長崎商法の復活
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長崎商法の停止を主導した水野忠邦は、天保の改革に失敗して天保14年(1843年)閏9月に免職となる。その後天保15年(1844年)6月に老中に再任されるものの、弘化2年(1845年)2月には辞職した。水野に代わって幕政を主導したのが阿部正弘であった。阿部は島津家と親しく、長崎商法復活に向けて明るい材料となった。またイギリス船やフランス船が頻繁に琉球を訪れるなど、琉球に対する外圧は強まっていた。このような情勢の変化を睨み、薩摩藩は長崎商法再開に向けて活動を強化していった。 薩摩藩が長崎商法停止解除の切り札として利用したのは、やはり琉球からの嘆願であった。琉球の名で長崎での唐物商法復活の嘆願書を出させ、幕府に対して琉球救済のための長崎商法復活を求めるというやり方である。その結果、弘化3年(1846年)から向こう5年間、白糸、紗綾の2品目の長崎での販売が許可され、薩摩藩による長崎商法は復活する。幕府としては異国船が頻繁に訪れるという外圧が強まっている琉球を、援助する必要性の高さを認めざるを得ない事情があった。 長崎商法の復活が認められると、早速薩摩藩側は品目の拡大に向けて運動を開始する。再開が認められた弘化3年(1846年)中には、天保10年(1839年)の停止以前に認められていた16品目について年間銀1200貫目まで、5年間を期限として長崎での販売が許可された。ただし大黄、山帰来など5品目については品替えを指示されたため、薩摩藩側としては品替えの撤回に向けて運動を続けることになった。なお弘化4年(1847年)には5種の品替え指示は撤回された。 再開後、長崎商法は薩摩藩の琉球産物方を中心として運営された。そして薩摩藩側から琉球の渡唐役者らに対して、16品目商品買い入れに関して注文量を過不足なく購入することと品質の優れた品を入手すべきと、再び強い締め付けが行われるようになった。しかし1840年代後半以降、中国情勢が不安定になって商品の流通にも影響を与えるような状況となって、仕入れが思い通りに行かなくなることも多かった。記録に残っている再開後の長崎商法の取引高は、当初おおむね年間1200貫目の制限内に収まっていた。 なお再開後の長崎商法では、天保12年(1841年)の特例許可による販売と同様に、長崎会所側が取引全般を把握主導する形で行われた、つまり琉球貿易で入手した唐物を薩摩藩が長崎に持ち込み、長崎会所を通じて販売するという形式となった。薩摩藩側は長崎商法で年間約7000両程度の利益を挙げていたと推定されるものの、その中から「長崎奉行、地役人たちへの挨拶」として相当額を支払っており、思い通りに純利益を挙げられない状況となっていた。
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