復活嘆願の継続と石本家の没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「復活嘆願の継続と石本家の没落」の解説
薩摩藩は長崎商法の停止によって大きな打撃を受けた。天保13年(1842年)2月の石本家の石本平兵衛(隠居後の五代勝之丞)の書状には、文政8年(1825年)以降順調に利益を挙げ続け、薩摩藩側にも仕送りをきちんと行えていたものが、長崎商法の停止によって資金繰りが深刻な状況に陥っていると述べている。このような状況下、藩主の斉興は調所広郷に唐物方の解散を命じ、調所は天保15年(1844年)1月に唐物方を廃止して新たに琉球産物方を発足させた。琉球にある唐物方の支所も産物方の支所となり、鹿児島の琉球館在番親方が琉球側を代表して琉球産物御用掛を兼務するなど、体制の再構築が図られた。 調所はこの新設の琉球産物方を中心として長崎商法の復活をもくろんだ。実際、琉球産物方は幕府との復活交渉の中核となった。調所本人も復活を目指して江戸、京都、大坂、長崎、尾張名古屋、紀州和歌山等を奔走して有力者に働きかけを行っていたことが幕府隠密にキャッチされている。 ところで薩摩藩が長崎商法の復活運動を進める中、薩摩藩と連携して長崎商法を運営してきた石本家が没落する。天保13年(1842年)10月、長崎町年寄の高島秋帆が捕縛され、高島秋帆に連座する形で石本平兵衛(隠居後の五代勝之丞)と六代勝之丞親子にも嫌疑がかかり、長崎奉行所に呼び出しの上で入牢となった。天保14年(1843年)3月には両名とも江戸送りとなり、江戸へ向かう途中で六代勝之丞は病死し、江戸で取り調べ中の天保15年(1844年)3月、石本平兵衛も入牢中に病死した。
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