長崎商法の拡大開始
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「長崎商法の拡大開始」の解説
文化7年(1810年)に5年間の期限付きで与えられた8種の唐物販売許可は許可延長となったが、品目と金額の拡大を巡る薩摩藩側と幕府側とのせめぎ合いは延長後、より激しくなった。そのような中、幕府側に大きな変化が起きる。文化13年(1816年)10月、財政部門を担当していた勝手掛老中の牧野忠精が病気のため老中を辞め、続く文化14年(1817年)8月、老中首座の松平信明が亡くなった。このように寛政の遺老と呼ばれる人材が幕政の表舞台から姿を消していく中で、幕政の実権を握ったのが将軍家斉の側近である水野忠成であった。 ちょうど同じころ、薩摩藩も琉球も財政的に極めて厳しい状況に追い込まれていた。文化13年(1816年)4月、薩摩藩は幕府から美濃、伊勢、尾張の河川改修のお手伝いとして77664両の負担を命じられた。一方琉球ではやはり文化13年(1816年)、干ばつ、大風によって激しい飢饉に見舞われ、特に飢饉がひどかった宮古島では1500名以上が餓死するという深刻な状況であった。さらに同年9月にはイギリス船アルセスト号とライラ号が沖縄本島周辺に現れ、約40日間測量を行った。島津重豪は飢饉に見舞われ疲弊した琉球を支える財政難の薩摩藩という姿勢を前面に押し出し、売上代金の一割を長崎会所に納入するという新たな提案を加え、幕府側に要請を繰り返した。重豪としてはこれまでの寛政の遺老が主導権を握っていた状況から、将軍側近の水野忠成が権勢を強めつつある幕政の動きも計算に入れての行動であった。 重豪の執拗な要請に対し、幕府側は当初慎重であった。これはやはり琉球貿易で入手した唐物を長崎で本格的に販売するということは、対外貿易を独占するという幕府の基本方針に抵触するものであるという判断があった。しかし清の冊封国でもある琉球の衰微は幕府の威信に関わることであり、しかもイギリス船が約40日間沖縄本島周辺を測量していったことから、琉球が外圧に見舞われていることも考慮しつつ、琉球の救援、そして琉球を支える薩摩藩への支援の名目で、文政元年(1818年)4月、てぐす、硼砂、桂枝、厚朴の4品、年額銀2070貫目までを3年間の期限付きで長崎での販売が認められ、総売り上げの2割と雑費を長崎会所に納入することになった。長崎会所は琉球貿易による唐物の長崎での販売に対して強硬に反対し続けていたが、琉球と清との冊封、進貢関係の破綻は幕府の威信低下を引き起こすとして押し切った。
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