飢饉の報告とソ連政府の対応
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「ホロドモール」の記事における「飢饉の報告とソ連政府の対応」の解説
1932年春にはすでに飢饉が発生しており、ウクライナ農民には一人当たり約113kgの穀物しか残っていなかった。ウクライナ共産党員も餓死の報告と飢饉の危険を訴え、ソ連当局にも飢饉の報告はあがっており、1932年6月にはハルキウのすべての地区での餓死が報告された。 しかし、1932年6月21日、スターリンとモロトフ人民委員会議議長(首相)は、ウクライナ共産党に宛てて「穀物提出の計画からのいかなる逸脱も許さない」と通達した。共産党新聞プラウダは、ウクライナへの不満をしきりに報じ、1932年7月にはスターリンがふたたび770万トンの供出を命じた。 同7月のウクライナ共産党の第3回大会でミコラ・スクリプニク(英語版)、チュバーリ、コシオールらは苛酷な徴発がウクライナ農業を破壊しているため、穀物徴発計画の見直しを党中央本部に上申したが、無視されたり、またそのような党に逆らう意見は「ブルジョワ的偏向」だとして断罪された。モーロトフは未来に対する計画を非難することは「反ボルシェビキ的」で、「党と政府が決めた仕事を完遂することになんの譲歩も、なんの躊躇もあってはならない」と反論した。ウクライナ共産党のR.テレコフが1932年にハリコフの惨状を訴えると、スターリンは「飢饉の作り話をするなら作家になれ」と回答した。 スターリンは非公式に飢饉を認めたともされるが、計画通りに穀物の徴発を続けるよう命じた。なお、ロシア内戦の際、1921年にウクライナでは何十万人が餓死したことをスターリンは知っていたので、飢饉を回避する考えはスターリンになかった。 スターリン、モロトフ、カガノビッチらは、飢饉の原因について以前はクラークが穀物を隠していたためと説明してきたが、ウクライナでの飢饉の原因はウクライナ人にあると主張した。スターリンは飢饉の原因は農業集団化政策でなく、ウクライナの農民が「めそめそ泣いて」ソビエト国民を混乱させていると不満を述べたうえで、カガノーヴィチ、モロトフなどの忠実な盟友に「ウクライナの不穏分子を叩き潰せ」と命じた。1932年7月ハルキウでのウクライナ共産党中央委員会総会における現地の飢饉の報告に対して、カガノーヴィチとモロトフらモスクワ特使たちは報告者を黙らせた。他方、8月11日にスターリンは、カガノヴィッチに「われわれはウクライナを失うかもしれない」とも吐露した。 1932年夏にはカザフスタンでも100万人が餓死した。
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