明治
明治期(1868〜1911)
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「学生野球」の記事における「明治期(1868〜1911)」の解説
1872年 第一大学区第一番中学(後の旧制一高)でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソンが学生たちに教えたのが日本における野球の始まり。 1883年 青山学院の野球部が創部 1885年 明治学院の野球部が創部 1888年 慶應大の野球部が創部 1889年 学習院、同志社大の野球部が創部 1890年 安積高校の野球部が創部(※当時旧制中学) 1894年 秋田高校の野球部が創部(※当時旧制中学。年代には諸説あり。) 1895年 関西高校の野球部が創部(※当時旧制中学) 1898年 京都帝大の野球部が創部 1899年 関西学院の野球部が創部 1901年 早稲田大の野球部が創部 1903年 第1回早慶戦開始。 1903年 神戸大の野球部創部 1906年 早慶戦が中止。一高三高定期戦が開始。 1906年 大阪大の野球部が創部 1909年 立教大の野球部が創部 1910年 明治大、東京農大の野球部が創部
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明治期(開設以前)
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「市立小樽図書館」の記事における「明治期(開設以前)」の解説
小樽では、北海道区制や市制施行の以前の1888年(明治21年)8月 に、教育者、父兄、教育に関心を持つ人々により、小樽教育会(1919年〈大正7年〉より財団法人)が創立された。同会により明治20年代後半には、図書館開設について協議が行われていた。1895年(明治28年)には小樽外六郡長の金田吉郎(後の東京府多摩郡長)が図書館設立の希望を抱いていたが、実現しなかった。小樽教育会では、図書館建築の全経費を有志の寄付金に頼り、落成後は小樽区に寄付し、区費をもって維持することを計画していたが、区費の膨張から区による維持は困難として、計画は進捗しなかったのである。 小樽港内の修築問題が重視されていたことも、図書館計画を妨げる一因であった。北海道区制施行により小樽区となった1899年(明治32年)には、図書館は「不急」の話として一蹴され、その後もなかなか設置には至らなかった。1902年(明治35年)9月28日の小樽新聞には、経済性を重視し読書を軽視する世の風潮を嘆く記事が掲載された。 1907年(明治40年)10月には、函館から小樽へ移住していた石川啄木が、当時の小樽区長に図書館設置の抱負を取材した。しかし住民たちからの寄付が思うように集まらず、図書館建設は計画のまま、年月が流れて行った。 1912年(明治45年)1月、小樽教育会第12回総会において渡辺兵四郎が会長に再任され、その挨拶の席上で図書館設置の希望を述べ、設立に向けて設計や寄附金などの具体的な協議を推し進めた。これを受けて、2月には図書館設立委員会が設けられた。渡辺は同1912年3月に小樽区長に就任すると、6月には小樽教育会長名で花園公園(小樽公園)内の敷地の無償使用を出願し、許可を得た。図書館設立計画は一気に推進されたかに見えたが、依然として住民からの寄付金が集まらず、またも計画は頓挫した。
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「明治期」の例文・使い方・用例・文例
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