平安中期の北の国境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 15:09 UTC 版)
「高岳山 (秋田県)」の記事における「平安中期の北の国境」の解説
平安中期の歌人であり学者である源順が承久年間(931年-938年)に編纂した『和名類聚抄』という辞書がある。この辞書は、当時のあらゆる事や物の名前と読み、意味がおさめられていて、見方によっては百科事典とも言える。この本には10世紀半ばの国名・郡名・郷名の全てがおさめられていて、出羽の国の最も北が率浦郷(ひきうらごう)であった。率浦は「率土の果て」という意味で、ここが律令国家の北の果てであった。 五城目町の森山、高岳山、三倉鼻が国の境で、これより北には国・郡・郷は無かった。この地より先は蝦夷と呼ばれた人たちの土地となっていた。
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