長崎商法の矛盾の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:47 UTC 版)
「薩摩藩の長崎商法」の記事における「長崎商法の矛盾の激化」の解説
弘化3年(1846年)、薩摩藩の琉球産物方を中心として運営された再開後の長崎商法の中で、抜荷問題が頻発するようになった。積荷の多くが長崎商法に関係する荷物で占められた上に、薩摩藩側の買入価格も低く抑えられてしまえば、思うように利益が挙げられない渡唐役者たちは必然的に抜荷に手を染めるようになる。その上、中国国内での物価上昇に伴って輸入品購入費用が高騰していた、その一方で琉球産物方から購入する主力輸出品の昆布の値段が上昇しているのにも関わらず、中国国内では逆に価格が下落してしまっていた。そして輸入品に関する制約が多いため、利幅が大きな商品を十分に仕入れられないなど、薩摩藩の唐物商法に協力を強いられる琉球の貿易関係者たちの困窮状態は悪化していた。 渡唐役者ら琉球貿易関係者の困窮の訴えを聞きつけた薩摩藩側は、琉球王府に対して事情を確認した。琉球王府は嘉永5年(1852年)5月、摂政、三司官からの返答の中で、昆布の入手価格の高騰などもあって琉球貿易関係者の経済状況は極めて厳しい状況に追い込まれていることを説明した上で、琉球産物方の昆布価格の引き下げ、そして産物方の商品買取り価格の引き上げを要求した。そしてそれら要望が叶えられて初めて抜荷も止まるだろうし、「琉球の救援のため」である薩摩藩の唐物商法の目的にも叶うであろうと主張した。これを受けて薩摩藩側も昆布などの琉球産物方売り渡し価格を一割引き下げ、一方、16品目等の買い入れ価格については一割引き上げることを認めた。
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