対外問題
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「ルクセンブルクの歴史」の記事における「対外問題」の解説
1918年2月、パリにおいて10カ国により会議が開かれたが、ベルギーはルクセンブルクの併合を強硬に推し進めようとしたが、これをフランスが阻止した。ルクセンブルク首相エミール・ロイターは会議でルクセンブルクの独立維持を訴え、その結果ヴェルサイユ条約では永世中立の義務は解消された。ルクセンブルクは戦前と同じ地位を確保することとなったが、ここにはフランスとベルギーの存在が関係しており、ベルギー軍がルクセンブルクを占領しようとした際にはフランスはそれを妨げていた。そしてアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの唱えた「民族自決」の精神もルクセンブルクの独立に寄与していた。 1918年9月28日、君主制か共和制かを選択する国民投票が行われたが、これは80%もの圧倒的多数で君主制の維持が選択された。さらに同時に経済同盟をベルギーもしくはフランスのどちらと選ぶかの国民投票も行われたが、これはフランスとの同盟を選んでいた。しかし、ベルギーと交渉を重ねていたフランスはこれを拒否、ベルギーを選ばざるを得なくなっていた。1921年7月、ベルギー・ルクセンブルク経済同盟協定が結ばれたが、これはルクセンブルクに不利なものであり、当初ベルギーとフランスが利益を得ることとなった。しかし、この経済同盟は以前のドイツ関税同盟とは違い、ルクセンブルクにも発言権があったため、やがてルクセンブルクの利益と化すこととなる。 しかし、この関税同盟も製鉄、アルコール、鉄道の諸問題で軋轢が発生、さらには1929年に発生した世界恐慌により破綻しつつあった。そして世界恐慌のために各国が保護主義に走り始めるとベルギー・ルクセンブルクの国境関税も復活、同盟は崩壊寸前であった。しかし、1935年、両国は交渉を開始、輸入割当と輸入税において共通政策が導入され、司令権はベルギーが握り続けたが、同盟内の自由通商の原則が再確認され、同盟は両国が対等な地位となった。 ヴェルサイユ体制の下、ルクセンブルクはそれまでのドイツ依存から抜け出し行動の自由を得ることとなった。確かにフランス・ベルギーにも依存していたが、以前のドイツほどではなく、さらに国際連盟にも1920年に参加、早期参加国となった。中立義務は廃止されたが、ルクセンブルク政府としては中立政策の維持を考えていた。1925年のロカルノ条約には参加しなかったが、その恩恵は受けることとなった。しかし1935年、イタリアのエチオピア侵攻により、その立場を変則的に適用しなければならず、イタリアへの経済制裁には参加するが、軍事制裁には参加しない立場を表明した。 1930年以降、ベルギーはフランス・ベルギー軍事協定から離れ、第一次世界大戦時の中立方針を採っていたが、1936年3月、ナチス・ドイツがラインラント駐留を開始すると状況が一変した。しかし、ベルギーが中立政策を取っている以上、ルクセンブルクも中立方針を放棄することはできず、1937年4月、ルクセンブルク首相ジョゼフ・ベッシュも中立政策は放棄しないと海外プレスの前で強調した。ベッシュは諸国から中立の保証を得るための活動を行ったが、イギリスを筆頭に各国はこれを拒否、1938年には国民の支持を得ているにもかかわらず、ルクセンブルクの中立の保証を得ることは成功しなかった。1930年代、外相を兼務していたベッシュは国際連盟の諸会合にも常に出席を続け、ルクセンブルクの中立を維持するためのありとあらゆる努力を行ったが、結局中立の保証を得ることはできず、第二次世界大戦においてナチス・ドイツの侵攻を受けることとなる。
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