老中首座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 06:38 UTC 版)
「松平信明 (三河吉田藩主)」の記事における「老中首座」の解説
寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、寛政の遺老と呼ばれた。幕政主導の間は定信の改革方針を基本的に受け継ぎ、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処した。寛政11年(1799年)に東蝦夷地を松前藩から仮上知し、蝦夷地御用掛を置いて蝦夷地の開発を進めたが、財政負担が大きく享和2年(1802年)に非開発の方針に転換し、蝦夷地奉行(後の箱館奉行)を設置した。しかし信明は自らの老中権力を強化しようとしたため、将軍の家斉やその実父の徳川治済と軋轢が生じ、享和3年(1803年)12月22日に病気を理由に老中を辞職した。 信明辞職後、後任の老中首座には戸田氏教がなったが、文化3年(1806年)4月26日に死去したため、新たな老中首座には老中次席の牧野忠精がなった。しかし牧野や土井利厚、青山忠裕らは対外政策の経験が乏しく、戸田が首座の時に発生したニコライ・レザノフ来航における対外問題と緊張からこの難局を乗り切れるか疑問視され、文化3年(1806年)5月25日に信明は家斉から老中首座として復帰を許された。これは対外的な危機感を強めていた松平定信が縁戚に当たる牧野を説得し、また林述斎が家斉を説得して異例の復職がなされたとされている。ただし家斉は信明の権力集中を恐れて、勝手掛は牧野が担っている。 文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地として永久上知した。また幕府の対応に憤激したレザノフの指示を受けた部下のニコライ・フヴォストフ(ロシア語版)が単独で文化3年(1806年)9月に樺太の松前藩の番所、文化4年(1807年)4月に択捉港ほか各所を襲撃する事件も起こり、信明は東北諸藩に派兵させて警戒に当たらせた(文化露寇(フヴォストフ事件))。またこのような対外的緊張から11月からは江戸湾防備の強化に乗り出し、砲台設置場所の選定なども行なっている。 文化5年(1808年)8月15日にはイギリスによるフェートン号事件も発生し、文化8年(1811年)には蛮書和解御用を設置して外国知識の吸収を図った。この文化8年(1811年)にはゴローニン事件も起きている。 経済・財政政策で信明は緊縮財政により健全財政を目指す松平定信時代の方針を継承していた。しかし蝦夷地開発など対外問題から支出が増大して赤字財政に転落し、文化12年(1815年)頃に幕府財政は危機的状況となった。このため、有力町人からの御用金、農民に対する国役金、諸大名に対する御手伝普請の賦課により何とか乗り切っていたが、このため諸大名の幕府や信明に対する不満が高まったという。 文化14年(1817年)、在職中に危篤に陥る。これを機に将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企て、側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて寺社奉行の阿部正精を大坂城代、京都所司代などの歴職を飛び越えさせて老中に抜擢した。家斉が信明以下の幕閣の口煩い者、即ち寛政の改革を踏襲する者を遠ざけ、自身の都合のよい人材を抜擢した形だが、当然のように彼らの老中在任中は空前の賄賂政治が横行することになった。 信明は同年8月16日(幕府の届出は8月29日)に死去した。享年55。跡は次男の信順が継いだ。
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