飢きん
き‐きん【飢×饉/×饑×饉】
飢饉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 03:51 UTC 版)
飢饉(ききん、英: famine)とは、何らかの要因によりその集落に住む住人が飢餓状態に陥ることを指す。狭義においては、一地域における死亡率を急激に上げるような極端な食料不足の事態を指すことが多い。「饑饉」と書くこともあり「饑」は穀物が稔らないこと、「饉」は蔬菜(野菜)が熟さないことを指す[1]。
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- ^ 二木敏篤, 井手口敬、「飢饉の歴史地理学的研究 : インドを中心として[3] 『九州産業大学国際文化学部紀要』 7, 49-60, 1996-11, hdl:11178/2998, NAID 110000979581
- ^ 田内堯、「アフリカに対する技術協力」『農業土木学会誌』 1986年 54巻 1号 p.47-54,a1, doi:10.11408/jjsidre1965.54.47
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- ^ FAO How the world is fed
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- ^ 鈴木棠三 広田栄太郎 編 『故事ことわざ辞典』 東京堂出版 1968年 p.62
- ^ 岩手の欠食児、年末には5万人を越すか『東京朝日新聞』昭和9年10月12日、木の実、草の根も食べ尽くして『東京朝日新聞』昭和9年10月14日(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p461-462 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『春秋戦国』, p. 55.
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- ^ a b 貝塚茂樹 『中国の歴史 中』p.13
- ^ 『越境の古代史』, p. 147.
- ^ 『三国史記』
- ^ 『越境の古代史』, p. 146.
- ^ 『日本古代史「争乱」の最前線』, p. 313-318.
- ^ a b 『日本古代史「争乱」の最前線』, p. 313.
- ^ 『三国史記』889年条
- ^ 『日本古代史「争乱」の最前線』, p. 318.
- ^ 古田元夫「ベトナムの1村落における1945年飢饉の実態:タイビン省ティエンハイ県タイルオン村ルオンフー部落に関する日越合同調査報告」『歴史学研究報告』第22号、東京大学教養学部歴史学研究室、1994年3月、125-160頁、CRID 1520853833914454528、doi:10.11501/2298744、ISSN 0493430X。
岡田建志「《書評》ヴァン・タオ古田元夫著『ベトナムにおけす1945年飢饉-歴史の証拠』」『東南アジア -歴史と文化-』第1996巻第25号、1996年、137-140頁、doi:10.5512/sea.1996.137。 - ^ a b c ベトナム戦争 : サイゴン・ソウル・東京, p. 193
- ^ ベトナム戦争 : サイゴン・ソウル・東京, p. 192-193.
- ^ Glantz, David (2001), The Siege of Leningrad 1941–44: 900 Days of Terror, Zenith Press, Osceola, WI, ISBN 0-7603-0941-8
飢饉
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「東北凶作」も参照 古来、この地方では飢饉が非常に多く、その度に多大な死者を出していた。特に、慶長5年(1600年)から明治3年(1870年)の盛岡廃藩までの270年間を通じて断続的に飢饉が続き、その間に、記録に残っているだけでも不作が28回、凶作が36回、大凶作が16回、水害が5回あった。 特に沿岸部(閉伊・九戸・三戸地方)においては、やませと呼ばれる冷風による被害が甚大で、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて起った全国的な大飢饉(天明の大飢饉)では収穫が0という惨状であった。 また、藩経営が潤滑に進まなかったため備蓄が少ないばかりか、農地も農作物も無いという状態に陥ったことが、死者がさらに増えた原因であるとされている。東北地方の太平洋側では、初夏になると、「やませ」と呼ばれる冷涼な北東風が吹き、夏でも気温が上がらず、明治以降においても、冷害が凶作をひきおこしたことがある。北奥に位置する南部藩は領域こそ広大だが、そのほとんどが山林原野によって占められて耕作適地が少なかったうえに、当時の水稲生産の北限域に近く稲作に適さない土地であった。しかし幕藩体制は石高制に基づいて、つねに財政的基盤を畑作より水稲生産力に求めていた。この構造的な矛盾と、天候不順に起因する冷害と、旱舷・風水害・霜害・病虫害・獣害を原囚とする凶作を契機にして、飢饉が多発し多数の飢人と餓死者を出していた。 特に被害の甚大であった元禄・宝暦・天明・天保の飢饉は盛岡藩の四大飢饉といわれ、凶作・飢饉の続発で藩財政を圧迫し、重税とそれに反対する一揆が繰り返されてきた。一揆については次節で詳述する。
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「飢饉」の例文・使い方・用例・文例
- 飢饉に病気はつきものだ
- 人類は依然として飢饉と戦争に苦しんでいる
- 飢饉は不作によって起こる
- 多くの人が飢饉のために餓死した
- 収穫がもっと悪くなれば、飢饉が起こるかも知れない。
- 飢饉の見通しが世界の多くの地域に迫っている。
- 飢饉のために、家畜が餓死した。
- 飢饉に病気はつきものだ。
- 飢饉に直面してもあなたは食べ物を他の人と分かち合うことができますか。
- 飢饉が人々にひどい窮乏をもたらした。
- 我々に飢饉が迫った。
- 火山の噴火に続いて飢饉が訪れた。
- たいてい、飢饉になると疫病も発生する。
- その長い干ばつの後に飢饉が起こった。
- これらの国はしばしば飢饉に襲われた。
- その飢饉で何人もの人が死んだ.
- 燃料[石炭]飢饉.
- 我々に飢饉が迫った.
- 戦争の後に飢饉が起こった
- シベリアは飢饉だ
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