庄内藩の磯釣り
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庄内地方では伝統的に磯釣りが楽しまれ、古くは宝永4年(1707年)に松山藩の藩主酒井忠予が温海地域で磯釣りをしたという記録が温海組大庄屋・本間八郎兵衛の覚え書きに残っている。それから9年後の享保元年(1716年)の庄内藩の藩士・豊原重軌の日記「流年録」には、「秋一日、安倍兄弟の誘いによりて加茂に釣に行く。かしこにては宅右衛門宅といえる者宅に一宿す。翌日も釣に出て夜になって帰る。」とあり、当時から一般の藩士の間でも釣りが行われていたようである。さらに享保3年(1718年)には庄内藩主酒井忠真自らが温海地域で釣りを行うまでになり、磯釣りは庄内藩の武士階級全てに普及した。 その後、享和2年(1802年)に庄内藩から出された覚書に「家中の面々が折節、鳥刺や釣りに行くが、希には遠方まで歩行することもある。これは武用の一助にもなることである」とあり、さらに文政10年(1827年)には、釣りを武門の嗜みとして奨励するとともに、藩士が磯釣りで海に落ちることを心配した酒井忠器の触れ書きも出されている。また、庄内藩の軍学師範であり藩校・致道館の講師でもあった秋保親友は自身の日記「野合日記」において、 「名竿は名刀より得難し、子孫はこれを粗末に取り扱うべからず」 「竿に上中下の三品あり、その品に名竿あり、美竿あり、曲竿あり」 と記し、竿を刀と同等に扱っていたことが伺える。 庄内藩では藩士の磯釣りを「釣道」として奨励し、磯釣りを「勝負」と称するほどであった。
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