庄内藩とは? わかりやすく解説

庄内藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/30 02:43 UTC 版)

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した譜代大名酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。


注釈

  1. ^ 「きちんとした生活」とは、「備中国(現:岡山県)出身の古川古松軒の視点から見て、上方西日本)の平民レベルの生活」という意味である[2]
  2. ^ 横山他 (1998)、p.140 では酒井忠解への大山領の分知を慶安2年(1649年)としている。

出典

  1. ^ 大山柏『戊辰役戦史』に「(不甲斐ない官軍に比べて)庄内兵は良く戦った。兵力の大部分が訓練の未熟な町農兵で装備も不十分なのに優勢な官軍に対して国境線を守り通した」とある。
  2. ^ a b 宮本常一『古川古松軒/イザベラ・バード (旅人たちの歴史 3)』未来社、1984年、9-37頁。 
  3. ^ 【わがマチ イチ押し・遊】荘内藩ハママシケ陣屋跡(石狩市)埋もれた史跡を復元『読売新聞』朝刊2020年12月25日(北海道版)
  4. ^ 渋谷光敏『庄内沿革誌』1894年.
  5. ^ 2011年2月7日『朝日新聞』朝刊10面
  6. ^ 「戊辰戦争中の会津、庄内両藩 蝦夷地所領 プロイセンに提示 資金か軍隊派遣と引き換えに」『読売新聞』朝刊2017年5月17日文化面
  7. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.412
  8. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.191
  9. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.191-192.
  10. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.192
  11. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.192-193.
  12. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.193
  13. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.193-194.
  14. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.194
  15. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.194-195.
  16. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.195
  17. ^ レファレンス協同データベース:レファレンス事例詳細 2012年8月29日閲覧。
  18. ^ “根ほり葉ほり 日本文化広く発信したい”. 朝日新聞デジタル. (2016年9月5日). http://www.asahi.com/area/yamagata/articles/MTW20160905060240001.html 2016年12月15日閲覧。 
  19. ^ 斎藤 (1995)、p.24
  20. ^ 斎藤 (1995)、p.172
  21. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.208-209.
  22. ^ a b 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.431
  23. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.209
  24. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.209-210.
  25. ^ a b 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、p.210
  26. ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』 (1986)、pp.210-211.
  27. ^ a b 斎藤 (1995)、p.274
  28. ^ a b 横山他 (1998)、p.140
  29. ^ a b 斎藤 (1995)、p.52
  30. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.429
  31. ^ 『庄内の歩み2』財団法人致道博物館公式HP 2012年8月21日閲覧。
  32. ^ a b c 『山形県史:近世編上』 (1985)、p.221
  33. ^ 本間 (2007)、pp.221-223.
  34. ^ 斎藤 (1995)、pp.12-13
  35. ^ a b c 金山 (2012)、p.40
  36. ^ 金山 (2012)、p.42
  37. ^ a b c d e f 金山 (2012)、p.45
  38. ^ 斎藤 (1995)、pp.37-38.
  39. ^ 『藩史大事典 第1巻』 (1988)、p.430
  40. ^ 日本史籍協会編『藩制一覧』1929年。
  41. ^ 宮武外骨『府藩県制史』名取書店、1941年、59頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1277286/1/40 
  42. ^ 『藤沢周平作品ゆかりの地案内板』 山形県鶴岡市観光連盟 2012年8月23日閲覧。
  43. ^ a b 『藤沢周平氏ゆかりの地』山形県東京事務所首都圏情報 2012年8月23日閲覧。


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宝暦の飢饉」の記事における「庄内藩」の解説

庄内藩では、宝暦5年旱魃冷害ウンカ発生など多く災害起きて大凶作となり、翌6年にかけて大飢饉となった4月中旬から5月中旬まで日照り続いて旱魃被害があった一方で土用には低温になって冷害となり、7月13日には大雨水害となったこのため、「来迎寺年代記」には「大旱魃、大凶作と成」と記されている。 しかし、凶作にもかかわらず財政難だった藩は年貢差し引き少なくして、厳しく徴収した年貢不足分には元利合わせて14割の利息米を課して翌年取り立てたことで、藩内の々は多大な未納米を抱えたが、それについても毎年1分1厘の利米付けられた。この影響後々まで尾を引き、平場藤島村では約40年後の寛政5年1793年)ごろまで8447俵の未納米が残り村高2100余のうち潰れ百姓高が1100石余にのぼった宝暦5年に山浜通永田木村半兵衛は、自宅屋敷雪の下隠していた籾13俵を、12月役人見付けられ死罪ところを許され妻子とともに他所追放となった

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「庄内藩」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。


庄内藩

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秋田戦争」の記事における「庄内藩」の解説

庄内藩は江戸薩摩藩邸の焼討事件および柴橋事件により新政府から敵視され奥羽鎮撫隊の討伐対象とされた。庄内軍は仙台軍の応援得て数的に優勢であったばかりでなく、御用商人本間家金策でヘンリー・スネルより武器密輸していたため、装備東北諸藩のなかで最も充実していた。江戸時代中期本間光丘による藩政改革以降領民藩主支持強く農兵2,031名、鶴岡商兵184名などが加わっていた。また、弘前藩士の本多庸一など他藩からの自主的加勢もあった。

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