老中首座・幕政主導とは? わかりやすく解説

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老中首座・幕政主導

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:05 UTC 版)

堀田正睦」の記事における「老中首座・幕政主導」の解説

天保14年1843年)閏9月老中辞任した後は、佐倉戻って再び藩政改革尽力し一定の治績挙げた幕末においては攘夷鎖国時代錯誤であることを痛感し一刻も早く諸外国通商すべきという開国であった安政2年1855年10月2日安政の大地震起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷したその1週間後の10月9日当時老中首座であった阿部正弘推挙受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座譲られた。この時、外国老中兼ねた。この正睦の老中再任に対して徳川斉昭蘭癖である正睦に好感持てなかった事から反対し、島津斉彬静観した。また立花鑑寛松平慶永らは正篤は招聘された「看板であって実権阿部掌握していると見ていた。確かに阿部死去する安政4年1857年)までは実権握っており、正篤は首座とはいえ飾り近かった。ただし正篤を立てる事で阿部矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交内政問題などからの激務阿部体調思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商意見持っているなどした事が、阿部推挙され理由であるとも思われる安政3年1856年)、島津家から13代将軍・徳川家定輿入れした篤姫の名を憚り、正睦と改名する安政5年1858年)、アメリカ総領事タウンゼント・ハリス日米修好通商条約調印求めて来ると、上洛して孝明天皇から条約調印勅許得ようとするが、条約調印反対する攘夷公卿たちが廷臣八十八卿列参事件起こし、さらに天皇自身強硬な攘夷論であったため却下され、正睦は手ぶら江戸へ戻ることとなった一方同年将軍・家定が病に倒れその後継ぎめぐって徳川慶福紀伊藩主)を推す南紀派と、徳川慶喜一橋徳川家当主)を推す一橋派対立する安政の将軍継嗣問題起きた。正睦は元々水戸藩徳川斉昭とは外交問題巡って意見があわず、従ってその子慶喜にも好感持てず心情的に慶福14代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都朝廷強硬な反対に遭って勅許得られなかった状況打開するには、慶喜将軍に、福井藩主の松平慶永大老推挙すれば、一橋贔屓朝廷態度軟化させて条約調印賛成する読み将軍継嗣問題では南紀派から一橋派路線変えた

※この「老中首座・幕政主導」の解説は、「堀田正睦」の解説の一部です。
「老中首座・幕政主導」を含む「堀田正睦」の記事については、「堀田正睦」の概要を参照ください。

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