老中から失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:48 UTC 版)
このように松平定信の改革は一定の成果をあげたが、その厳粛な厳しい政治は後に大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。また、幕府のみならず様々な方面から批判が続き、下記の尊号一件事件も絡み僅か6年で老中を失脚する。7月23日、定信は、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。これは、天明の大飢饉から幕府財政が回復しつつあるなか、対外問題、外交問題とまだまだ問題山積する中での突然の辞任だったため、当時、落首にて「五、六年金も少々たまりつめ、かくあらんとは誰も知ら川」と歌われた。 定信辞任の2ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年11月11日(1795年1月1日)からオランダ正月を開始し、光太夫も出席した。光太夫のキリスト教国からの帰国により、蘭学者勢力の隆盛をもたらした。 定信の辞任は尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。また、一橋治済の実兄である松平重富の官位昇進や治済の二の丸への転居も企てており、これを定信は尾張・水戸両家と共にこれを却下していた。以下の逸話が伝わっている。将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという。 寛政6年、定信の帰国が予定される中で、尾張・水戸両家は松平信明、本多忠籌に対し、下々が定信を惜しんでいると聞いているので御用部屋にて政治に関与しているように装うべきではないかと伝えた。だが、当時幕閣内部においても定信の政治の独裁的傾向への反発が強まっていた。両名は世上では彼を惜しんでいるというが、皆がそういうわけではない。彼を世上の感情のみを配慮して用いるのは、政治の軽視にあたる、などと拒否している(p152-153)。 だが、定信引退後も幕府には、三河吉田藩主・松平信明、越後長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信の政治方針を引き継いだ老中達がそのまま留任し、その政策を引き継いだ。彼らは寛政の遺老と呼ばれ、寛政の改革の路線は維持されることとなった。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
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