琉球貿易と対外問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「琉球貿易と対外問題」の解説
幕命により長崎商法が停止された後、薩摩藩は復活嘆願を繰り返し行っていた。そのような中で天保14年(1843年)、長崎商法の停止を決断した老中水野忠邦が罷免された。水野は翌弘化元年(1844年)に老中に復職するが、弘化2年(1845年)に再び罷免された。また弘化元年(1844年)に福州在勤のイギリス領事が琉球館に貿易要求を突きつけ、フランス船アルクメーヌ号が同年琉球に来航してやはり開港を要求する等、琉球に対する外圧の高まりに幕府も危機感を強めていた。結局幕府は弘化3年(1846年)に長崎商法の復活を認めた。 弘化3年(1846年)5月、フランスインドシナ艦隊のセーシュ提督が琉球に来航する。セーシュは琉球に開国を要求し、清がアヘン戦争で少数のイギリス兵に敗北を喫したこと例に挙げて、鎖国政策は誤った政策であり、開国してヨーロッパ諸国との関係を結び、国を豊かにするよう提言した。しかし琉球側が提言を受け入れないと見るや、セーシュは更に現状の琉球は薩摩に支配されているが、そのくびきを脱するためにも開国すべきであり、判断を誤ればヨーロッパ列強のいずれかに併呑されることになり兼ねないと主張した。このセーシュの主張は琉球王国のみならず薩摩藩に深い衝撃を及ぼした。 セーシュと琉球王国との交渉についての情報を得た藩主斉興は、調所を老中阿部正弘のもとに向かわせ、対応策を協議した。調所の提案は、フランスの主張は強硬であり、琉球王国は「外藩」であるので琉球に限ってフランスとの貿易を認め、日本本土にフランス船がやって来ないようにしたいというものであった。薩摩藩と幕府との協議の結果、結局琉球王国独自の判断との形で琉球とフランスとの貿易を認める結論となった。幕府内には反対もあったが、阿部はフランスとの戦争となれば国体に関わる一大事となるとして、反論を封じた。 琉球とフランスとの貿易について幕府の了解を得た調所は、琉球に対してフランスとの貿易に踏み切るよう提案した。この調所の提案に対し琉球側は少量の国産品の交易以上のものは認めがたいと、事実上の拒否回答をした。琉球側の抵抗は根強く、またフランス側からの目立った再要求も無かったため、結局調所の琉球を通じた対フランス貿易構想は実を結ばなかった。
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