庄内藩
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庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩。譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。
注釈
出典
- ^ 大山柏『戊辰役戦史』に「(不甲斐ない官軍に比べて)庄内兵は良く戦った。兵力の大部分が訓練の未熟な町農兵で装備も不十分なのに優勢な官軍に対して国境線を守り通した」とある。
- ^ a b 宮本常一『古川古松軒/イザベラ・バード (旅人たちの歴史 3)』未来社、1984年、9-37頁。
- ^ 【わがマチ イチ押し・遊】荘内藩ハママシケ陣屋跡(石狩市)埋もれた史跡を復元『読売新聞』朝刊2020年12月25日(北海道版)
- ^ 渋谷光敏『庄内沿革誌』1894年.
- ^ 2011年2月7日『朝日新聞』朝刊10面
- ^ 「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『読売新聞』朝刊2017年5月17日文化面
- ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.412
- ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.191
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.191-192.
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.192
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.192-193.
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.193
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.193-194.
- ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.194
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.194-195.
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.195
- ^ レファレンス協同データベース:レファレンス事例詳細 2012年8月29日閲覧。
- ^ “根ほり葉ほり 日本文化広く発信したい”. 朝日新聞デジタル. (2016年9月5日) 2016年12月15日閲覧。
- ^ 斎藤 (1995)、p.24
- ^ 斎藤 (1995)、p.172
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.208-209.
- ^ a b 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.431
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.209
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.209-210.
- ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.210
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.210-211.
- ^ a b 斎藤 (1995)、p.274
- ^ a b 横山他 (1998)、p.140
- ^ a b 斎藤 (1995)、p.52
- ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.429
- ^ 『庄内の歩み2』、財団法人致道博物館公式HP 2012年8月21日閲覧。
- ^ a b c 『山形県史:近世編上』 (1985)、p.221
- ^ 本間 (2007)、pp.221-223.
- ^ 斎藤 (1995)、pp.12-13
- ^ a b c 金山 (2012)、p.40
- ^ 金山 (2012)、p.42
- ^ a b c d e f 金山 (2012)、p.45
- ^ 斎藤 (1995)、pp.37-38.
- ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.430
- ^ 日本史籍協会編『藩制一覧』1929年。
- ^ 宮武外骨『府藩県制史』名取書店、1941年、59頁 。
- ^ 『藤沢周平作品ゆかりの地案内板』 山形県鶴岡市観光連盟 2012年8月23日閲覧。
- ^ a b 『藤沢周平氏ゆかりの地』、山形県東京事務所首都圏情報 2012年8月23日閲覧。
庄内藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
庄内藩では、宝暦5年は旱魃や冷害、ウンカの発生など多くの災害が起きて大凶作となり、翌6年にかけて大飢饉となった。4月中旬から5月中旬まで日照りが続いて旱魃の被害があった一方で、土用には低温になって冷害となり、7月13日には大雨で水害となった。このため、「来迎寺年代記」には「大旱魃、大凶作と成」と記されている。 しかし、凶作にもかかわらず、財政難だった藩は年貢の差し引きを少なくして、厳しく徴収した。年貢の不足分には元利合わせて14割の利息米を課して翌年に取り立てたことで、藩内の村々は多大な未納米を抱えたが、それについても毎年1分1厘の利米が付けられた。この影響は後々まで尾を引き、平場の藤島村では約40年後の寛政5年(1793年)ごろまで8447俵の未納米が残り、村高2100余のうち潰れ百姓の高が1100石余にのぼった。 宝暦5年に山浜通永田木村の半兵衛は、自宅の屋敷の雪の下に隠していた籾13俵を、12月に役人に見付けられ、死罪のところを許されて妻子とともに他所追放となった。
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庄内藩
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庄内藩は江戸薩摩藩邸の焼討事件および柴橋事件により新政府から敵視され、奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援を得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家の金策でヘンリー・スネルより武器を密輸していたため、装備は東北諸藩のなかで最も充実していた。江戸時代中期の本間光丘による藩政改革以降、領民の藩主支持も強く、農兵2,031名、鶴岡商兵184名などが加わっていた。また、弘前藩士の本多庸一など他藩からの自主的加勢もあった。
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