大きな変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 17:14 UTC 版)
1917年、アメリカ合衆国は第一次世界大戦に参入し、農夫を始めあらゆるアイオワ州の人々が戦時経済を経験した。農夫にとってこの変化は重要だった。1914年に戦争が始まって以来、アイオワ州の農夫は経済的繁栄を経験した。農夫ならどこの者でも、その生産量を増やすことで愛国者になることを奨励された。農夫たちは多くの土地を購入し、戦争遂行のためにトウモロコシ、牛肉および豚肉の生産を上げた。農夫として活動を拡げ利益を上げ、それと同時に連合国を助ければ何も失うものはないように見えた。 しかし、戦後のアイオワ州農夫は直ぐに農業補助金が外されることを経験した。1920年以降、多くの農夫は戦中に導入した負債の返済に窮した。1920年代はアイオワ州の農家やその他多くの家庭にとって厳しい時代であり、その苦しさは1930年代まで持ち越された。 経済的な困難さが悪化するにつれて、アイオワ州の農夫は地元での解決法を見付けようとした。著しく低い農産物価格、例えばトウモロコシは1ブッシェル10セントで豚肉は1ポンド3セントだったが、そのような事態に直面したアイオワ州の農夫たちはファーム・ホリデイ同盟に加盟した。この集団はスーシティ周辺で最大の力があり、市場から農産物を控えようとした。かれらはそうすれば農産物価格があがるものと考えた。ファーム・ホリデイ同盟は、多くの農夫が協力せず、出荷制限も価格を上げる効果がほとんど無かったので、成功とは言えなかった。連邦政府がフランクリン・ルーズベルトのニューディール政策の一環として連邦農業補助プログラムを創出したので、1933年までは農家の苦境が幾分緩和された。 1933年、アイオワ州生まれのヘンリー・A・ウォレスが農務長官としてワシントンに行き、新しい農業政策のための基本立案者として働いた。ウォレスは中西部で指導的な農業誌「ウォレスズ・ファーマー」の元編集者であり、農産物生産量を削減しさえすれば、農業に繁栄が戻ってくると信じた。さらに、農夫たちは農業用地を生産調整し、それに対して補償されるべきと考えた。この2つの原則が1933年に成立した農業調整法に盛り込まれた。アイオワ州の農夫はこの法制化によって幾分の回復を経験したが、他の全てのアイオワ州民と同様、1940年代まで完全な回復は無かった。アイオワ州で唯一のノーベル賞受賞者ノーマン・ボーローグがアイオワ州立大学で予算化した研究で植物遺伝学の研究を始め、メキシコにおける米の品種を改良させ、これがヘンリー・A・ウォレスの仕事から出てきたことは注目に値する。ウォレスとボーローグの仕事は現在、デュポンのパイオニア・ハイブリッド部門という国際的に重要な農業企業を創ることに貢献した。高い生産性のある食品の遺伝子操作における長期開発について司法の判断は出ておらず、農業基質の遺伝子操作に強く反対する者はいるが、人間の農業の歴史で確かに大変重要な発展ではある。 第二次世界大戦以降、アイオワ州民は経済、政治および社会の相当な変化を経験し続けている。政治の分野では、1960年代に大きな変化があり、酒に1杯売りが可能になった。19世紀から20世紀前半まで、アイオワ州民は禁酒法を強く指示したが、1933年に国全体の禁酒法は撤廃された。アイオワ州民は州の酒類委員会を創設した。この集団はアイオワ州での酒類販売について支配と規制に関わった。1933年から1960年代初期まで、アイオワ州民は包装された酒類のみを購入できた。1970年代、州議会による公平な議席配分の長い議論の後で、新しい州議会の再配分が行われた。その他の政治的な大きな変化は投票に関するものだった。1950年代半ばまでに、アイオワ州は、100年間続いた共和党の支配体制を終わらせ、2大政党が競い合う時代となった。 経済部門でも大きな変化があった。1870年代に最初の農業関連産業が始まり、事業や工場の数が徐々に増えていった。第二次世界大戦以降、特に製造工場が増加した。農業が州の主要産業であり続ける一方で、冷蔵庫、洗濯機、万年筆、農機具および加工食品など多様な製品が生産され世界中に出荷された。
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