庄内竿の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 14:24 UTC 版)
庄内竿は専ら藩士自身の手で作り出された。これは藩の奨励もあってのことだが、前述の秋保親友の記述にあるように「竿」は「刀」と同等に考えられていたからである。文化7年(1810年)の「野合日記」に「以前は三間の美竿を持つ者は少なかったが、今は多くの人が持つようになった」という意味の記述が見えることから、このころには藩士の間にも多様な長さの庄内竿が普及しており、18世紀後半にはほぼ現在のような形が出来上がっていたと推測されている。庄内竿を完成させたといわれる陶山運平(1809 - 1885)も、特に身分が高いわけではなく、いわゆる部屋住みの三男であった。 この後、庄内竿は上林義勝(陶山の弟子)や丹羽庄右衛門といった竿師によって隆盛を極めることになる。
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