛政上訴だったと考えられてきたが、一方で受領解由制や受領功過定など監査制度制約受けていた。いずれにせよ受領名田請負契約などを通じて富豪層育成する存在であるとともに富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあり、また富豪層受領との名田請負契約基づいて巨富を築くと同時に中央官界とも直接結びついて受領牽制するなど、受領統制超えて権益拡大を図る存在でもあった。 また、荘園拡大し始めたのもこの時期である。10世紀前期従来租税収取体系変質したことに伴い権門層(有力貴族寺社)は各地私領私営田)を形成したこのように荘園次第発達していった。権門層は、荘園国衙収公されないよう太政官民部省国衙免許獲得し前者官省符荘といい後者国免荘という。こうした動き対し10世紀後期登場した花山天皇権門抑制目的として荘園整理令などの諸政策を発布したこの花山新制はかなり大規模な改革志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇退位追い込まれた。とはいえその後の摂関政治権門優遇策をとった訳ではない摂関政治最大栄華誇った藤原道長施策にはむしろ抑制的な面も見られる摂関政治最大課題は、負名体制受領行政との矛盾、そして権門荘園整理にどう取り組むかという点にあった藤原道長全盛期時代は、道長日記御堂関白記」、道長側近である藤原行成日記権記」、道長迎合せず有職故実律令則って行動した藤原実資日記小右記」、女官書き残した栄花物語」と多方面から見た資料揃っており、これらの資料から道長全盛期においても、結政外記政陣定といった基本的なルール則って政治運営が行われていたことが分かっている。 摂関政治による諸課題への取り組み成果見られ始めたのが、11世紀前期から中期にかけての時期である。この期間、国内税率一律固定化する公田官物率法導入されたり、小規模な名田並行して広く領域的な別名が公認されるようになったり、大規模事業財源として一国単位一律に課税する一国平均役成立するなど、社会構造変革を及ぼすような政策がとられた。このため10世紀前期始まった王朝国家体制はより中世的な形態移行し11世紀中期画期として以前前期王朝国家以後後期王朝国家区分する11世紀前期には、女真族北部九州来襲する事変発生した寛仁3年1019年)、刀伊の入寇)。

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