庄内藩降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 01:04 UTC 版)
20日夜、西郷と黒田は白岩に宿泊して、翌21日に慈恩寺を通って、谷地に出て宿泊し、22日谷地を出て西部街道を経て、新庄方面に向かった。西郷、黒田たちと分かれた米沢藩を主力とした別隊は、海味(西川町海味)に参謀局(本部)を置き、23日米沢藩・薩摩藩の隊が志津(西川町志津)に進軍して庄内軍と対峙したが、戦闘はなかった。米沢藩が庄内藩に和睦を勧める使者を出した。 23日、庄内藩の使者が米沢藩の先導で海味に来て、参謀局に降伏謝罪の嘆願書謄本を提出した。25日に古口(最上郡戸沢村古口)の鎮撫軍の本営で参謀黒田清隆に面会し、降伏を申し出た。西郷隆盛・黒田清隆ら鎮撫軍は鶴岡城に入る。 一方、鎮撫軍の先鋒を命じられていた米沢藩主・上杉茂憲は、23日に後衛を志津に残して本隊を引き上げた。
※この「庄内藩降伏」の解説は、「長岡山の戦い」の解説の一部です。
「庄内藩降伏」を含む「長岡山の戦い」の記事については、「長岡山の戦い」の概要を参照ください。
- 庄内藩降伏のページへのリンク