庄内転封画策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 02:02 UTC 版)
斉典は川越から経済の内容が良い領地に転封することで、この債務を強引に整理することを画策し、大御所徳川家斉周辺に多額の工作資金を費やして国替えを働きかけた。家斉の二十五男の紀五郎(後の松平斉省)を養子として迎えたのも、その布石と言われている。はじめ斉典は老中首座の水野忠成に播磨姫路への転封を願ったが、工作の途中で忠成が急逝したため、その願いが果たせずにいた。次いで、家斉の御側御用取次の水野忠篤や紀五郎の生母お以登の方を通じて大奥にも画策し、商業が栄え肥沃な庄内平野を持つ庄内14万8000石への転封の幕命を出させることに成功した。庄内藩主酒井忠器は越後長岡藩へ、越後長岡藩主牧野忠雅は川越藩へ転封されることになった(三方領知替え)。 しかし、酒井家を慕う庄内農民が猛反発し、反対強訴で転封が滞るうちに家斉、斉省が相次いで死去したため、幕命撤回という前代未聞の結末となり、転封は中止された。
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