平安京から衣笠村まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:22 UTC 版)
「大将軍 (京都市)」の記事における「平安京から衣笠村まで」の解説
大将軍地区は花園遺跡や北野遺跡、また広隆寺の創建当時の所在地と推定される北野廃寺跡などの古代遺跡に近く、飛鳥時代以降の集落の存在が知られている。平安時代には平安京の右京の北辺に位置し、宇多上皇の御所「宇多院」がこの地に置かれたとされているが詳らかではない。また大将軍坂田町・同東鷹司町からは当時の遺跡が発掘されており、寝殿造の原型と考えられる建物の遺構が確認された。しかし平安時代後期の右京の荒廃にともなってこの地も次第に農村化していく。豊臣秀吉が御土居を構築した際には、この地は御土居の外側として市街地からは除外され、近世(江戸時代)には山城国葛野郡大将軍村として幕府直轄領となった。明治期に入って1889年に町村制が施行されると、大将軍村は(葛野郡)衣笠村として統合され、大字「大将軍」となった。
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